ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

墓参り

2007年07月30日 | ノンジャンル
お盆には早いのだが、母親の墓参りに行くことにして、午前中、
投票を済ませてから、家族で出掛けた。

春日の局生誕の地として知られる、丹波地方にある
墓園なのだが、交通の便は悪く、車でしか行けない。

中国道から、舞鶴道を経て、空いていれば2時間少し。
だが、混むと倍近く掛かる時もある。
往きはスムーズで、草むしりに掃除をした後、ゆっくりと
お参りが出来た。

その後、食事をしたり、皆で遊んだりしてから、帰路に
ついたが、事故だの、火災だのと、トラブルが重なっていた
ようで、高速は大渋滞。
さすがに疲れたが、無事に帰ってきた。

今回の墓参りは、半年振りぐらいだったが、非常にスッキリと
した気持ちで帰って来れて、本当に良かったと思っている。

人心地ついて、テレビをつけると各局とも選挙一色。
与党惨敗、野党大勝利の反響が大きく放送されていたが、
まあ、衆院選で勝ちすぎた感のある与党。
その後の一連の強行策、閣内の不祥事、引責辞任などなど、
ドタバタして、どうも落着きが無い。

少し地に足をつけて、与党一丸となった姿を見せて欲しい
という意味の表れとしてみた場合、真摯に結果を受け止めて、
今後の政局の運営に、結束した力を見せていくべき。

対して、大躍進という結果に浮かれ立ち、早くも驕りの
言動が見える野党だが、国民は野党に政権交代を期待して
いるわけではない。
どちらかと言えば、与党に対するお灸のようなものだと
感じている。
バランスを重んじる国民性だけに、至極当然の結果で
あるかもしれない。

ただ、今後の政局を考えると、与党衆議院、野党参議院という
対立の構造においては、何事も円滑に進む事はあり得ない
という、負の面も、国民は、覚悟しなければならない。
いかなる結果も、国民の投票による意志の現われである事は、
原理原則である以上、その大勢に乗って行く事は
不可避なのである。

そんなことを少し考えながら、横になると、一日の疲れが
心地良く、ゆっくり眠れると思いきや、寝つきが悪く、
なかなか眠れない。
身体は疲れているのになと思いながらも、反って眠れないときも
あるものだと納得しながら、いつの間にか眠ってしまって
いたのだが、夜明け前に突然の大音響。

何事かと思うと、ひどい雷で、次第に外は暴風雨と化した。
一時停電となるほど、ひどい状態は続いていたが、
夜明けにはウソのように静まり返っていた。

あまり眠れない夜であった。
何となく、自然現象ではありながらも、雷の大音響が、
天の声のような気がして、うつろな頭で聞いていた。



ありのまま

2007年07月25日 | ノンジャンル
人並みに、わが子を自慢したいとも思いますし、周りから
褒められると、正直、嬉しいものですが、人様に対して、
自分の子どもの自慢話をする事は厳に謹んでいます。

子どもの自慢というのは、その子を育てている自分自身の
自慢という匂いがあって、聞く側に立つと、いやらしさが、
鼻につくものです。

それから、その自慢が、子どもを、「いい子」と言われる
枠にはめる事になります。
様々な点で、我慢や制限というものは必要ですが、
「いい子」であるという事に囚われると、ぶつかりつつも、
伸び伸びと成長しゆく過程にありながら、小さくまとまって
しまうことになります。

学校で、様々な活動や行事のまとめ役となっている、
娘の表情が冴えないときがありました。
他の生徒に対して、模範とならねばならないということに、
いささか嫌気が差したのかもしれません。

「お前の良い所も、悪い所もひっくるめて、いい子だという
 事くらい、誰に言って貰わなくとも、わかっている。」 
「いい子になろう、いい子と言われようなんて思うな。」
と話すと、スッキリした、いつもの笑顔になりました。

二人とも、今の素直さを失うことなく、大きく成長して
いってもらいたいものです。


共有の場

2007年07月24日 | ノンジャンル
話の内容によって、聞き手、話し手の関係には大きな
差が生じる。

自慢話というものは、話し手にとっては気分の良いものかも
しれないが、聞き手にとっては何となく鼻についてしまう。
話し手の滲み出る驕りに、聞き手がいやらしさを感じる
せいであろう。
ともすれば、聞き手はあまり聞く姿勢を持てず、話し手からの
一方通行のようになってしまう事がよくある。

成功談というのは、少し違って、聞き手は羨望の念を抱く
であろうが、自分の身にも同じような事が起こるかもしれない
という、一縷の期待を持ちながら話を聞くであろう。

いずれにせよ、話し手が聞き手に対し、上位にある雰囲気
というのは、聞き手にとってはあまり面白いものではない。
大学の講義のような雰囲気では、聞き手の姿勢が問われる
事になり、その話によって得るものがあるかないかは、
聞き手によって決められる。

その意味では、この関係を全く対等、あるいは、聞き手を
上位にするのが、失敗談といえる。

話し手は、その失敗の経験から、どう反省し、プラス方向へと
転換して行ったかを語る事で、むしろ聞き手と一体となる
事ができる。
聞き手は、他人の不幸や失敗談が大好きなのである。

自分を上位と思わずとも、少なくとも自分より下位があることを
知って、満足するという図式がそこにはある。
ただ、最も共感という事ができる話を聞いて、それを身をもって
聞けない人は、他のどんな話を聞いたところで、
得るものは何も無い。

そこには、自分が、その失敗談を話す人よりはましという、
驕りが現われていることになり、共感から遠ざかってしまう。
話し手が失敗談を披露するのは、極めて謙虚な姿勢である故に、
聞き手は、その失敗をいつ自分自身が経験してもおかしくは無い
という、同じく謙虚な姿勢で聞かねば共感はあり得ない。
共感の無いところに、その経験談の間接的共有はない。

ところで、例会というものは、失敗談の交換会のような
ものである。
様々な立場の方々が、お酒に関わる失敗談を発表し合うなかで、
互いに共感出来るものを共有しようとする場である。
世間一般に見ても、なかなかこういう場というのは貴重であり、
まだまだ少ないのではないか。

にもかかわらず、私などは、月に一度の院内例会でさえ、
時に、行こうか行くまいかと、迷ったりする。
失敗談を聞くのは、ある意味楽だが、語るのはそれなりに、
エネルギーが要る。
しかしながら、共感、共有の場である以上、聞くことも、
語る事も必要である事はおのずから明らかで、どちらか一方のみ
という事もあり得ない。

貴重な場である事を再認識して、月に一度ぐらい、しっかりと
参加したいものである。



楽しい時

2007年07月23日 | ノンジャンル
昨日は、カミサンの誕生日でした。 ケーキとかプレゼント
とか。。。と、考えていましたが、リクエストは、
お好み焼き。。。

要するに、食事の支度から、料理、後片付けまでを
してもらって、「食べるだけ」という据え膳、上げ膳の方が
良いという、かなり実用的な要望でした。

仕込みは、複雑な事は何も無く、単調で、面倒ではありますが、
普段している事とは全く違うので、それなりに気分転換には
なります。
出来上がりは上々で、お店で食べるよりおいしいと、皆、
喜んでくれましたが、実は、私がお好み焼きを作る時は、
いつもビールを飲みながら作っていました。

一通り具材を切って、一杯、タネを用意して、一杯、
焼きながら一杯。。。
焼くだけ焼いた後は、もう匂いをあてに、かなりビールを
飲んでしまっていて、あまり食べられなくなるのが
しばしばでした。

習慣というのは恐ろしいもので、準備をしている間、
何か物足らないような気がしていたのですが、そういえば、
いつも飲みながら作っていたなと、今更ながら気付きました。

そして、実際に、物足らなさを感じている自分を発見し、
お酒が楽しく絡んでいた場面や、機会に改めて遭遇すると、
「飲めたらなぁ」という気持ちが、ふっと蘇る事を実感として、
確認できたように思えます。

それでも、昔と違って、お腹一杯食べて、お茶がおいしいと
感じる今の自分の方が、少しはましかなと考えています。

やはり、これからは、辛い、悲しい、苦しいという場面よりも、
嬉しい、楽しいという場面の方が、要注意だと思われます。

少しだけ、我慢の断酒となった、一時でした。



飲み方、生き方

2007年07月19日 | ノンジャンル
習慣的に飲酒をしていた頃のことを振り返ると、悪いこと
ばかりでは当然なく、むしろ良い事の方が多かった気がする。

性格的に、「であらねばならない。」、「であるべきである。」
という傾向が強いせいか、大らかさに欠けている、どちらかと
いえば神経質な面を、お酒を飲んで麻痺させることで、
発散させるバランスを取っていた時期は、お酒の場が、非常に
楽しいものであった。

一日の疲れを癒し、文字通り明日の活力としていたお酒は、
楽しいもので、身も心もふっと力が抜けていたように思える。
この頃は、当然、依存症でもなんでもなかったはずである。

依存症になるならないは、もちろん経年的、習慣的な
多量飲酒はそのリスクを高めることは明らかであろうが、
お酒の「飲み方」に大きく関わっていると思える。

楽しく飲んでいるうちは、なんら問題ないのではなかったか。

その人の性情や、環境、その他諸々の主要な原因はあるだろうが、
結局、楽しく飲めなくなってしまって、酒量だけが増えながら、
発散できずに余計にストレスがたまるという状況が依存症の
始まりといえるかもしれない。

楽しく飲んでいた時期があったのだから、そのままの状態で
あれば、依存症になどならなくて済んだのであろうが、
裏を返せば、自分の性質上、なるべくしてなったとも言える。

いくら飲んでも楽しくない、むしろ余計にむしゃくしゃして、
さらに飲まずにはおれない。こうなってしまうと、もう
依存症の始まりであろう。

「せっかく、飲みにいったんやったら、楽しんで、
 面白かったという顔をして帰ってきなさいよ。」とは、
カミサンによく言われたことである。

このあたりから、自分の飲み方というものがおかしくなって
しまっていたのだろうが、母親の死によって、目に見えて
お酒の飲み方が変わっていったともいえる。

何か淋しさをお酒で埋める、晴れようのない憂さを、お酒で
晴らそうとする。
素面では耐えられないことから、お酒に逃げる。。。
どうしようもない「飲み方」がそこにはあった。

断酒して、回復の道を進んでいるとはいえ、内科的に目に
見える回復に囚われると、大きく道を外れることになる。
飲まずにはいられないという、おかしな飲み方になって
しまった自分自身に目を向け、それを今後、素面で
どう向き合って対処していくのかという内面的な葛藤と努力を
続けていくのが、本当の意味での回復への道、つまり、自身の
成長ということなのである。

飲まないだけでは、自身の問題は何も解決しない。
少しずつでも、日々の生活の中で、自身の問題と対峙して、
それを克服していくという、地道な積み重ねがあって、
本当の意味での再生があるのだ。

自己との戦いである以上、世間や、周りや、他人のことは
どうでもよい。
自らが、自らの足で、一歩一歩階段を登っていけばよい。
声を掛け合い、励ましあって、共にそれぞれの階段を登って
いくことは良しとしよう。
それは、楽しい生き方であるに違いない。

だが、わざわざ立ち止まって、止まっている人や、転んだ人を
見下して、どれほど優越感に浸ろうとも、自分は一歩も登れて
いないのである。
これほど楽しくない生き方はないのではないか?