ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

無意味の意味

2015年09月28日 | ノンジャンル
災害や事故などが頻発し、昨日まで元気な笑顔を
見せていた人々を一瞬で失うという、悲惨な
ニュースが多くなってきた。

被害に遭われ、あるいは犠牲となった方々には
心からの哀悼と同情を申し上げたい。

こうした突発的な事態に際し、常に問題となるのが
生き残った人達の心の問題である。
当事者は、自分が生き延びたことの喜びよりも
むしろ亡くなった人達への申し訳なさに
苦悩することが多い。

なぜ自分ではなかったのか、なぜ、彼ら、彼女らが
死ななければならなかったのか。

おそらくは、心の傷がいえる過程として、その苦悩は
必要不可欠なものなのかもしれない。

だが、そこに意味を持たせようとすると、それは
生き延びたものの自己満足にすぎない。

なぜならそこに意味などないからである。
玉子を十個、同時に放り投げれば、割れるものも
割れないものもある。

そこに意味を見出そうとしても無理なのだ。

生き延びた者が苦悩するのは、自身の以降の生き方を
決するための苦悩であり、亡くなったものには関係ない。
ただ思い悩み、座して生きる屍のように暮らしたところで、
亡くなったものが蘇るわけでもない。

ここで問いかけは、何のために生まれてきたのかと
同じこととなる。
なぜ自分が生き延びたのか。

この問いかけは以前にも述べたが無意味である。
生まれてきた事実、生き延びた事実を受け止め、
いかに生きるかを決めて行動していくとき、それが
その人の意味となるのである。

それはつまり、無意味の中より、意味が生み出された
こととなる。

過去を振り返ることは、時に自身の原点、初心を
思い起こす意味で必要なことではあるが、
いかに生きるかを問うなら、どのような形であれ、
行動するしかないのである。

思索は必要ではあるが、それが瞑想となり、行動が
伴わないのであれば、そこには何の意味もない。
自身の生き方を決めるということは、自身の存在の
意味を自ら生み出すということなのである。

そして、無意味なものから意味を生み出すことが
できるのが人間であり、その点で、人の可能性は
無限の広がりを見せる。

今こそ、自らの生き方を改めて見つめ直す時では
ないのか。

遺されたものの苦悩に思いを馳せる時、
自らの生き方に対し、襟を正して向き合わずには
いられないのである。




2015年09月11日 | ノンジャンル
おそらく、人として最も安らかな場所は
母親の胎内であろう。

その宝浄世界から、下界へ出されるとき、
すでに不安や不快で、泣き出すのも無理はない。

生まれる時にすでに人は涙する。
生きることは、楽しい事も、嬉しい事も、
悲しい事も、苦しい事も、それが極まれば
涙なくしてはやりすごせない。

歳をとれば、それまでの様々な経験が、
心の琴線を多くし、敏感にさせる。
感じやすくなる分、涙もろくなるのである。

人は泣きながら生きていく。
喜びにあふれたなら涙する。
悲しみに包まれても涙する。

恥じることはない。泣きながら
生きていこうではないか。

どうせ泣きながら生まれてきたのである。
何を今さら、恰好をつける必要もない。

死ぬときもまた、泣きながら逝くのである。
ただ、それが満足の涙なのか、後悔の涙なのかは、
今をどう生きるかにかかっている。




大義

2015年09月10日 | ノンジャンル
人はその行動において、常に大義というか、
意味を求めたがる。

その根本には、自身がこの世に生れ出た意味と、
生きる大義を見出したい願望がある。

なぜ今の時代に、意識ある自分自身として
この世に生れ出たのか。

結論から言うと、これは一生かかっても
誰にもわからない。

自分探しなど、所詮は無駄である。
本当の自分は探さなくても自身の内にある。
それを直視するか、ごまかすかの差にすぎない。

人は死ねば、生まれ変わるという。
あるいは、それで終わりともいう。
または別の世界で永遠に生きるともいい、
同じく連続して転生を繰り返すともいう。

だがそんなことは誰にもわからない。
死んだ者もそれを認識することはできない。

つまり、生まれ出た意味など知ることはできないし、
その意味すらあるのかどうかも分からない。
よってそこにあるのは自身の意志である。

この世に生れ出た以上、どう生きていくのか。
その人生の主題はなんなのか。
それを自身で決めて、信ずることで、初めて
その人の生まれ出た意味に置き換えることができる。

要するに自分で決めるということだ。

大義とか意味とかに縛られずに、人は自身の
生き方を自身で決め、それを自身の意味と
信じて生きていく。

そしてそれがもたらすものが、建設か、破壊か、
人を幸せにするのか、不幸にするのか、
喜びをもたらすのか、悲しみをもたらすのか、
希望を導くのか、絶望をもたらすのか。

それを善と悪というのである。

人にとっての最も大きな課題は、この善悪の
認識と判断と行動なのである。

どれほどの大義があろうと、仮にそれを誰もが
正義と信じようと、それがもたらすものが
破壊と悲惨と犠牲と不幸ならば、断じてそれは
悪なのである。

死というものが決定している以上、生もまた
決定している。
あとは、生の時に、どう考え、どう行動して
いくのかのみなのである。




カミさん

2015年09月03日 | ノンジャンル
かなり昔、カミさんの語源について考えてみた
ことがあった。

結論として、神さんと敬って、拝む気持ちで
過ごせば、日々穏やかに暮らせるだろうとか
なんとかだったと思う。

と、偶然、お母さんの語源から、この謎が解けた。

カミさんは、「日身」さんらしい。

つまり、太陽の身体がカミさんの語源らしい。
ここから、かかあ、おっかあ、おっかさん、お母さんと
なったようだ。

「元始、女性は太陽であった」は正しかったのである。

生命を産み、育み、愛情を惜しげもなく降り注ぐ
その姿は、まさしく太陽であろう。

これからは、太陽さんのつもりで、
カミさんと呼ぶことにする。




断酒吉日

2015年09月01日 | ノンジャンル
吉凶を占うおみくじも、今日の運勢も、
気にもしなければ、興味もない。

不幸と思える出来事も、幸せへの
起点となることもあり、幸せな出来事も
不幸の原因となることもある。

独りということを、とことんまで
突き詰めれば、最後は自身の行動が全てとなる。

その意味で、断酒した日は吉日となり、
飲酒した日は凶日となる。

占いでも運勢でもない。
自分の行動によって決定された
結果である。

いくら運勢の良い日であっても、
飲めば凶日となる。
ここを冷徹に見極めることから、
自身の行動を律することができる。

それは自身を縛ることではない。
生きる方向付けをするということだ。

この病気のことを理解したなら、
自身の行動によって、日々を
断酒吉日としたいものだ。

もちろん、飲酒凶日とするのも
その人の自由ではある。
だが、わざわざ凶のおみくじを引く必要は
ないではないか。