ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

現場主義

2010年05月25日 | ノンジャンル
お台場にいるからというわけではないが、有名なセリフ、
「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ!」
を思い出した。

彼がこのセリフを口にした時より、10年以上前から、
私はこのセリフ通り、現場主義者であり続けている。

理由は、簡単である。現場でしかわからないことが多いからだ。
いくら情報が多くとも、映像や鮮明な資料があろうと、現場には
現場に流れる独自の空気がある。
それに触れなければ、見えないことが多いのである。

私は、現場が好きである。つまりその空気に触れることが
好きなのである。物事の実態を見るには、いや、感じるには、
現場に出るしか方法がない。

今年は、年明け早々から、現場での仕事ばかりである。
それだけ、予期も想定もしていない事態に陥ったり、
様々な突発的な問題が惹起したりと、必要十分以上と思われる
周到な準備をしていても、結局、現場で臨機応変に、
柔軟に対応せざるを得なくなる。

不安と緊張、うまくいくようにと祈るような想い。
時に、もう投げ出したくなったり、どうでもいいかと
開き直りたくもなる。
あるいは、絶望的な状況の中で、進退極まることもままある。

だが、そんな中で智慧を振り絞り、手を打つ中で、打開の光が見え、
解決につながったときほど、無上の喜びを感じる時はない。
「問題発生!」という時に、いやな予感と不安と同時に、
変な期待と良い意味での緊張に包まれる。

あの感覚も、なんだかわくわくする感じで嫌いではない。

さて、断酒を継続していくことにおいての現場主義は、
ブログでも掲示板でもない。
家で抗酒剤を服用する。通院する。例会に出席することである。

病識を得ることは重要ではあるが、現場とは行動である。
思い悩んで、逡巡している暇はない。行動の中で物事を感じ、
自らの実感としていくなかに、断酒の継続の喜びを得ることが
できると信じている。

これからも、私の信条としては、死ぬまで現場主義で
生きたいのである。



練達

2010年05月22日 | ノンジャンル
アメリカの統計では、人生でもっともストレスが高い時期が
20~30代。その後、40代には少し下降し、50台以降は
急激に下がるという。

熱と力にあふれる若い頃は、突っ走る勢いというものがある。
それは善い悪いではなくて、そういう時なのである。
周りを見る余裕もなく、ただひたすらに駆け抜ける。

そういう時だからこそ、仕事、結婚、子育てなど、
言うなれば最も不安と希望に満ちた、高いストレスの時期を
生きることができる。

その時期に不可欠な、熱と力がなければ不幸である。
いや、自分にはないと勘違いしているだけともいえる。
本来、若さとは、エネルギーにあふれているものだ。

さて、自分の欲求を満足させるのに精一杯であった時期を過ぎ、
一息ついて落ち着く頃がどうやら50代以降である。

様々な衰えを感じつつも、同時に周りがよく見えるように
なってくる。だからこそ、周りが幸せであることに喜びを感じ、
それを自身の満足ともできるようになる。

自分に残された時間を意識するようになるのもこの頃であろう。
人生を心から楽しむ。生きていることに感謝する。
そして周りに感謝する。そういうことが自然にできるように
なってくる時期でもある。

ストレスの急降下は、その辺りにあるのかもしれない。
その置かれている状況によって、人それぞれではあるが、
少なくとも、自分で精一杯という50代を迎えたくはない。

娘もこの6月で18歳。私がおじいちゃんとなるのも、
そう遠い話ではなくなった。

まだまだ、子供と大人が同居しているような自分ではあるが、
いつか孫に出会えたなら、「じいちゃんは面白いな。」と
言ってもらえるように、
そして、同時に、「じいちゃんはかっこいいな。」とも
言ってもらえるようになりたいものである。




デザート

2010年05月20日 | ノンジャンル
甘いものが嫌いだった私には、食後にデザートを食べるなど
あり得ない事であったが、普段でもコーヒーとともに
ケーキなどを頂くことが多くなった。

お客様との外食でも、しっかりデザートを平らげるようになって
久しいが、時にこのデザートが曲者となる。

初めは気づかなかったが、アイスクリームの上にとろりとした
梅の原酒がかけられていた。

断酒初期なら、一杯のお酒どころか、一滴のお酒に拘っていた
時期であるから、当然それを食べることはなかったであろうが、
ある意味それは強迫観念にも似ていた。

そのデザートを前にして、私は何のためらいもなく、
食べるつもりでいた。それは、デザートである。
グラスに注がれたお酒を口に運ぶわけではない。

それ以前の問題として、強迫的な断酒という観念にいつまでも
囚われていることは苦しい。

仮に一杯のお酒を飲んだところで、それはそれだけのことで、
そこから崩れて、また飲酒を繰り返すことにはならないという、
気負いとは異なる自負心があることを、自身の中に垣間見た。

だからこそ、相手と食事を楽しむということを第一として、
普通に食べるつもりでいたのである。

さて、デザートを目の前にしたとき、独特の甘酸っぱい香りが
鼻を刺した。
その瞬間、手にしていたスプーンを置き、食べるのをやめる
ことにした。自分でもよくわからないが、無意識の条件反射の
ようなものだろう。

結局、少ない量だったので、相手に食べて頂いた。
アイスクリーム自体は美味しそうだったので、
残念ではあったが。
その後、ラウンジで接待をしているときも、以前のように警戒の
アンテナを張り巡らして神経を疲れさせるようなことはなく、
普通に楽しく会話やカラオケを楽しんでいたが、まるで無警戒な
わけではないこともわかった。

お茶を飲んでいる私のグラスが、女の子の手に渡る時だけ、
自分が何をしていても、無意識にチェックしているのだ。
瞬間的にその重要な点に太いアンテナが伸びる様である。

少し酔った女の子がお酒を注ぐのを見逃さなかったし、すぐに
新しいグラスと取り換えさせたのもほんの一瞬の間であった。

理性と意識による力ずくの断酒が、条件反射のような無意識の
断酒となってきたことを、そのときに感じた。
断酒が楽になっていくというのは、そういうことかもしれない。



きっかけ

2010年05月15日 | ノンジャンル
ここにAさんの話を聞くB、C、Dさんがいる。

Bさんは、素直にAさんの話を聞き、自分なりに具体的な
行動に移そうと考える。

Cさんは、Aさんの話に反駁し、その話しとはまるで逆の
行動をしようとする。

Dさんは、Aさん自体が嫌いであるから、その話しを頭から
批判し、あげつらうつもりで聞いている。

ここで、損得を考えれば、得をしているのはBさんと
Cさんである。
いずれも、行動に移す以上、具体的な結果を必ず得ることが
できるからである。

素直に行動すれば順縁、逆に行動すれば逆縁。
Aさんの話が縁、つまりきっかけとなって、BさんもCさんも
その結果はどうであれ、経験というものを得ることができる。

Aさんにしろ、Dさんにしろ、損はないかもしれないが、
何も得をすることはない。

Aさんは、話というきっかけを提示しただけであるし、
Dさんは、いくら批判、中傷をしても、それは自身にとって
得となる行動とはならない。

Aさんの話がきっかけで、行動を起こしたBさんとCさんが、
その結果をAさんに話し、それがAさんにとっての行動の
きっかけとなれば、Aさんも得をすることになる。

話をし、話を聞くというのは、そういうことである。
きっかけは、機縁とも言い、機会ともいい、
チャンスとも言う。
それは、行動につなげて初めて得となるのである。

行動せずして、損はしていないと言ったところで、
得するきっかけをスルーするなら、損をしたのと
同じことである。





ちゃうちゃう

2010年05月12日 | ノンジャンル
大阪にいる外国人は、大阪弁は便利だとよく言います。

日本語学校などで習う言葉よりも、もっとシンプルで、
情感的だというのがその主な理由です。

「それは、違うのではないでしょうか?」などという、
婉曲な表現も、大阪弁だと、
「それ、ちゃうんちゃう?」で終わりです。

チャウチャウという犬種がありますが、この話になると
関西人以外の人にとっては、非常にややこしくなります。

A 「あれ、チャウチャウやんな~。」

B 「チャウチャウとちゃうんちゃう?」

C 「チャウチャウなんちゃう?」

B 「ちゃうちゃう、チャウチャウちゃうで!」

とまあ、「ちゃう」だらけの会話も成立するわけで、
方言の面白さで話題にもなりました。


関東にもありましたね。

「これ可愛くなくなくない~?」
ギャル語?ですか? 最近聞きませんが・・・

可愛いのか可愛くないのか、未だに不明です。


なぜか中国人の日本語なまりの典型例は、

「ワタシ、それ、知らない、アルヨ。」

・・・・ 知ってるのか、知らないのか・・・

こちらの記事は、北海道から沖縄、そして海外からも
ご覧になって、読んで下さる方々がいらっしゃいますので、
一応、標準的な日本語で、今後ともアップしていくことに
致します。 ^^