ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

呼び名

2018年06月29日 | ノンジャンル
子供たちは、初めはパパ、ママと呼んでいたが、
いつの間にか、娘は父ちゃん、母ちゃん、
息子は父さん、母さんと呼ぶようになって、
今に至る。

子供たちの名前にちゃんをつけて○○ちゃんと
常日頃から呼ぶようなことは夫婦ともなかった。
妙に違和感があったからだろう。

ところが、夫婦間で言えば、結婚する前から
名前で、○○さん、○○ちゃんと呼び合っている。

それは子供ができてからも変わらず、、直接呼ぶ
時には、今も変わらない。

呼び方ひとつで不思議なものだが、例えば
お母さんと、子供目線で同じ呼び方をすると、
お母さんになってしまう。

子供たちにとっては、もちろんお母さんなのだが、
私までがお母さんと呼べば、家族において、
お母さんの立場がほとんどとなってしまう
という事だ。

だが、私が今なお、○○ちゃんと呼ぶことで、
家内はしっかりと母親と妻という立場を
意識している。

もちろん、私と話をするときは妻の立場である。

たまに会う人ならともかく、日々の生活を共に
するものにおいては、呼び方というより、
呼ばれ方が大きな影響力を持つと思われる。

○○ちゃんと私が呼び続ける限り、家内は
結婚当時の○○ちゃんのままで、これからも
あり続けるだろう。

お前は、死ぬまで○○ちゃんやろうなと冗談で
言う事があるが、冗談ではなく、おそらく
本当にそうなるであろうと最近思うのである。

呼び名とは、そういうものかもしれない。





握手

2018年06月27日 | ノンジャンル
人に会ったら挨拶しなさいとは、子供たちに教えて
きたことである。

自身も普通にして来たことであり、何ら抵抗は
ないので、子供たちも自然に身についたようだ。

時には、こちらの挨拶に無言でいる人もいる。
そのことに憤慨する子供たちによく言ったものだ。

挨拶を返さないのは、その人の自由であり、
もしかしたらその人の問題かもしれないと。

挨拶しないのではなく、挨拶できないの
かもしれない。あるいは、挨拶したくないの
かもしれない。

だがそれは、やはりこちらの問題ではなく、
相手の問題である。
無論、相手がそれを問題としていないなら
それでも良い。

しかしながら、それがきっかけで、自身が
挨拶しなくなったとしたら、それは自身の問題と
なってしまう。

相手の問題を、わざわざ自身の問題とする
必要はない。

仕事面では、当然ながら、そういったことは
あり得ないが、握手の時に、こちらに
握られっぱなしの人がたまにいる。

これは、挨拶をしない事よりも失礼である。
握手は、互いの意志表明であり、励まし合い
でもある。

一方的な握手というのはあり得ない。
相手と同等の力で、互に握り合ってこその
握手なのである。

そしてそれは、大抵の場合、相手の問題という
だけでは済まされなくなる。

実際に会って、挨拶で話を始めて、握手に
至ったなら、そこに相互の責任が確定する。

握り返さないという事は、その責任の放棄と
捉えられても仕方がない。

海外との取引においては、特にこの挨拶と
握手が重要な鍵となる。

グローバル化などという浅薄な言葉は
どうでも良いが、せめて握手くらいはしっかりと
できるようにしたらどうかと思う。





頑固おやじ

2018年06月26日 | ノンジャンル
車で信号待ちをしていた時の事。

「なにやっとんじゃ、あぶないやろが!」という
怒号が聞こえた。

見ると、原付に二人乗りした若いのが、歩道を
通っていたようで、自転車に乗ったおじさんが、
その二人を叱り飛ばしたという事だ。

原付は走り去ったが、若いのに反省の様子はない。
おじさんは二度三度と後ろから怒鳴っていた。

子供の頃は、近所に必ず怖いおじさんがいて、
いたずらや、悪いことをすると、誰彼無しに
大きな声で叱っていたものだ。

頑固おやじというのは、何も家の中だけではなく、
どこにいても頑固おやじなのである。

叱られた方が逆切れしておじさんを刺すという
ような事件もあったが、いまだにこうして
怒鳴るおじさんがいるというのは嬉しい。

何も言わず、放っておけば、何事もないだろうが、
それはいわゆる無責任な事勿れ主義である。

家族に、地域に、頑固おやじが少なくなってきた
からこそ、その関係の希薄化が進んできた。

頑固おやじの風格も貫禄も私にはないが、
見た目は怖いとよく言われる。

いつだったか、明らかに未成年と思しき子が
タバコを吸っているのを見かけて、「いくつだ?」
と声をかけたことがある。

訊くまでもなかったのだが、驚いたのか、
その子は慌てて煙草を消した。

「タバコなんぞはいつでも吸える。今はしっかり
 飯食って、身体を作れ。」と言うと、素直に
うなずいていた。

身長の高い私が、文字通り上から言ったので、
説得力があったかもしれない。

細かいことを口うるさく言う必要はないが、
言うべき時はしっかり言う。

これを自然に腹に据えているのが頑固おやじ
だろう。

言わない無責任。 言う覚悟。
頑固とは、この覚悟を持ち続ける事であろう。





引き分け

2018年06月25日 | ノンジャンル
サッカーのワールドカップで深夜まで賑やかな事だが、
私はとんと興味がない。

何より、大勢の人が集まって騒然とする場が
大嫌いである。

チームのサポートとはまるで関係ないバカ騒ぎも
あるようだが、サポートするなら、形勢不利、
リードされている時こそ盛り上げたらどうか。

勝負の世界は結果が全てである。勝てば全てを
手にし、負ければ淋しく佇む。どちらの時に
本当にサポートが必要なのか。

仕事面では、同じく、利益を上げたか、損失を
出したかの二極である。
その過程や状況などはともあれ、結果が全てなのは
変わりない。

日頃からそういう環境下にあるものが、
プライベートにまで、勝ち負けを
持ち込みたくはない。

無論、二極である以上、引き分けはない。
一円でもプラスなら勝ち、マイナスなら負けである。

今回のゲームは引き分けとなった。
これは結果であり、事実であり、変わらない。

ゲーム内容としては、相手チームに2度リードを
され、2度追いついての引き分けである。
勝ち点が付くとはいえ、まるで勝ったかのような
騒ぎだった。

逆に、こちらが2度リードして、相手チームに
2度追いつかれての引き分けだったなら、様相は
まるで異なっていただろう。
よく頑張ったという称賛も、真逆の批判となって
いたかもしれない。
結果は、同じなのにである。

人に約せば、後悔か、ほぼ満足かの違いである。
リードを守り切れば勝てたのにという後悔か、
諦めずに頑張って追いついたという満足か。

この差は、人が生きるという点で、実は極めて
大きい差なのである。

事実としての結果が同じでも、そこに至る内容に
よって、未来の開け方は自ずから異なるであろう。

結果は出た瞬間に、過去のこととなる。
人が生きる上では、結果はやはり全てでは
ないのである。





仕事が趣味

2018年06月24日 | ノンジャンル
家内は美容師という国家資格を持つ。
仕事は忙しいが、休日はジムに通ったり、
趣味のベリーダンスを楽しんでいる。

私はと言えば、英語は話せても国家資格はない。
仕事とプライベートはハッキリ区分けする方だが、
休日に夢中になれるこれといった趣味もない。

我ながら、幅もない、面白味のない男だと思うが、
家内と結婚する前も、「仕事が趣味」だと言って
いたらしい。

確かに覚えがあるし、若い頃から面白味のない
奴だったんだなと苦笑するしかない。

だが彼女の話は違う。
男は仕事だ。その仕事が趣味だと言える人は少ない。
それが全てではないが、結婚を決めた一つの
理由だったと。

野球が好きで、プロ野球選手になる者は特別である。
そして、それは生きる為に仕方なくする
仕事ではない。

悩みもある、面倒な事もある、だが楽しみでもあり、
為すべきことがあるという事が、活力ともなる。

特別な者ではないにせよ、その意味では
同じではないか。

仕事が趣味というのは、ある意味幸せな事なのだろう。

とはいえ、ひとりで集中できる時間の必要もある。
昔は、ありとあらゆる模型組立てが好きだった。

少し大がかりな模型に取り組んでみようかと
考えている。

それは、仕事のための休日ではなく、楽しみの
ための休日とするためでもある。

となれば、仕事もプライベートも楽しみとなる。
これは贅沢というものだろうか。