ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

重荷

2007年02月28日 | ノンジャンル
周期的な波に悩まされつつも、それなりに普通の生活が出来て
いるのは、家族の中で、癒されている事に負うところが大きい。

あの悪夢から2年近くになって、ようやく、平凡な事の
ありがたさを感じながら暮らせるようになって、落着いて
来たかと思っていたところに、厄介な事となった。

昨年の9月に妹ともめて、店に出て来なくなった父親は、
その後仕事を探すでもなく、兄弟の厄介になりながら
3ヶ月ほどぶらぶらしていた。
何度か兄弟で集まって話をしても、決まって「迷惑は掛けない」、
「心配要らない」の一点張りであったが、現実は無収入で、
生活が出来るわけでもない。

まあ、今まで頑張って来たのだからと、ある程度までは目を
瞑ってきたのだが、一向に自分から具体的な動きをすることなく、
引きこもりのような状態になっていたところ、酔っ払って
転んで大怪我をし、入院することになった。

頭の傷は大きかったものの、検査の結果は問題なく、一月ほどで
退院することになったが、結局、自分で何をどうするという
事もせず、どうにでもなれという感覚でいることは明らか
であった。兄弟皆、それぞれの生活で精一杯のところ、父親の
勝手気ままな一人暮らしを経済的に支えるのは難しく、
取り敢えず、一部屋を何とか空けることができる私のところに
引き取ることとなった。

仕事については、とことん頑張る方だったので、それが
なくなると、糸が切れたように気合も張りも、気力さえ
失ったようで、何をするでもなく、食事以外は、寝ているか、
テレビを見ているかぐらいで、子供達ともろくに話も
しないようだ。

いわば半年近く何もしないで過ごした後に我が家へ来た
わけであるから、すぐに何かが変わる訳ではないにせよ、
共に家で過ごしている者にとっては、精神的にかなり
重い、厄介な存在となってしまっている。

自分に出来ることを、出来る範囲で頑張るという気持ちで
家族の皆が一日一日を過ごしている中で、一人陰に篭って、
何もしないで漫然とその日をやり過ごすという者がいれば、
その家庭の雰囲気がどうなるかは、察して頂ける事と思う。
家に帰れば、努めて明るく皆と接することを心掛けているが、
正直、荷厄介な事になったと嘆息している。

私がようやく落ち着いて、これから楽しい生活をと思っていた
矢先のカミサンにとっては、本当に振り出しに戻して
しまったようで、申し訳ない。子供達にとっても、思春期に
そういう無気力な大人の姿を見せることは、あまり芳しい
事ではない。

私からすれば、同性の、同じ父親の立場で見てしまうので、
「それが、子供や孫たちに見せる、あなたの生き様か!」と
叫びたくなる衝動に駆られることもある。
自分の父親ながら、情けなさに歯軋りする思いなのである。

とまれ、嘆いたところで何も変らない事も自覚していて、
心療的な面とか、実生活の面とか、様々な面から徐々に
立ち直りのきっかけを与える事に腐心している最中である。

実の父親の事を荷厄介と感じている自分自身が親不孝者で
あることには間違いはないが、子供が父親に求めるものを
裏切った姿であることも事実である。

お酒こそ飲んではいないが、まるで飲んだくれていた頃の
自分自身を見ているようで、毎日気が重い。
これも、自身のしてきたことの応報かと思えば、何としてでも
変えていかねばならないのである。
一日の初めに気持ちを奮い立たせ、その日の終わりには、
次の日へ向けてまた引き締めながら、生活の基本である
家族だけは守り通そうと決意を固めているのである。


特別な一杯

2007年02月24日 | ノンジャンル
「故人への供養だと思って、どうぞ、一杯だけ
 召し上がってくださいな。」

通夜の席で、遺族の方にこう勧められては、断ること自体が
非常に失礼なことになってしまいます。

皆さんなら、どうお断りをされますか?

「私は、一滴も飲めない身体ですので、ご勘弁ください。」
「車で来ておりまして、代わりにお茶を頂きます。」
「全く飲めないもので、恐縮ですが、遠慮申し上げます。」

咄嗟に思いつくのは、こんなものですが、自ら進んで
飲んでいた自分が、勧められても飲まない為の弁解をする
など、考えたこともなく、実際にその立場に立ってみると、
なかなか難しいものです。

接待や、宴会の場では、これまで、「身体を悪くして」とか、
「ドクターストップで」とか、初めての場合なら、
「不調法でして」とかいう弁解で、飲まずに過ごしてきました。

冠婚葬祭においての、一杯のお酒というのは、祝いの儀式で
あったり、契りの儀式であったり、弔いの供養であったり、
請願の乾杯であったりと、大きな意味が込められた、
重い一杯であり、これを飲まずにやり過ごす事の方が遥かに
難しい場面でもあります。

この特別な一杯だけ。。。人として、当然であり、自然な
想いでしょう。
普通の人にとっては、本当になんでもないことなのです。
ただ、我々にとっては、自らトラップにはまるようなものです。
祝いと、弔いと、契りと請願の一杯が、再び自らを地獄へ誘う、
一歩となってしまうのです。

この、特別と思われる一杯がなくとも、祝いも、弔いも、
契りも請願も、しっかりと行うことが出来るのです。
むしろ、その一杯を飲まないことが、真の祝いと、弔いと、
契りと請願に繋がることを、改めて肝に銘じておくべきなのです。

それにしても、自業自得とはいえ、本当に厄介な病気に
罹ったものですね。
勧められるお酒を断るのに、四苦八苦している自分の姿が
滑稽で、自分自身に対して苦笑してしまいます。



絶好のチャンス

2007年02月23日 | ノンジャンル
先週末から、ごたごたが重なった、かなり苦しい1週間が
終わろうとしている。
まだ、この状態があと1週間は続くことになっているのだが、
さすがに疲れた。

ただ、こんな時必ずといっていいほど、お酒に逃げていたのが
まるで嘘のように、少しも頭をよぎる事が無い。
正直に言えば、お酒どころではないのである。

無意識に、お酒に逃げたくなるような状況に直面した時には、
絶対に飲まずに乗り切っていくという覚悟のスイッチが
自動的に入るらしい。

これはこれで、良い事なのだが、山や波を越えて、ホッと
胸を撫で下ろす様な時の方が、最も危険で、要注意な時で
あることは繰り返し述べてきた。

今、中間地点ともいえる場所にいて、そのことを痛感するが、
中休み的な地点で、危険予測を予めしておいて、覚悟を更新する
ことが出来るのは、ありがたいことだ。

宴席などのお酒の場を、せっかく飲まずに終えた後、
一人になった時に飲んでしまったということもよく聞く
話である。

お酒の場に出なければいけないとか、要するに予め身構えて
臨む場合には、少々の事は問題ともしないで、乗り切ることが
出来るであろうが、その後が問題となるケースが多い。

安堵した心の隙を常に狙っているのが、消すことの出来ない
脳内アルコール回路である。
苦しい時、辛い時、悲しい時、その回路はじっと次の転換期を
待っている。
つまり、安堵した時、楽になった時、嬉しい時こそ、
最も付け入り易い絶妙のタイミングなのである。

そのタイミングに、まんまと付け入られると、
スリップという事になってしまうのである。



ガァ子

2007年02月22日 | ノンジャンル
朝、ガァ子が死んでいたらしい。

小学校で飼育されていた、アヒルのガァ子である。

息子が入学する前から飼われていて、その後、飼育栽培委員を
やり続けてきた息子とは、かれこれ4年以上の付き合いであった。

飼育小屋の掃除、餌やりと、ずっと面倒を見てきた息子に
とっては、ショックだったろう。
卵も産まなくなって久しかったが、寿命を全うしたらしい。

カミサンの話だと、学校から帰ってきて、しばらく玄関で
佇んで、様子がおかしかったようだが、自分なりに気持ちが
少し落ち着いたのか、夕食時にぽつぽつと話をし出したようだ。

足が少し悪くて、病院へいった事。
昨日は、普通に元気であった事。
死んだ時は、目も開いていて、いつもと変らない姿に見えた事。
飼育委員のみんなは、泣いていた事。
泣いても、ガァ子が帰って来る訳じゃないので、自分は
泣かなかった事。
保健所の人が引取りに来た事。
先生がガァ子の羽を一枚、土に埋めて、お墓を造った事。

ぽつぽつと話す中で、涙ぐんでいたようだ。
家に帰り、カミサンから話を聞いて、正直、自分もショックだった。

一生懸命世話をする息子のことをガァ子もわかっていたのだろう。
掃除の時は、息子の姿が見えると、ちゃんと小屋を出て、
掃除が終わるのを待っている。
とても懐いていたようで、休みの日に学校のそばを歩いていると、
息子の声を聞き分けて、「ガァガァガァガァ」と呼びかけていた。
「ガァ子!静かにしいや。また明日な!」と息子も声を掛けていた。
と、ガァ子も鳴き止むのである。

時折、息子から話を聞いていた自分でさえ、感慨深いのに、
ずっと世話をしていた息子は、さぞかし、悲しい、淋しい思いで
あろうが、じっと我慢していたようだ。

「そっかぁ、ガァ子は死んじゃったか。」
「きっと、お前たちが卒業して、お別れになるのが
 嫌だったんやな。」
「だから、ちょっと先に逝ってしまったんかもな。」

二言三言、声を掛けると、うつむいていたが、涙がこぼれていた。
うん。その、人としての素直さと、優しさをこれからも大切に
持ち続けて欲しい。
ガァ子は、お前と出会えて、本当に楽しかっただろうし、
幸せだったと思う。
そして、幸せなまま、先に逝ったのだろう。

口には出さなかったが、誰よりも息子が、小さな胸を一杯に
していたことだろう。
卒業を目前にした、息子の成長を見て、私も胸が一杯であった。



品性

2007年02月21日 | ノンジャンル
人の品性というものは、その方の生まれ育った環境や経験に
養われ、自己を律する中で培われてきたものが、言動、立居振舞、
挙措動作、行動に滲み出るものである。

この品性が欠けている事が、しばしば人の不快のもとと
なるのであるが、こればかりは、自分で気付くということが
難しいようである。

他人の為にした事をいつまで忘れないで、恩着せがましさが
折々に表れる人。
他人に感謝された時点で、そのことを忘れてしまうくらいの
清々しさが欲しい。

他人を傷つけたことは、もう済んでしまった事と、
あっさり忘れる人。
負の記憶というよりは、自分への戒めとして、記憶に留めて
おくことが自分にとっても、周りにとっても有益となる事を
知るべきである。

他人の陰口をたたき、当人がいる場合には、別の人の陰口を
たたき、人を下げることで、自分を高く見せようとする人。
自分自身が、同じ様に知らないところで軽侮され、批判されて
いることを知るべきである。
自分に対する陰口はあってしかるべきと自覚しながら、他人の
陰口をたたかない、毅然とした自律の精神を持つべきである。

懐が大きく、大雑把なようで、細やかな気配りも出来る品性の高い人
というのは、他人に傷つけられたことや、他人の為にしたことは、
さっぱりと水に流し、人より受けた恩恵は、常に感謝の念を持って
大切にし、人を傷つけてしまった時には、反省すると共に
己の戒めとして銘記しておく。
他人の陰口をたたくという、愚痴の人生の愚かさを悟り、
自分に対する批判には耳を傾けながら、決して囚われることがない。

こうしてみてみると、残念ながら私を悩ませるのは、常に品性の
欠けた人達である。
そうした人達が近付いてきて、私を悩ませるということは、即ち、
私に品性が欠けている事の証左なのである。