ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

変乱

2009年07月27日 | ノンジャンル
46年ぶりの皆既日蝕。

出張で見逃したが、日本でも天気が今ひとつで、ハッキリと
見ることはできなかったようだ。
上海も曇りで、結局、今回は日蝕で暗くなる体験をしただけ
ということになる。

とどまることをしない変化の中で、そこに秩序がある。
もちろん、変化自体は限定されるものではないから、
カオスとなる場合もあるが、実はその中でさえ、秩序自体は
潜在している。

私が生まれた年に前回の皆既日蝕があり、今回はカミサンの
誕生日に起きた事になる。

テレビで見たが、規則正しい方向性を持つ鳥の群れは、
一瞬、蜘蛛の子を散らしたように方向性を失い、バラバラと
なっていた。動物園のワニは一斉に水面から顔を上げ、
天を仰いでいた。

磁場の狂い、リズムの狂い、或いは突然の変化に敏感な動物の
反応を見るにつけ、人の鈍磨された感性に思いを馳せる。
予め知らないで、突然太陽が消え、黒い太陽が空にあるとき、
人は何を想い、何を感じ、何に恐れを抱いたのか。

その恐れは、あながちに情緒的なものだけではなく、本能的な
ものであったはずである。
そして、その恐れを感じないなら、むしろその方が問題である
と言える。

星の乱れは、世の乱れであり、天候の乱れにも繋がる。
そして変乱の時にこそ、人はその真価を問われる。
君子然とした人には、その醜い面を責めてみると良い。
悪行を重ねるものには、その善い一面を褒めてみると良い。
なかなか、人というものの真価を見出すのは難しいことである。

壮大な天体ショーとして見るのもよし、叙情的に見るのも良し、
無関心でいるも良しだが、変乱の真っ只中に身を置くとき、
関心のあるなしは関係がない。望まずとも渦中に身が
おかれた以上、さて、どうするのかは全く自分自身次第
だからである。




星降る夜

2009年07月24日 | ノンジャンル
現場は今日が最終日。

何とかやり切ろうと、ナイトワーク。
終わったのが9時を過ぎた頃。

周りは真っ暗。 だが遥か地平線は、暗い紫、赤、
オレンジの線を細い刷毛で刷いたように朧に仄めいている。

光を遮る物のない荒野の夕暮を前にするなら、そこには
思考などなく、ただ詩情があるのみである。

ホテルへの帰り支度を終えて再び表に立てば、
そこにはただ闇が広がるのみ。
これほどの闇は、日本にも少ないに違いない。

つと空を見上げると、手に届くほどの近さに無数の星々。
これが見たかった。
ヴィーナスなどは、あきれるほどの大きさと輝きで、
すぐそこに浮かぶ。

頭上にのしかかるような、巨大な北斗七星に気がつく。
確か、長崎でもはっきり見えたが、これほどの大きさでは
なかった。

都会で住む我々が見ているのは虚構の星かも知れない。
漆黒の闇に包まれた大地に立ち、この星空を見上げた時、
私は確かに宇宙の中心にいるような気がしたのである。




黄砂に吹かれて

2009年07月22日 | ノンジャンル
連休明けの朝の大阪は曇り空。

空港へ着くと、黒い雲に覆われ、バケツをひっくり返した
ような土砂降り。
視界も悪く、飛行機が遅れるかもと心配したが、定刻出発。
大したものだ、ボーイング。

北京で乗り継ぎに5時間待ち。大して時間を潰せる施設もなく、
あまりの人の多さに閉口したが、お客さんと無事合流し、
包頭へ。

離陸後、北京の空を見て驚いた。水平線でもない、
地平線でもない、が、何かはっきりと大気を割る一線が見える。
汚染された地表の空気と、上空の澄んだ空気の層との
境目である。その境目は不気味にはっきりと輝いていた。

それまで田園区画のはっきりした緑の地表が、徐々に灰色へと
変わっていく。
やがて紙を皺くちゃにして置いたような、峻嶮な山並みが
ジオラマのように眼下に広がる。

日本の緑の山々ではない。ごつごつとした、色気のない岩山
ばかりで、生物、植物を寄せ付けない厳しい姿は、地獄の
情景を彷彿とさせる。冬は生命を完全に拒絶し、近寄れば
そのまま死を意味する。

高速の右側、つまり北側は、荒涼とした山々。それを越えれば
モンゴルの草原が無限に広がる。
山の裾野が高速のそばまで迫り、左側を見れば岩と砂だけの
荒野が広がる。

舞いあがる黄砂は、一団の塊となって空に漂う。夕暮の空は
薄い青色だが、あきれるほど高く抜けていて日本の秋の空
よりも澄んでいる。

緑は、植林ばかりで、山の崩れや砂塵を防ぐ目的で定間隔に
見られるが、どれも瑞々しさが微塵もなく、火山灰を
かぶったようにくすんで見える。

せっかく植えても、山が崩れたなら終わりで、イタチごっこ
なのであろう。山肌は斑に緑らしきものが点在し、死斑の
ようにも、ハイエナの模様のようにも見える。

砂といっても、パウダーのような細かさで、一面を覆っている
中では、霧の中にいるようで、視界は悪い。
湿度は低く、すべてが乾燥しているが、砂塵が空を覆い、
曇っているようだ。

期待していた星空は眺められそうにない。
荒野の夕日は長く沈まずに、最後の名残を惜しむように
一層の輝きを大地に投げる。
午後9時を回っても、空は薄明るい。

ホテルとは名ばかりで、要するに田舎で飯を食わせる
ところが、宿も提供するという名残であろう。
エネルギー節約のため、部屋は薄暗く、不足がちな水は
あえて勢いを制限して、出たり出なかったり。。。

まったく、なにもかもが荒涼としている。が、人々は
まじめで、温厚にして、人懐こい。

現場で数時間も過ごせば、粉のような砂が耳、鼻、口に
容赦なく入り込んで、首から上はどこもかもざらざらする。
口中はじゃりじゃりし、耳や鼻をティッシュで掃除すれば、
黒っぽい黄色に染まる。
炭鉱で働いているのかと、錯覚するほどである。

なにもない。ただ荒れ果てた大地がそこにあるだけである。
だが人はそこで生きている。
なんと大したものではないか。今そこに立ち、黄砂に
吹かれながら一日の終わりに夕日を眺めていると、
人というものは、ちっぽけな存在ではあるけれども、
いかなる無限の広大さも、その懐に収めることができる
存在であることを知るのである。

いや、むしろ、無限の広大さを自ずから有していることを
そのなにもない情景の中で、覚知できるものなの
かもしれない。

事実、私は、いかなることがあっても、風に吹かれる黄砂の
一粒となって、無限の中から舞いあがり、無限の中へと
還っていく自身を垣間見るとともに、なにかこう、
ふつふつと生きるということそれだけに力が湧きあがるのを
感じるのである。




五分五分

2009年07月19日 | ノンジャンル
人生押し並べて見れば、良い事も悪い事も半々で落ち着く
ようである。
幸せを決めるのも自分であって、他人や環境に決められる
ものでもない。

巨万の富を得た人などは、他人が見るのはその富だけで
あるから、誰もが羨ましがるのであろうが、本人は例えば
病に苦しみ、痛みの中で毎日を必死で生きているかもしれない。

身体は頑健でも、その日を生きるために必死で働いて、
働きづめの一生を送る人もいるであろうし、物質面、
健康面で恵まれていても、それが生きる希望を阻害して、
周りから見れば不思議で仕方がないのだが、自ら死を選ぶ
人もいる。

美人薄命、醜悪長寿。いずれが幸せかは、もちろん本人の
問題であって、他人がどう考えようがまるで関係がない。

十人十色の人生があれば、十人十色の幸せがある。

出来れば贅沢は出来ずとも、美味しく食べることが楽しく、
たまに少し贅沢をして美食をし、身体も健康を感謝するのに
一病を持ち、人の痛みを自分の痛みとできる精神を持って、
少なくとも食べること、動くこと、考えることができる
自分の身の上を感謝できる生活であれば、まずまず幸せ
であろう。

若い頃は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を物足りなく
感じていたが、人として生きる幸せに満ちたものとして
今は読むことができる。

五分五分で上等、六分四分ぐらいまで持っていければ、
自分もまんざら捨てたものではないと思って終えることが
できるかもしれない。



罪と罰

2009年07月15日 | ノンジャンル
法治国家にあれば、罪を犯せば罰が下るのが至極当然のように
思われているが、それはあくまでも世法の上のことである。

罰を受けて、社会的に罪の償いが済んだとされても、それで
本当に済んだわけではない。

とりわけ、殺人などの加害者は、刑罰を受けたからといって、
それでその罪がすべて清算されるわけではない。
また、被害者の遺族にしても、仮に加害者が死刑となった
としても、それで一応の節目とすることはできても、悲しみと
怒りの清算とまではいかない。

ただ、生命の流れという大きな律動から見るなら、
食物連鎖外のこの殺人という行為は、異常かつ特異である。
その反動というものは、自然、その行為者に還ってくる
ものなのである。

天に唾を吐くものには、その唾は自分に還ってくる。
地に唾を吐くものにも、その唾は自分に還ってくる。
唾は、自身が呑み込むものなのである。

思うに、人を殺したものは、天が割れて落ちてくる
のではないか、地が抜けて、奈落へと落ちるのではないかと
まともな人から見れば杞憂に過ぎないことに苛まれながら
生きていかねばならない。

人に地獄を見せたものは、自身が地獄を見なければならない。
罪を犯した時点で、すでにその人に対する罰は始まって
いるのである。

それを知る者を一般人といい、知らぬ、あるいは忘れる者を
狂人と言う。人の身と、自分の身を重ねることができる者に、
人を傷つけることが出来る訳がない。
それができる者は、自らを傷つける狂人か、それを覚悟の
上で敢行する異常人かである。

罪と罰は一体であって、犯した罪に対して、誰かが罰を下す
わけでもなければ、誰かがそれを許すものでもない。
因果律と同様、原因と結果と見れば、罪を犯した者に
罰というものは厳然と現れるのである。