母の命日の翌日、突然腰に激痛が走り、動けなくなった。
確か昨年の11月の欧州出張時になってから、これまで、
まるでその兆候がなかった。
確かに、年が明けてからというもの、無理に無理を重ねてきた。
なるべくしてなったということだろうが、命日の翌日という
ことが、妙に引っかかった。
何か親不孝なことをしたか、亡くなった母親の気に入らない
ことをしたかと考えても、思い当たらない。
今回は何をどうしても痛みが続き、まるで身動きが取れない。
ゴールデンウイークが終われば、また殺人的な忙しさになる。
その前に、身体を休めろということかと考えている。
いつもぎりぎりのところで守ってもらってきた。
今回もそういうことだろうと思う。
仕事も比較的落ち着いている状況の中、3日間休暇を取って
ゆっくり療養している。
そういえば、休日出勤はよくあったが、休暇を取るのは
本当に久し振りである。
今日になって、ようやく少しずつ身体を動かせるように
なってきたが、間断無い痛みには辟易させられる。
意識がしっかりしているなか、思うように身体を動かせない
歯がゆさ、情けなさ、苛立ち、焦り、そして吐き気をさえ
もよおす痛みの連続。
寝ても、座っても、立っても、痛みは変わらず、寝返りさえ
打てない状態では、眠ることもできない。
痛みの中でびっしょりと汗をかく。そうだ、あの離脱症状の時
以来の感覚だ。肝臓の鈍痛、眠れない夜、周期的にびっしょりと
かく汗。。。
断酒5年を前に、あの時の事を忘れるなという警鐘か。
無理を重ねれば、必ず付けが回ってくるというのは道理だが、
単にそれだけではなさそうな気がしていた。
普段、行動することを是としているものにとって、身動きが
取れない状態というのは、皮肉と言えば皮肉だが、様々な
気付きも得ることができた。
健康が一番であることは言うまでもないが、当たり前過ぎて
気にも留めていないことが、ありがたいことなのだとわかる。
適度な寝返りが快適な眠りに繋がるが、それができなければ
苦悶の夜となる。かがむという動作は普段、ほとんど無意識に
しているが、その都度痛みでできなければ、不便この上ない。
洗顔、入浴、用便、着替えなど、日常生活のなんでもないことが、
何一つまともにできない。靴下ひとつ履くのが大変なのである。
もしも和式のトイレだったら地獄であろう。
歩けば5分で行けるところに15分もかかる。バスや電車では
運転の質が身体でわかる。急加速、急停車、揺れなどが
直接身体に響くのだ。
要介護老人のようになったことで、様々に気付かされる
ことがあり、その分自身の健康に驕ってはならないことを
思い知った。同時に、今まで以上に、お年寄りに親身に
なれるとも思う。
ついつい忘れがちであるが、健康であることは決して
当たり前ではなく、感謝すると共にそれなりの管理が
必要である。自身の弱点がハッキリしている以上、
今回の一件を機に、ケアを怠ってはならないと痛感した。
健常であるに越した事はないが、それに驕れば、自分にも
人にも優しくはなれないであろう。
やはり感謝しなければならないのだが、こういうことがないと
なかなかそれを意識してできないものである。
ただ、たとえどういう状態であろうと、行動ということを
第一とする考えは変わらない。
人と比較する必要はない。自分ができることを、できる範囲で
精一杯行動していくことである。身体が動かないからといって、
気力まで萎えさせてしまっては、本当にどうしようもない。
反対に、少々気分が凹んでいても、何もする気がしなくても、
満足に動ける身体なら、何も考えずに行動するべきと
切に思うのである。
何もしないから、何もできない。
何もできないから、何も変わらない。
しなかった後悔よりは、した後悔の方がまだましであろう。
確か昨年の11月の欧州出張時になってから、これまで、
まるでその兆候がなかった。
確かに、年が明けてからというもの、無理に無理を重ねてきた。
なるべくしてなったということだろうが、命日の翌日という
ことが、妙に引っかかった。
何か親不孝なことをしたか、亡くなった母親の気に入らない
ことをしたかと考えても、思い当たらない。
今回は何をどうしても痛みが続き、まるで身動きが取れない。
ゴールデンウイークが終われば、また殺人的な忙しさになる。
その前に、身体を休めろということかと考えている。
いつもぎりぎりのところで守ってもらってきた。
今回もそういうことだろうと思う。
仕事も比較的落ち着いている状況の中、3日間休暇を取って
ゆっくり療養している。
そういえば、休日出勤はよくあったが、休暇を取るのは
本当に久し振りである。
今日になって、ようやく少しずつ身体を動かせるように
なってきたが、間断無い痛みには辟易させられる。
意識がしっかりしているなか、思うように身体を動かせない
歯がゆさ、情けなさ、苛立ち、焦り、そして吐き気をさえ
もよおす痛みの連続。
寝ても、座っても、立っても、痛みは変わらず、寝返りさえ
打てない状態では、眠ることもできない。
痛みの中でびっしょりと汗をかく。そうだ、あの離脱症状の時
以来の感覚だ。肝臓の鈍痛、眠れない夜、周期的にびっしょりと
かく汗。。。
断酒5年を前に、あの時の事を忘れるなという警鐘か。
無理を重ねれば、必ず付けが回ってくるというのは道理だが、
単にそれだけではなさそうな気がしていた。
普段、行動することを是としているものにとって、身動きが
取れない状態というのは、皮肉と言えば皮肉だが、様々な
気付きも得ることができた。
健康が一番であることは言うまでもないが、当たり前過ぎて
気にも留めていないことが、ありがたいことなのだとわかる。
適度な寝返りが快適な眠りに繋がるが、それができなければ
苦悶の夜となる。かがむという動作は普段、ほとんど無意識に
しているが、その都度痛みでできなければ、不便この上ない。
洗顔、入浴、用便、着替えなど、日常生活のなんでもないことが、
何一つまともにできない。靴下ひとつ履くのが大変なのである。
もしも和式のトイレだったら地獄であろう。
歩けば5分で行けるところに15分もかかる。バスや電車では
運転の質が身体でわかる。急加速、急停車、揺れなどが
直接身体に響くのだ。
要介護老人のようになったことで、様々に気付かされる
ことがあり、その分自身の健康に驕ってはならないことを
思い知った。同時に、今まで以上に、お年寄りに親身に
なれるとも思う。
ついつい忘れがちであるが、健康であることは決して
当たり前ではなく、感謝すると共にそれなりの管理が
必要である。自身の弱点がハッキリしている以上、
今回の一件を機に、ケアを怠ってはならないと痛感した。
健常であるに越した事はないが、それに驕れば、自分にも
人にも優しくはなれないであろう。
やはり感謝しなければならないのだが、こういうことがないと
なかなかそれを意識してできないものである。
ただ、たとえどういう状態であろうと、行動ということを
第一とする考えは変わらない。
人と比較する必要はない。自分ができることを、できる範囲で
精一杯行動していくことである。身体が動かないからといって、
気力まで萎えさせてしまっては、本当にどうしようもない。
反対に、少々気分が凹んでいても、何もする気がしなくても、
満足に動ける身体なら、何も考えずに行動するべきと
切に思うのである。
何もしないから、何もできない。
何もできないから、何も変わらない。
しなかった後悔よりは、した後悔の方がまだましであろう。