ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

往者不追 来者不拒

2017年11月30日 | ノンジャンル
往く者は追わず、来る物は拒まずという、
孟子の流儀である。

このブログも、コメントを頂く方は限られているが、
いつも閲覧して頂いている方も多く、掲示板から
メールを頂くこともある。

一口にアルコール依存症といっても、
コントロールを失った以上、断酒しかないという
一点を除けば、千差万別である。

その経緯、精神的背景、回復の途上と、人によって
様々であり、一括りに論ずることはできない。

よって、例会では、言いっ放しの、聞きっ放し
であり、互いに持ち帰るべきものがあれば、
持ち帰り、そうでないものは、いわゆるスルーで
いいのである。

そこには、自身の赤裸々な体験があるのみで、
議論や意見交換など必要ない。

このブログも同じことで、どなたでも来て頂いて
結構であるし、なんだつまらないと、
去って頂いても一向に差し支えない。

自身の吐露することが、他人様のお役に立てれば
本望であるし、そうでなくとも、自身の吐露で
終わるならそれもまた由である。

昔、マラッカだったか、教会近くの寺院の門に
この言葉が両脇に大書されていた。

翻って、今の世の中、来る者を拒んでおきながら、
往く者を追いかけるという、矛盾が多い気がする。





安らかに

2017年11月28日 | ノンジャンル
呼吸が止まり、心臓が止まり、代謝が停止し、
肉体を構成していたものが全て不可逆的に
滅んでいくのが死である。

脳死は脳のみが不可逆的な滅びに向かった状態で、
いわば部分死である。

しかるに、人として生きることはもうできない。
意識を取り戻すこともない。
その生体を維持することができるだけである。

ここに臓器移植を可能にするために脳死を死とする
定義づけが必要となった。

脳死は、人の死であって、生体の死ではない。

さて、死という不可逆的な崩壊に向かうとき、
いわゆる生体としての苦しみはあるはずである。

意識も感覚もなくなる以上、苦しみというのは
おかしな言い方だが、確かに崩壊の苦しみはある。

人の死に際して、「安らかに」というのは、
直後ではなく、その崩壊の苦しみから
解き放たれて、風塵となった時にこそふさわしい
言葉ではないか。

これをもってしても、生命の誕生と死というのは、
いわゆる、オン・オフではないのである。

現代では火葬が主流で、どうもこの感覚が
理解しがたいであろうが、土葬や、掘り返しの
風習が残る地では、本当の「安らかに」が
根付いているのである。





消せぬもの

2017年11月25日 | ノンジャンル
急性アルコール中毒は死に至る。
それは、呼吸、心拍の機能マヒとなるからである。

これを以て言えるのは、アルコールは人体に
とっては薬物であり、毒物ともなる。

さて、これとは根本的に違うのだが、いわゆる
慢性のアルコール中毒は、現在ではアルコール
依存症という病名となっている。

これは、生命維持の呼吸、心拍マヒには至らない
ものの、恒常的に脳が部分的なマヒ状態を
心地よく感じ、維持しようとするものである。

このマヒの維持は、日常生活に大きな影響を
もたらし、身体的にも外郭から徐々に機能を
害していき、最終的に死に至ることも珍しくない。

私の場合は20年以上の歳月をかけて、
死の直前にまで至った。

ここからの回復は、同じ歳月の20年を必要とは
しない。おそらく、身体的には1年、精神的には
7年もあればほぼ回復する。
無論、断酒が大前提である。

ところが、この回復は、20年間の飲酒を
リセットするものではない。
その飲酒経歴の上に立った回復である。

ここのところを勘違いする人が多い。

自転車に乗れる人が、10年間乗らなかった
としても、もう乗れなくなっているわけではない。

泳げる人が10年間泳がなかったからといって、
泳げないわけではないのである。

これはむしろ意識下というよりも無意識下の
話である。

意識上でどう考え、判断しようと、20年間の
飲酒履歴は自身の内に厳然と残っている。
それは、意識して消すことは不可能なのである。

20年かけて自身の内に積み重ねてきた無意識の
記憶は、消しようがないのである。

消し様のない記憶を持っていると意識して、
飲まない生き方を継続していくしかない。

初めは少し戸惑うかもしれないが、自転車に
乗るのも、泳ぐのも、すぐにできるようになる。

脳がマヒの快感を思い出してしまうのは、
想像以上に容易いことなのである。