青空というのは、無限の広がりを見せているようで、
実は地球の表面を覆う膜ともいえる。
つまり有限なのである。
各国の空港近くになれば、離着陸便はもちろん、
アプローチする飛行機でかなり忙しい空の
様相がある。
搭乗している飛行機より、上空を飛ぶもの、下空を
飛ぶもの、同じような高度で並行、あるいは
対向して飛ぶものを頻繁に窓外に見ることができる。
巡航高度に比べ、空港エリアの危険度ははるかに
高くなる。
ひとつの管制ミスが大事故につながる可能性も高い。
さて、当然ながら、交通整理と事故防止のために
管制があり、侵入、離脱のルート、高度差によって
安全な運行を管理している。
よって、各飛行機の高度差は、必然的なもので、
どちらが上であれ、下であれ、それがその飛行機や
乗員、乗客の格を決めるものではないことは
誰もが当然のこととして理解しているだろう。
しかし、巷では格差などという言葉で人を
差別化する傾向が強いのは笑止である。
経済面、健康面、技能面、名声、あるいは
権力など、様々な格差が取り上げられるが、
要するに飛行機の高度差と変わらない。
自機が他機より上を行くか、下を行くかは、
本来の安全性確保の上ではどちらでも良い。
両機共の、安全な離着陸が為されたならそれで
良いのである。
それを、自身が上に行きたいと無理をして
衝突すれば、両機ともに墜落となる。
同じく、格差などというものは、死においては
無意味である。自身の人生において、獲得してきた
ものをすべて失うのが死である。
であれば、喪失感で迎える死ではなく、満足感で
迎える死とするには、「いかに生きるか」に
生きる以外なさそうである。
それが安全な着陸であるか、離陸であるかは
わからないが、少なくとも、墜落ではないことは
確かなようだ。
俗にいう、あの世に持っていけるものは、
確かにあると、信ずるものである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/a4/d12cd17c310289c75f8ca63202dda0c8.jpg)
実は地球の表面を覆う膜ともいえる。
つまり有限なのである。
各国の空港近くになれば、離着陸便はもちろん、
アプローチする飛行機でかなり忙しい空の
様相がある。
搭乗している飛行機より、上空を飛ぶもの、下空を
飛ぶもの、同じような高度で並行、あるいは
対向して飛ぶものを頻繁に窓外に見ることができる。
巡航高度に比べ、空港エリアの危険度ははるかに
高くなる。
ひとつの管制ミスが大事故につながる可能性も高い。
さて、当然ながら、交通整理と事故防止のために
管制があり、侵入、離脱のルート、高度差によって
安全な運行を管理している。
よって、各飛行機の高度差は、必然的なもので、
どちらが上であれ、下であれ、それがその飛行機や
乗員、乗客の格を決めるものではないことは
誰もが当然のこととして理解しているだろう。
しかし、巷では格差などという言葉で人を
差別化する傾向が強いのは笑止である。
経済面、健康面、技能面、名声、あるいは
権力など、様々な格差が取り上げられるが、
要するに飛行機の高度差と変わらない。
自機が他機より上を行くか、下を行くかは、
本来の安全性確保の上ではどちらでも良い。
両機共の、安全な離着陸が為されたならそれで
良いのである。
それを、自身が上に行きたいと無理をして
衝突すれば、両機ともに墜落となる。
同じく、格差などというものは、死においては
無意味である。自身の人生において、獲得してきた
ものをすべて失うのが死である。
であれば、喪失感で迎える死ではなく、満足感で
迎える死とするには、「いかに生きるか」に
生きる以外なさそうである。
それが安全な着陸であるか、離陸であるかは
わからないが、少なくとも、墜落ではないことは
確かなようだ。
俗にいう、あの世に持っていけるものは、
確かにあると、信ずるものである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/a4/d12cd17c310289c75f8ca63202dda0c8.jpg)