ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

教育の義務

2010年03月24日 | ノンジャンル
義務教育というものを、履き違えて考えているものがいるので、
ここに明確に述べておく。

子供の養育者、保護者には、その責任として子供に基本的な
教育を受けさせる義務がある。
これを義務教育というのである。

国や民間の教育機関は、教育を提供する場であって、
それ自体に教育の義務があるわけではない。

日本では、義務教育期間を年齢で定め、その教育も機関に
おける就学制となっている。
機関運営について、国公立であればその費用の大部を
税金で賄い、民間であれば、就学生徒の保護者より
殆どを徴収する。

このごく単純明快な理解が成されないことこそ不可解である。
税金を納めているから、義務教育だからと、学校で必要となる
費用の支払いをしないというのは、破綻した論理であり、
単なる屁理屈である。

この時点で、最も重大なのは、責任、義務、権利、自由という
基本的な理解を子供に対し、実地に誤らせていることにある。

子供に教育を受ける義務があるのではない。
それは、子供の教育を受ける権利なのである。
親は、その権利を認め、且つ親としての責任のもと、
その義務を負うのである。

さて、息子の進学により、一応の教育の義務は果たせた
ことになる。
娘にしても息子にしても、常に言い聞かせてきたのは、
勉強してくれと頼んでいるわけではないということだ。
進学にせよ、就職にせよ、断じて頼んだ覚えはない。

本人が望む道であるなら、その道を進むための応援は
できる限りのことをしていこうという立場である。

高校進学は、ごく普通の事となっている現代、高校も
義務教育期間とすればどうかという意見もあるようだが、
私は反対である。

まだまだ、大人ではないが、もはや子供でもない。
自分の進む道がまだ見えなくとも、少なくとも自分の
やりたいことぐらいは分別できる年頃である。
自身のことを自身で決めていく時でもある。
義務教育化は、その可能性の芽を摘むことになると
考えている。

勉強、学習から、自ら問いかけていく学問へと切り替える
時期である。
それは、「聞く」から、「聴く」へと転換していく
時でもある。
つまり、「自由」と「権利」から、自らの「責任」と
「義務」を実地に学ぶ時期であるとも言える。

親の責任、義務としての教育期間は終わったが、
支援者、応援者としての立場はまだまだ続きそうである。
叱咤激励は、カミサンに任せるとして、私はしっかりと
応援、支援体制を調えねばならない。

親であることが一生であるように、子供の応援者で
あることも一生である。
子供が自立したなら、それは応援であって、支援であっては
ならない。自立とは、自身が応援者、支援者となっていく
ことだからである。




サクラ咲く

2010年03月23日 | ノンジャンル
朝食が、喉を通らない様子の息子。

ランクを落とすことを勧められたが、あえて挑戦するのが
男と教え、共に精一杯頑張ってきた。

最後の締めである以上、その結果を見届けることにした。

懐かしい緊張感。だが、自分の時の方がよほど楽であった。
隣にいる息子の心情は、痛いほどわかる。

だがそれ以上に、私の心に渦巻く不安と期待、何があろうと
動じず、先を見据えて話をする覚悟、諸々の想いと緊張で、
胃も痛み出す。

学校が近付くにつれ、息子の足は逸る。
校門をくぐり、掲示板を見る。

「あった!」の叫び声を聞きながら、ゆっくりと番号を
確かめる。間違いないか、前後も見て、その番号が確かに
そこにあることを確認した途端、身体の力が一気に
抜けるような感覚に襲われた。

「よかったな。おめでとう。」

彼も、苦しいほどの緊張から一気に解放されたのであろう。
涙ぐんでいた。

よしよし、今のその想いを忘れるんじゃないぞ。
頑張って、勝ったのはお前だが、どれほどの人達が
おまえを心配して支え、応援してきたかも忘れるな。

勝っても負けても、問題はここからだ。
ここからが本当の勝負だ。

自身が望んだ道に、まず一歩を踏み出した以上、
挑戦し続ける高校時代であって欲しいと願う。

あの虹は、ちゃんとわかっている笑顔の祝福だったか。
まだまだ敵わないな、おふくろには。

まあ、ともかく今日は祝いの日として素直に喜び合おう。
それが、彼の支えともなっていく。

皆様にも、多く、ご心配や励ましを頂きました。
「サクラ咲く」ご報告ができます事、大変嬉しく思います。
本当にありがとうございました。






笑顔の虹

2010年03月22日 | ノンジャンル
土曜日、久し振りに通院した。春の陽気となった日で、
その後、カミサンの母親のお墓参りに行った。

どうか、見守っていてください。命のある限り守っていきます。

手を合わせるたび、これまで幾度となく祈ってきたことである。

その夜は嵐のような天気になり、一晩中、風と雨で外は
大荒れであった。

一夜明けて、煙るような空に黄砂で景色は霞んでいた。
風は相変わらず強いが、不思議に、台風のあとのような
すっきりとした透明感がない。

どうするかなと迷ったが、私の母親の墓参りに
出掛けることにした。

3連休とあって、高速も混んではいたが、晴れ間が
広がっていた。
墓園は山あいにある。到着する頃には、空がにわかに
暗い雲に覆われ出して、雨が降り出した。

雲が速く、西の空が明るいので、しばらく車の中で雨がやむのを
待っていると、雨が霰に変わった。
昨日とは打って変わったような冷たい風が吹き荒れた。

墓参りに来て、こんな天気は初めてだなと思ううちに、
小降りになってきたので、墓へと向かった。

墓の前に皆で座ると、陽が差してまた暖かくなった。
ふと見上げると、空に虹が掛かっている。

手を合わせ、母親に感謝した。あの荒れた空のすぐあと、
墓前に皆が揃うと、笑顔の陽射しと、虹を見せてくれた。
死して尚、なかなか味なことをするもんだなと、
母親に笑って見せた。

家族のものそれぞれが、それぞれなりに、おばあちゃんの
粋な計らいに思いを馳せたことだろう。

子供たちは、おばあちゃんの笑顔しか覚えていない。
やっぱり、孫たちにはいつでも笑顔を見せたかったに
違いない。

いや、孫たちを見て、自然に笑顔となっていたのだろう。
子供は、仏様だとよく言っていた。

今日は本当にありがとう。みんな、元気です。





為すこと

2010年03月20日 | ノンジャンル
お酒をやめるも、やめないも、本人次第である。

誰かに褒められるためでもなく、誰かのためでもない。
他でもない、自分のためにやめ続けるのである。

今の私には、もはや自分のためでもない。

ただ、自分の為すことを、許された時間の中で為そうと
思い、願うのみである。

やめ続けているから偉いのか。やめられないからだめなのか。

やめ続けて、やっと普通の人である。
やめているからといって全てがうまくいくわけではない。
そもそも人生そのものが思い通りには行かない。
かといって、思い通りにならないことから逃げていても
何も始まらない。

やめられないのもだめなら、やめているだけもだめである。

ただ、為すことを為す。その生きる行動の中で、
苦悩も、悲哀も、楽しみも、そして喜びもありのままに
受け入れ、それを生きる力にしていこう。

己の為すことは、今はわからなくとも、やがてわかるであろう。
むしろそれがわかって、生きている人は少ない。

皆、己の為すことを自ら決めて、それを為そうと
生きていくのである。

いつかそれがわかったとき、それがその人の転換、
新生の時かもしれない。

一度の人生だが、人はその中で幾度か生まれ変わることが
できるのである。




三つの星

2010年03月18日 | ノンジャンル
まだ結婚前、アメリカに駐在の話がほぼ決まりそうであった。

26歳の頃だったか。
これはもう結婚は無理だと諦めていた。むしろそんなつもりも、
相手もいなかった。

丁度その頃に、今のカミサンと再会した。知り合ったのが、
彼女が18の時。その再会の時は二十歳だったか。

母親をまだ1歳の時に亡くし、親戚に預けられた彼女は
ひどい虐待を受け、中学の時にようやく再婚した父親に
引き取られた。

継母とそりが合わず、卒業と同時に専門学校に通い、
美容師となって自立し、家を出た。

そんな彼女に、暗さは微塵もない。そこにいるだけで
周りがパッと明るくなるようなオーラがある。
それは今でも変わらない。

彼女の生い立ちを聞いて本当に驚いたものだ。
その姿や表情にそんな過去の陰が少しも見えなかった。
凛としているその気丈さと、明るさに惹かれたのかもしれない。

彼女と再会し、その後いく度か会う中で、一緒にアメリカに
来ないかと訊くと、彼女は笑っていた。

現地の準備のために渡米し、自分のオフィスも構えたあと、
彼女から連絡があった。アメリカには行けないと言う。
これまでの自分の心を支えてくれた、母親のお墓から離れる
わけにはいかないと言う。

もっともな話である。私などいなくても彼女はこれまで通り
明るく強く生きていくだろう。彼女の支えは、誰に訊いても
明るく優しい女性だったという彼女の亡くなった
母親なのである。
私などが太刀打ちできるわけがない。

ところが、どうしたわけか、私は彼女を守りたいと思った。
たとえ離れていても、他の誰でもない、自分が彼女を支え、
守ろうと思った。

その想いが、どうしてそうなったのかよく覚えていないが、
自分の身体にその印をつけておこうと思った。
煙草に火をつけ、一、二服して、先の火がまるくなった
ところで、それを腕に押し付けた。

熱いというより刺すような痛みと共に、皮が縮み、
嫌な臭いがした。それを三度繰り返し、腕に三角の黒い
火傷痕がついた。
なぜ三度だったのかもわからない。

後でその傷は膿み出したが、そのまま放っておいた。
帰国して、彼女と会い、プロポーズした。
何か、気の利いた事を言ったわけでもなかった。

火傷に気付いた彼女に、そのわけを訥々と話した。
傷に手を当てながら、彼女は泣いていた。

駐在の件は、その後、現地の日本人採用によって、
白紙となった。
そして、彼女と私は結婚した。

娘が生まれ、息子が生まれ、4人家族となった。
今になって、腕に遺る三つの火傷痕を見るたびに、
カミサンと、娘と、息子の三人の意味だったのかと
不思議に思うことがある。

振り返れば、支え、守るどころか、反対にこの三人に
支えられ、守られてきた気がする。
なんとも情けない亭主であり、父親である。

あれから20年。泣いたり笑ったり怒ったり。。。
これから先、子供たちが巣立っていく時であるからこそ、
本当の意味で支え、守っていかねばならないものがある。

だからこそ、腕の三つの火傷の痕は、三つの星にも
見えるのである。