ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

夏の終わりに

2012年08月29日 | ノンジャンル
お盆を過ぎても、厳しい残暑と雷雨、熱帯夜が
続いているが、それでも風のかほりに、
秋の気配が漂ってきた。

気が付けばという言い回しが今年は多いような
気がするが、もう8月も終わりである。

毎年、加速度的に時の流れを早く感じながら、
自身の成長というのはなかなか実感できにくい
もののようである。

それとは裏腹に、身体の衰えというものは日に日に
実感をもって訪れる。

歳を取ると、それなりの知識と経験が身につくものだが、
それがかえって足かせとなることもままある。

何を聞いても、見ても、どこかで聞いたことがある、
見たことがあるということが多くなり、なかなか
新鮮な感動というものにお目に掛れない。

時には、先が見えることで、おかしな諦めや虚しさが
先走りすることさえある。

要するに、好奇心の衰退なのかもしれない。
古くなったスポンジのようにはなりたくないが、
古いタオルのような吸収力は持ちたいものである。

躊躇と諦めが多くなると、人間の心身というものは
衰退するもののようだ。

面倒くさいということも、その現れであろう。

挑戦。 何を青臭いと思うなら、すでに衰退である。
好奇心と、挑戦の精神を失わない人こそが、
いつまでも若々しいのだろう。

挑戦、勇気、好奇心、そして自身に対する闘争心。
無茶でも無理でもなく、その瑞々しさを持ち続ける中に
感受性は研ぎ澄まされる。

自分の感受性くらい 自分で守れ バカ者よ

そういう一節が詩にあった。

今の自分、これからの自分に対して、
耳の痛い戒めなのである。



理と智

2012年08月08日 | ノンジャンル
今年も原爆の日、8月6日を迎え、お盆を境に
15日の終戦記念日となる。

日常はどうであれ、夏の追悼の時期だけは、心穏やかに
先人の霊に手を合わせる時として過ごしたい。

広島の平和記念式典に合わせるかのように、原発反対の
集会、デモが原爆ドーム前で行われたようだ。

ヒロシマ、ナガサキ、フクシマと被爆地を並べた内容に
失笑してしまった。

国民性なのだろうか、熱しやすく冷めやすい。
ブームというのは一年も持たない。
流行にせよ、健康食品にせよ、お笑い芸人にせよ、
もう全国こぞって焦点が定まってしまう。

要するに、美味しいものを発見して、それを誰もが
毎日食べ続けて、すぐに飽きてしまうのと変わらない。

滅私奉公ではないが、私よりも公を優先させるDNAが
この民族には根強い。
無論、それが良い方向に向けば、国家として大きな
力となり、世界に誇れるものとなる。

東北大震災での被災地の人々の姿に、世界各国から
称賛の声が上がっているのもその一例であったろう。

少し話がそれたが、結論から言うと、原爆と原発は
まるで異なる。
それをひとくくりにして、唯一同じ被曝という共通項を
盾にしての集会だのデモなどは、笑止なのである。

核分裂は理であり、それ自体に善も悪もない。
万有引力と同じで、それを善だの悪だのと論ずる
者はいない。

その理をいかに応用するかの人類の智こそが、善悪を
分けるのである。
人間の持つ善と悪が、その智に現れるということだ。

核分裂の応用は、原爆という形になれば悪である。
原発というのは、どちらかといえば、人間の生活に
恵みをもたらした意味において善である。

これをひとくくりにすることができないのは
自明の理である。

原発は、我々の生活に関わるエネルギーの問題であって、
原爆とは何ら関係がない。
それをわざわざ、平和記念式典に合わせてデモを行うとは
無礼にもほどがある。

戦没者、原爆死没者への静かな祈りと、平和の誓いの場で
行うことではない。
無論、昨年のように時の首相が政治利用をする場でもない。

我々は、原爆という悪魔が、我々自身の中にあることを
直視しなければならない。
その上で、その悪魔に負けない平和への決意と誓いを
新たにし、先人への供養とするのである。

原爆が悪い、原発が悪い、核分裂が悪いなどと
叫んでいるうちは、到底、平和など実現するものでは
ないのである。



葉月

2012年08月03日 | ノンジャンル
慌ただしい毎日を送っている中、気が付けば
もう葉月である。

人は、楽しく嬉しい時間を過ごす時は、
あっという間に過ぎ去るように感じ、
苦しく辛い時間は永遠に続くかのように感じる。

昨年はこの時期はまさに地獄であった。

自分ではどうしようもないことに苛まれていたが
それは例えば、事故に遭って大怪我をしたようなもので、
痛みは激しいものの、必ず治ることが分かっている、
そんな苦しみであったように思う。

今年は真逆で、慢性疾患のようなものだ。
苦しみはさほど激しくはなくとも、周期的に
強く現れる悩みに翻弄され、まるで回復のめどが
立たないでいる。

お灸をすえるのは、その激しい痛みに耐えれば
楽になることがわかっているからである。

今年はまるで穏やかに過ごせているようで、
静かにガンが進行していくのをどうしようもなく、
目の前に映しだされているような感じである。

努力がすべて実を結ぶことにはならない。
かといって、努力がなければ、いかなる実も結べない。

頭では分かっていても、心が折れそうになることもある。

愚痴というものが出るのは、決まって自身が自身の
前進を実感していないときである。

無論、前へと向かう努力なしに、その実感はあり得ない。
愚痴は、愚の字も痴の字も「おろか」と読む。
いくつになっても、「おろか」を昇華し切れない自分に
人としての器の小ささを痛感する。

おっと、これはまた悪い傾向に向かってしまって
いるようだ。
自虐は、その実は自己憐憫である。
今のありのままの自分から、一歩踏み出せばよい事である。

今から、此処から、私から。

日々新たに、前へ、前へと進むのみである。

今宵は満月。 やけに月の明かりがまぶしい。