ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

ドライドランク

2006年01月27日 | ノンジャンル
飲んでいた頃と、断酒してからでは、本人にとっては、
大きな変化が訪れるし、周りから見ても、良い方向(回復)
に向かっているのは、時間の経過と共に明らかとなるだろうが、
例えば、躁鬱病のように、鬱の状態から、躁の状態へ変わる
ときのような、劇的な変化を求めている人がたまにある。
しゃれにもならないが、そうではないのだ。

長年の飲酒歴があったものが、断酒をしたからといって、
そんなに急激に変わるものではない。極端なことをいえば、
断酒をした後も、周りからは「酒を飲まなくなっただけ」で、
何も変わっていないという状況も、ままある。
これをドライドランクと呼んでいるのだそうだが、ちょっと
待って欲しい。

断酒を始めたということは、回復の道程をスタートしたに
過ぎないのである。それを、いきなり、何年もの断酒に
よって得られる回復と変化を、すぐに求めるというのは、
酷というものだ。
お酒を飲んでいたときの様々な精神的、肉体的弊害は、
断酒によって、ある程度までは際立った変化を示すだろうが、
それが、その人の人格や性格までもいきなり良い方向に
変える訳ではない。

断酒して、あの人は本当に善人になったなどということは
無いのである。飲んでいた時に、余程、迷惑を掛けられて
いた場合は、それが無くなって、そう感じる方もいるであろうが、
断酒がその人自身を変えてしまう訳ではない。
ただ、それまで酒に飲まれざるを得なかったことに、
素面で向き合って、自身を変えていこうとする道程に立ったに
過ぎないのである。

この病気を発症するまでの過程には、何年にも渡る飲酒歴と、
その人の性格や、環境や、様々な要因があるわけで、
断酒したからといって、それらが全て清算されて、まったく
別人格となることなどあり得ない。回復にもそれなりの、
長い時間が必要なのである。

その最低条件が断酒であり、断酒がゴールではないのだ。
ドライドランクは、ある意味で当然の事であり、回復の道程に
おいて、本人も自覚できることであり、そこから、どう変わって
いくのかということも含めて、本人の課題なのだ。
周りが勝手に焦って、期待して、顕著な変化が見えなければ、
お酒をやめただけかなどという評価を一方的にしてしまうことは、
かえって本人の断酒継続にとってマイナスとなってしまう。

些細な変化を、喜んであげて欲しいものだ。おいしそうに
食事を残さず平らげる。少しは、人の話にも耳を傾ける
ようになった。生活に、リズムが出てきた。笑顔が増えた。等々、
明らかに、回復の兆しではないか。その事を理解し、見守って
いくことの大切さを、周りの人に、知っていただきたいと
思うのである。

以上、断酒した後の変化の個人差について云々する人や、
ドライドランクという、回復過程における一徴候を
本来意味する言葉を使って、「お酒をやめただけ」という
批判的な意味合いで、ことさらに取り上げていたものに対する、
私の見解とする。


世界に一つだけの花

2006年01月27日 | ノンジャンル
人は一人では生きていけない。別の言い方をすれば、人は、
自分自身のためだけに生きていけるほど、強くは無い。
アルコール依存症に罹った人は、全てにおいて自分を
中心に物事を考え、周りが見えなくなってしまうが故に、
どんどん孤立し、それも含めて、他者や世間が悪いと
思い込み、酔っている自分の異常な思考が正常で、
自分を取り巻く周りが異常と認識してしまう。

この状態では、どうしようもない孤独感と、自己憐憫に
支配され、ひたすらお酒を求めることしか頭にない。。。。
と、解説は出来るけれども、実は、この時には、自分自身の
ためだけに生きている状態ともいえるのではないか? 
お酒の為だけにともいえるが、それは即ち、自分の
為である。

自分では止められなくなっていたとしても、アルコールを
入れるのは、自分の身体であり、人に飲ませようとしている
わけではない。

自分の為だけに生きている状態の自分が、自暴自棄に
なってしまうのは、ごく、自然なことのようにも思える。
自分のことだけを考えていると、自分自身をどうしようが、
自己の責任において、自由だという、おかしな逆説も成立する。
生と死は、表裏一体であるにもかかわらず、普段、
死というものを身近に意識しながら生活している人は殆ど無く、
逆にいえば、だからこそ生きていけるのではあるが、
死を意識していないということは、生というものに対しても、
鈍感とならざるを得ない。

毎日、生きているという、ただその事実だけで、全身に喜びを
感じている人が、世の中にどれほどいるのであろう? 
むしろ、生きるということに苦痛を感じている人の方が、
圧倒的に多いのではないか?

今の時代、精神科、神経科などの心療を必要とする多くの
患者が増え続けていることは、現代社会の一つの傾向として、
死を軽んずるが故の、生に対する感覚の激しい鈍磨があると
いうことの反映ではなかろうか?
これは即ち、他人の生を軽んじ、他人の死に対する自身の
感受性をも麻痺させてしまう。
それは、そのまま、自分の命をも軽んじることにつながるの
ではないか?

アルコール依存症や、うつ症などの、特定の病気について
考察することも大切ではあるが、本質的なところは
、一時代の社会の歪みが顕在化した、一形態であるという
側面も見逃してはならないところだと考える。



もちろん、社会を構成しているのは、自身を含めて今を生きる
人々であって、自分の外において考えるべきことではないし、
単に形而上的に社会の責任ということで済ませられる
ことでもない。

自らの命に生きるという覚悟の上で、いかなる状況においても、
自分自身が人の為に、家族の為に、社会の為にかけがえのない
ものとしての存在であることを実感できる時、本当の意味で
生きるということが出来るのではないか?

「世界に一つだけの花」という歌が、あれほど広く受け入れ
られているにも関わらず、小学生の息子や、中学生の娘の話を
聞くと、「消えろ」「死ね」「逝け」などという言葉が、
あまりにも安易に飛び交っているらしい。いや、大人の世界でも
同じであろう。

自分が、世界に一つだけの花であると自覚して初めて、
他人も同じく世界に一つと認識できるとすれば、今の世相は、
自己の存在自体に意味を見出せない人のなんと多いことだろう。
願わくは、未来を担う子供達には、何よりも大切なことを
残してやりたい。

たとえ、「望まれずに」生まれてきたとしても、自分自身は、
「望んで」生まれてきたのだということを。


断酒は目的ではなく手段である

2006年01月26日 | ノンジャンル
この言葉を聞いて、なるほどと思う反面、なんとなく
理屈っぽさを感じた。

「飲みたいけれど飲めない」という、我慢の断酒を頑張って
続けておられる方にとっては、時には狂おしいほどの
飲酒欲求に苛まれることも多いだろうし、その意味では、
「断酒が目的」であって、それでよいと考える。

「失敗してもやり直せばよい」ということを安易な弁解として
捉えて、繰り返し失敗を重ねるということでは困るだろうが、
「飲みたい」という段階で、「断酒は手段」という事をいくら
聞いたところで、あまり意味が無いのではないか?

「飲みたい」方にとって、一日一日、断酒継続記録を
更新していくことは、それ自体に大きな意味もあれば、
達成感もあるであろう。つまり、断酒が目的であり、継続が
目標であり、この時点では、それでよいと考える。

「飲みたくない」、「飲まない」という方にとっては、
断酒を目的とする生活は物足らないに違いなく、断酒を手段
として、更に高い目的や目標を持とうとするのは至極当然の
ことである。しかしながら、このことを、断酒を目的にされて
いる方に説いても、あまり意味が無いのではないか? 
まして、押し付ける事でもないであろう。

いわんや、目的としての断酒と、手段としての断酒の優劣を
問うたところで、互いに得られるものの虚しさは、実は互いが
認識していると思うのだが。。。。
いずれにしろ、この病気においては、断酒が回復の必要最低
条件であることが明白である以上、各々の状況、環境において、
断酒を継続できることが重要であり、断酒の方法や、質?や、
捉え方の優劣を論じたところで、詮無いように思える。

我慢している方の話は、「辛いだろうなあ」と素直に聞いて
いれば良い事なのだ。

以上、「断酒を目的にしていても意味が無い、断酒は手段と
認識して、更に高い目標をもつことが肝要」との意見を聞いた
私の、率直な感想である。


スリップ

2006年01月26日 | ノンジャンル
体験談で、必ずといっていいほどに出てくるこの「スリップ」
という言葉は、断酒をしている人が、様々な状況のもと、
再びお酒に手をつけてしまうことを意味する。

この「スリップ」という言葉の意味として、「失敗」と解釈されて
お話をされる方が多いが、自分では、「失敗」というよりは、
「魔が差す」という意味で捉えている。
語意としては、「すべる」、「そっと入る」、「するっと抜ける」
という意味であるから、「失敗」とはまた違うように思えるし、
「魔が差す」と解釈しておいた方が、自分にとっては、ある意味、
良き戒めとなる。

「飲みたいけれど飲めない」という状況での断酒は、我慢の
継続であり、欲求を抑えきれずに、飲んでしまえば、それは
「失敗」となるだろうが、反面、その状態は、
「お酒が止まっていない」ともいえるのではないか? 
失敗という言葉には、何となく安直な雰囲気がつきまとう。
命に関わるような「失敗」は、普段の日常生活においては、
殆ど意識されないし、「失敗しても、またやり直せばいい」
ということを前提にして、生活していく上での安心感を
あらかじめ持っている面は多々ある。

反対に、自分のように「飲みたいとは思わないし、飲まない」
という状況は、自覚の断酒であるが故に、お酒が止まっている
とはいえ、我慢の継続に比べれば遥かに性質が悪いとも言える。
「スリップ」とは、むしろこの、欲求が無いというところにすっと
入ってくる「魔」のような気がしてならない。
おそらくは、この数ヶ月や、数年で「失敗」を繰り返すようなことは、
自分自身、無いと確信するが、5年、10と断酒の継続が進む中において、
必ず魔が差す時があるという事を常に自覚しておかなければならない。

その時に最後の砦となるのが、子供の顔であり、
妻の顔であり、父親の顔であり、先生の顔であり、
看護士さんの顔であり、ワーカーさんの顔であろう。
一杯の酒を手にしてしまった時に、それに口をつけるか
つけないかは、その時に様々な人の顔を思い浮かべる事が
出来るか否かにかかっているように思える。

そして、その一口が再び回路にスイッチを入れ、『彼』を
目覚めさせるということを思い出す事が出来るかどうかにも
かかっている。
つまりは、自分のこれからの人生においては、「酒」は、
極言すれば敵であり、それと相対する場面では、常に戦いの
気組みを持っていなければならない。
様々な場面や、機会において、お酒との戦いに勝つ毎に、
改めて兜の緒を締めることを肝に銘じておくことが必要である。
しかしながら、その事自体が、おかしな意味で
自身に対するストレスや、プレッシャーとはならないことも
今では自覚している。


誕生日

2006年01月26日 | ノンジャンル
1月24日、43回目の誕生日を迎えた。断酒に入って、
初めての誕生日だ。
何とか昨年内、遅くともこの誕生日までにと思って、作業を
進めてきたが、一応の履歴と体験を整理し終えて、自身の
中ではかなりスッキリしたものを今感じる。

とはいっても、本当の意味での回復の道程は、まだまだ
遠いと認識もしているが故に今後、その回復道程の折々に
考えたことや、実体験をその都度まとめておきたいと思う。