ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

休養

2010年04月28日 | ノンジャンル
母の命日の翌日、突然腰に激痛が走り、動けなくなった。
確か昨年の11月の欧州出張時になってから、これまで、
まるでその兆候がなかった。

確かに、年が明けてからというもの、無理に無理を重ねてきた。
なるべくしてなったということだろうが、命日の翌日という
ことが、妙に引っかかった。

何か親不孝なことをしたか、亡くなった母親の気に入らない
ことをしたかと考えても、思い当たらない。
今回は何をどうしても痛みが続き、まるで身動きが取れない。

ゴールデンウイークが終われば、また殺人的な忙しさになる。
その前に、身体を休めろということかと考えている。
いつもぎりぎりのところで守ってもらってきた。
今回もそういうことだろうと思う。

仕事も比較的落ち着いている状況の中、3日間休暇を取って
ゆっくり療養している。
そういえば、休日出勤はよくあったが、休暇を取るのは
本当に久し振りである。

今日になって、ようやく少しずつ身体を動かせるように
なってきたが、間断無い痛みには辟易させられる。

意識がしっかりしているなか、思うように身体を動かせない
歯がゆさ、情けなさ、苛立ち、焦り、そして吐き気をさえ
もよおす痛みの連続。

寝ても、座っても、立っても、痛みは変わらず、寝返りさえ
打てない状態では、眠ることもできない。
痛みの中でびっしょりと汗をかく。そうだ、あの離脱症状の時
以来の感覚だ。肝臓の鈍痛、眠れない夜、周期的にびっしょりと
かく汗。。。

断酒5年を前に、あの時の事を忘れるなという警鐘か。
無理を重ねれば、必ず付けが回ってくるというのは道理だが、
単にそれだけではなさそうな気がしていた。

普段、行動することを是としているものにとって、身動きが
取れない状態というのは、皮肉と言えば皮肉だが、様々な
気付きも得ることができた。

健康が一番であることは言うまでもないが、当たり前過ぎて
気にも留めていないことが、ありがたいことなのだとわかる。

適度な寝返りが快適な眠りに繋がるが、それができなければ
苦悶の夜となる。かがむという動作は普段、ほとんど無意識に
しているが、その都度痛みでできなければ、不便この上ない。

洗顔、入浴、用便、着替えなど、日常生活のなんでもないことが、
何一つまともにできない。靴下ひとつ履くのが大変なのである。
もしも和式のトイレだったら地獄であろう。

歩けば5分で行けるところに15分もかかる。バスや電車では
運転の質が身体でわかる。急加速、急停車、揺れなどが
直接身体に響くのだ。

要介護老人のようになったことで、様々に気付かされる
ことがあり、その分自身の健康に驕ってはならないことを
思い知った。同時に、今まで以上に、お年寄りに親身に
なれるとも思う。

ついつい忘れがちであるが、健康であることは決して
当たり前ではなく、感謝すると共にそれなりの管理が
必要である。自身の弱点がハッキリしている以上、
今回の一件を機に、ケアを怠ってはならないと痛感した。

健常であるに越した事はないが、それに驕れば、自分にも
人にも優しくはなれないであろう。
やはり感謝しなければならないのだが、こういうことがないと
なかなかそれを意識してできないものである。

ただ、たとえどういう状態であろうと、行動ということを
第一とする考えは変わらない。

人と比較する必要はない。自分ができることを、できる範囲で
精一杯行動していくことである。身体が動かないからといって、
気力まで萎えさせてしまっては、本当にどうしようもない。

反対に、少々気分が凹んでいても、何もする気がしなくても、
満足に動ける身体なら、何も考えずに行動するべきと
切に思うのである。

何もしないから、何もできない。
何もできないから、何も変わらない。
しなかった後悔よりは、した後悔の方がまだましであろう。



手紙

2010年04月23日 | ノンジャンル
陽春の汗ばむような、あの日と同じ日とは思えない、
肌寒い、曇った今日の空です。

過ぎてみれば早かった10年ですが、やはりそれなりの
重みも感じる年月でした。

失った虚ろさを、埋めるものを誤って5年。
あなたの元へ、足を踏み入れようとした瞬間もありました。

その愚かさを蹴り返すような、あなたの叱責に、
正気を取り戻して、もうすぐ5年です。

あなたの笑った顔、泣いた顔、嬉しそうな顔、心配げな顔、
辛い顔、怒った顔、どの顔も私には、今なお鮮やかに
遺っています。

でも、不思議な事に、あなたの未来へあなたが遺したのは、
その優しい笑顔だけなんですね。

私も、私の未来には、笑顔だけを遺したいと思います。

ありがとう。 これまでも、これからも。

月を見て、星を見て、空を見て、雲を見て、虹を見て、
陽射しを浴びて、風に触れて、皆、あなたの笑顔を
思い出します。

その笑顔が、皆を支え、まっすぐに進ませてくれている事を
一日、一日、実感しています。

ありがとう。 みんな元気です。






決婚

2010年04月21日 | ノンジャンル
結婚したがらない若者が増えているらしい。

恋愛関係の蜜月は楽しみたいが、現実生活の責任を互いに負う
結婚はしたくないのだそうな。

いや待て、最近は「婚活」なるもののブームではないのか?
これはどうやら、選定らしい。自分の理想の条件に合う相手を
選んで結婚しようというもののようだ。

つまり、恋愛関係において互いの理解と愛情が昇華されて
結婚というのではなくて、要するにお気に入りを選ぶ
ということである。

もっとも、選んだ相手とうまく結婚までこぎつけるか
どうかは定かではない。

なんだか、一番大事なところをすっ飛ばしている気がする。
恋愛が昇華されて、互いに生活を共にする責任や
様々な負担を越える愛情が育まれて、結婚ではないのか。

むしろ、困難な事の方が多いこともわかっていて、それを
共に励まし合いながら歩いて行くことで、二人の喜びが
全てを幸せに感じさせてくれることを知っているから、
結婚ではないのか。

無論、夢とロマンだけではない、生活と、生身の人間の
関わりという現実がある。
結婚したがらないのは、夢とロマンのいい所取りを
しようということか。

求めあい、時に奪い合う恋愛が、分かち合い、与え合う
愛情へと昇華しないなら、よほど貧しい精神生活となる。
就活とひとくくりのように婚活というなら、笑止千万である。

美人は三日見れば飽きるし、不細工は、三日見れば慣れる。
男にしても同じである。その人としての味に、互いに愛情が
もてるかどうかなのである。
互いの笑顔に幸せを感じられるならそれでよい。

だからこそ、誓いの言葉には、喜びも悲しみも分かち合う
ということが記されているのである。
喜びだけを分かち合える関係はない。

結婚とは、その責任と覚悟において、決婚なのである。






徹底する

2010年04月20日 | ノンジャンル
背の高い私が、心がけていること。

道を歩くときは、背中を丸めず、うつむかず、胸を張って
背筋を伸ばし、正々堂々と、やや上を向いて歩く。

どれほど疲れていようが、最悪な気分であろうが、
凹んでいようが、これだけは心がけている。

猫背でうつむいてとぼとぼ歩いていると、それだけで気分も
鬱々してくる。苦しいときほど、胸を張る。

確実に頭を打つようなところでは滅多に打たない。
当たるか当たらないかという微妙な高さの桟などには、
油断しているとゴツンとやる。

笑顔で低姿勢は、営業職である以上不可欠だが、
腰を低くすることは、背を丸めることではない。
同じく、物腰の柔らかさは、卑屈さではない。

朝起きて、何もする気がしない、やる気が出ない、
気持ちも身体も重くて動けないときは、荒療治として、
いずれかの事を徹底してやる。

ひとつは、仕事をしている以上なかなか難しくは
あるけれども、何もしない事を断固として決める。
つまり断固として、徹底的に何もしないのである。

それは、食事はもちろん、息をするのもやめるくらいの勢いで
徹底的に何もしない。中途半端にする生ぬるさが、ごまかしに
つながることを知っているからである。

徹底的に何もしなければ、何かをしたい気にもなってくる。

もうひとつは、自分を消すことである。自分のやる気だとか、
考えだとか、感情だとか、苦しみだとか、一切を消す。
つまり何も考えないで、ひたすら行動する。

一個の機械や道具、或いは機能として自分を規定し、
そこに一切の思考も感情もいれずに、ただその機能を発揮する
ことだけに集中する。

一日が終われば、余程成果が出ていると同時に、疲れも
半端ではなく、ぐっすりと眠れる。

このいずれかの両極端に、一旦自分を引っ張って、後に
その中庸的な位置に自然に戻るということをしてきた。

極端な性格だから、それが功を奏するのかもしれないので、
人にお勧めはできない。

今では、その極端に引っ張ることが、一日のうちでもできる
ようになっている。
それは、ゴムひもで例えれば、何もしないことで、
どれほど縮むかを見て、マシンのようにひたすら動くことで
どれほど伸びるかを見るのに似ている。

正負の極みを確認することで、バランスの取れた範囲を
再認識するようなものなのである。

繰り返すが、これはあまりお勧めはできない。




根と幹

2010年04月19日 | ノンジャンル
珍しく艶っぽい話である。

女性の肉体の造形美において、特に魅かれるのが、
背中から腰、ヒップ、大腿部への後ろのライン、
いわゆるトルソである。

前面の豊かな胸のラインにも、当然魅かれるのだが、
どちらかと言えば後ろのラインに、より強く魅かれる。

街で、この後姿が理想的な女性などに出くわすと、思わず
その後姿を眺めながら、あとをついて行きたくなる。
行く方向が違う時など、泣く泣く別れるということになる。

話は変わるが、出会い系、浮気、不倫などといった事は
私の中ではまるでその願望はない。

例えが悪いかもしれないが、家で摂る食事に十分以上に
充足し、満足し、それが不可欠であることを知っている。

もちろん、たまには変わったものを外で食べたいと
思うこともある。勝手ながら、これは狩猟のDNAを
持つ男の性であるから仕方がない。

だが、外食は外食として、プロにきちんと代償を払って
楽しむのみである。
素人の家で、素人料理を食べる気はさらさらない。
自分の家で得られる充足と満足とは程遠い事が
わかっているからである。

さて、これとは別に、恋という問題がある。
これは理性の制御を越えた感性の問題であるから
厄介である。
だが、恋というものは、成就した瞬間に消滅する。
だから、ならぬ恋をならぬまま、心に抱いている方が
おかしな言い方だが、恋を楽しめる。

自分にとって、文字通り、根であり、幹である、根幹が
何なのかがわかっている以上、出会いも、恋も、浮気も
不倫も、枝葉に過ぎない事がわかっている。

大地に根を張り、命の柱となるものを知る以上、
風に散り、風に折れるものに囚われる道理がない。

逆に言えば、断酒という根を張り、命の柱を立てて、
思いのままに枝を張り、葉を茂らせていけば良い。
ただ、その根を張り、柱を立てるには当然ながら、
時間がかかるということなのである。