ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

ギックリ

2014年04月22日 | ノンジャンル
別段、何をしていたわけでもなかったが、ふと屈んだところで
後ろの腰を、真横に切られたような電撃が走ったかと思うと、
もう動けない。

しまった、やってしまったと思いながら、徐々に寝そべって、
左右のストレッチをする。

これはヤバイかもしれないと思いながら、応急手当てをして、
出勤したが、少し坐っていると、もう立ち上がるのが辛い。
何かにつかまって、支えて、やっと立ち上がっても、
思うように歩けない。

それに慣れると、立っていても歩いていても
支障はないのだが、座ったり、寝たりすると、
起き上がるのが非常に辛くなる。

早い目に整骨院で施術をしてもらい、今でもまだ痛みは
あるものの、当初よりは大分よくなった。

ここのところ、疲れが溜まっている時は、こうなる前に
施術を受けていたので、動けなくなることはなかった。
久し振りに、ギックリの一歩手前のところに来た。

これはなった人にしかわからないだろうが、腰は
身体の要部と名付けられるだけあって、こうなった時に
初めて普段、ありとあらゆる動作に、どれほど腰が
要として関わっているかがよくわかる。

電車に乗っていて、揺られる体を支えるだけでも
痛みが走る。

自身の一挙手一投足に、腰が必ず関わっていることを
思い知らされる。

断酒を継続していると、それをあまり意識しないように
なってくるが、それは要するに生きる上での
腰のようなものである。

その腰が砕ければ、すべてが砕ける。
身体を動かせなくなるのと同じで、お酒に縛られ、
身動きの取れぬまま、死へと向かう。

死というのは、肉体的、精神的死である。
つまり、ありのままの自分らしく生きることが
できなくなるということだ。

これは生きているとは言い難い。
少なくとも生きているということは、そこに
なにがしかの可能性が常にあるはずだ。

残念ながら、飲み続ける中には、可能性はあっても、
それを開くことはできない。
断酒によって、初めてそれを開く希望が
顕れるのである。

「断酒は腰」
今のこの痛みに苦しめられる分、
このことを忘れないようにしたい。




失う欲求

2014年04月21日 | ノンジャンル
人間の欲望というのは計り知れない。

およそ人として、様々な欲望があって
初めて、生きる意志というものを持つ以上、
それが完全に且つ継続的に満たされたなら、
それは、その意志そのものを失うことになる。

無論、欲望は得ることを目的とするのだが、
その発動する力の源泉は、得ることができない状況にある。
欲しいけれど手に入れられないという状況においてこそ、
その力が発揮されるのである。

つまり、得た時点で、その力を失うことになる。
得た喜びというのは長くは続かず、刹那的で、
だからこそ、その喜びを多く得ようとしてしまう。

欲しいと思って、すぐに手に入れば、その喜びは
小さく、なかなか手に入れられなかったものを
苦労に苦労を重ねたすえ、得たときの喜びは、
無上に大きい。

塩味ばかりでは閉口するが、甘味ばかりでは
そのありがたさも薄れていく。

お酒で失う経験をしたものは、断酒によって、
それ以上の失いを止める。

しかし、断酒継続の中でもすべてがうまくいく
わけではない。そこにある苦労と悩みに対峙し、
それを素面で乗り越えていこうとする中に、
喜びも生まれる。

だが、繰り返しスリップをする人は、どこかで
失う欲望を持っているのではないか。
飲めば、なかなか止められない、そのうちに
失うものも増えていくことを百も承知で飲む。

そういう病気ではあるのだが、飲まずに辛いことを
乗り越えていく経験を積んでいくしかない。

だが、本人に、失うか失わないかのギリギリのところに
立たされることで快感を覚える癖がついていると、
これはもうどうしようもない。

一般に言う、「底つき」というのは、飲まずに生きると
覚悟する、決定的な自身の内の頭打ちである。

そこに行かないうちは、得る喜びと共に、失う欲望を
併せ持っている。
その状況を変えられるかどうかは、体力勝負である。
底つきの時点でもう体力がなければ、意志には関係なく
死ぬことになる。

最後の命を失う時点で、そのまま失う欲望に飲まれるか、
自身の生き方そのものを変える覚悟をするか。

その命を失う狭間を見た者は、死ぬか、飲まずに生きるかの
いずれかの選択を自身につきつけられる。

そして、残念なことに、圧倒的に死ぬ人が多いのが、
この病気の現実なのである。