ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

なにもしない

2010年03月30日 | ノンジャンル
一日を具体的に行動して、充実感を得るのも、
無為に過ごして、自己嫌悪、自己憐憫に陥るのも、
全ては、誰のせいでもなく自分自身のせいである。

だからこそ、この充足と不足についてはあくまでも
主観であり、必ずしも客観とは一致しない。
自分では精一杯でも、他から見れば不十分ということも
あれば、自分では不満足であっても、他から見れば十分という
こともある。

自身の充足が、他から見ても十分であればこれほど
幸せな事はないが、なかなか主観と客観が一致する
ことは少ない。

具合が悪くて、一日寝ていたとすれば、なにもしていない
ように思えるが、調子を取り戻すために、たとえば薬を飲む、
身体を休めるということをしているのである。
なにもしていないわけではない。

少しでも具合が良くなって、自分が良かったと思えるなら、
それで良いのである。なにもしないで一日ごろごろ
していただけと周りに見られたところで、仕方がない。
それは仕方がない事としておけばよい。

不幸なのは、周りの評価ばかりが気になり、それを
満足させることに疲れ果て、自身の充足がないことである。
人の満足を自分の充足と考える人なら、疲れることはない。

さて、人が生きている以上、なにもしないということは
ありえない。
それがどんな価値を産み出すか、
つまり生産的かどうかという尺度や、意味があるのかという
見方は、あくまでも判断基準の一側面にすぎない。

人は、意味だけで生きているのでもないし、
可能性というものは、即物的な思考とは一線を画する。

やはり大切なのは、自分自身の充足なのである。
死したものでさえ、物理的には何も出来るはずがなくとも
生きるものの心に重なり、その心を支える。
自分が満足すれば、その心を支える亡きものも、
満足であろうと感ずることができるのである。

さて、「なにもしない」は、断酒においては不可欠である。
「飲む」は行動だが、「飲まない」は行動ではない。
生きることを諦めないで、お酒を飲むことは諦めたのである。

極端だが、この病気となって命を一度は失いかけた以上、
お酒を諦めないなら、生きることを諦めなければならない。

この二者択一はこの病気となってしまった以上は仕方がない。
どちらも諦めたくないと言っても無理なのである。
どちらを諦めるのか。主体は自分である以上、その選択も
自分自身の問題である。

「飲まない」を、「なにもしない」と捉えるなら、
特に初期の頃は、意識して「しない」事を心掛けるべきである。

自動販売機、コンビニのお酒販売コーナー
→ 前を通らない、見ない。

お酒のコマーシャル
→ 見ない。 チャンネルを変える。

夜の繁華街
→ 行かない。

酒席、宴会、飲み会
→ 行かない。行くなら車で行く。

案外、「なにもしない」ということが難しいことが
わかるであろう。
私は、仕事上必要な場合もあるが、あえて自分で
逆のことをしてきた。

グラスに手を伸ばし、口元で傾ければそれでおしまい
という状況にあえて自分を置いて、その覚悟を
強化してきた。
飲めたら飲みたい自分に対するサディスティックな
仕打ちである。
反面、飲みたい自分はマゾということになるだろう。

但し、これは毒をもって毒を制するような危険極まりない
例であり、絶対にお勧めはできない。
やはり、お酒に関しては、
「なにもしない」事を心掛けるのが無難である。