ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

宵の光線

2021年05月25日 | ノンジャンル
現在の住居は、大阪の淀川沿いにある。

川沿いというが、要するに堤防上にあるので、
川べりと言った方が良いかもしれない。

河口に近いため、景色と言えば工場や煙突が多く、
風光明媚とは言えないが、それでも海へと
つながる水のたおやかな流れや、六甲の山々が
近くに見える景色には、心癒される。

空、山、川、海とを一望できて、日々異なる
景色を見る事ができるのは、この上ない幸いで
あるだろう。

時に、ハッとさせられて写真を撮る機会も
少なくないのだが、夕暮れ時の飛行機雲が、
夕日に照らされてまるで空にビームが走って
いるように見えた。

珍しい光景だが、そういえば今年は、
虹を見る事も多い。

地上から飛行機雲や虹を眺めるよりも、
その飛行機雲の先を行きながら、虹を越えたいと
思うばかりなのである。





黒い板

2021年05月19日 | ノンジャンル
携帯電話も、当初の電話から携帯PCへと
変遷してきた。

今では生活の上で不可欠なツールとなり、
どこであろうと誰もが携帯片手に、ながら的な
日常を過ごしている。

一日にどれくらい見ているかを調べれば、
驚くほどの時間を費やしている。


携帯依存、スマホ依存という言葉も、
それ自体が常態化してきている中、
あまり取り沙汰もされなくなってきた。

昔、携帯と同じサイズのプラスチック板が
売れた時期があった。

もちろん、それを持っていても何の意味も
ないのだが、いわゆる強制的に携帯を使わない
体験のためである。

ポケットから取り出して見ても、それはただの
板であり、使うことは出来ない。
そして、自身の携帯への依存を自身で自覚する
のである。

そして、無ければ無いで、必要な事を別の方法で
満足させる知恵を絞る意味もある。

たまに、携帯を家に忘れて出勤したり、
職場に忘れて帰宅することがある。

いずれの場合も、職場、自宅にPCも電話も
あるので、さほど問題とはならない。

今あたりまえにあるものが無くなった時の
対応を考えるのは重要だ。

電気が無くなれば、その弊害は想像を超えるが、
それに対処する準備や心構えがどれだけあるのか。
個人ベースでもかなり希薄であるだろう。

便利さというのは、いわば個人の退行ともなる。
電気のない世界で、果たして自分は生き延びて
いけるのか。

便利なものを、無いと想定して対処方法を
思考し、検証しておくことが、個人としての
前進となることは間違いないようである。





梅雨入り

2021年05月17日 | ノンジャンル
まだ5月も半分というところで梅雨入りとなった。
今年は随分早いなと思う間もなく、朝から暗い
雨の月曜日。

雨の月曜は、いつも私を憂鬱にさせるという
詞があったが、その曲の雰囲気のままの休み明け
となった。

もっとも、花金の嬉しさも希薄になったのと同様、
月曜の憂鬱もさほど苦にはしていない。
土日で少し日常から逸脱したリズムを、月曜から
立て直すという意識が強いせいかもしれない。

出勤を含む外出の自粛、ステイホームの休日、
そして梅雨入りと、身動きの取れない日々が
続くが、籠の中の生活にも慣れてきた。

とはいえ、やはり雲の上へという想いは
募るばかりだ。

眩い陽射しと、広がる雲海の反射。

圧倒的な光に包まれる、あのひと時を
渇望している。





八重桜

2021年05月14日 | ノンジャンル
早咲きのソメイヨシノが可憐とすれば、
遅咲きの八重桜は華麗というべきか。

どちらが優れ、どちらが上という事ではない。
可憐さと、華麗さは、単に異なるのみである。

この異なるというのは、互いに互いにはないものを
持ち、互いにあるものを持たないという事である。

多様性というものはそういう事である。

ないものに目を向けるのか、あるものに
目を向けるのか。
それが、軽侮と尊敬の分岐となる。

多様性の根幹にある平等を解かぬいかなる宗教も
哲学も意味はない。

世の乱れは、ないものに目を向ける軽侮の
蔓延である。

なければ補い、あればそれを分けるという、
互いに生きる事こそが、人の世の平和で
あるだろう。

戦争がないから平和なのではない。
互いに支え合うから平和なのである。

華麗は可憐を尊び、可憐は華麗を寿ぐ。

今の世は、華麗が驕り、可憐が妬む諂曲の
世なのかもしれない。

いずれにせよ、その存在が、天と地の恩恵に
よってあることを忘れている。





狂い月

2021年05月05日 | ノンジャンル
皐月というのは、自身にとっては狂い月と
言えるかもしれない。

4月は体調面では不調となりがちだが、
5月は心神面で不調となる。

やむに止まれず、クリニックに足を運んだのが
6月頭であった事を思えば、やはり符牒する。

突然母親が亡くなったのが4月。

第二四半期は一年の内で最も警戒が必要な
時期である。

依存症となる以前はといえば、逆に最も
気力体力共に充実する時期であった。

お酒を飲めば、理性が麻痺する。
それはつまり、常態ではない、狂いの
状態である。

それが習慣化し、依存へと進めば、
その狂いは一時的なものから常態化し、
脳の障害となり、それが完治することはない。

この16年ほどを振り返っても、この時期の
状況は大して変わりない。

狂いも障害も、自身の中に変わらず
あるという証左である。

お酒を飲んでの議論、脳に障害がある者との
議論。いずれも不毛である。

だからこそ、聞く忍耐を養うための
聞きっぱなしが断酒例会、ミーティングの
原則なのである。
言いっぱなし自体も、実は自らの聞く力を
養うことに他ならない。

狂いの中の議論など、普通の人から見れば
相も変わらずのアル中なのだ。
己の狂いの自覚を新たに、自ら決めた
生き方を今日もまた重ねていくのみ
なのである。