ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

どうですか

2019年10月30日 | ノンジャンル
普通、我々が病院へ行くときは、健康診断以外では
何がしかの症状があって、診察を受けに行く。

「どうされましたか?」と訊くのではなく、
「どこが悪いのですか?」と訊く医師が増えている
気がする。

どこが悪いのかを診てもらいに来ているのである。

怪我ならともかく、病気であっても、こういう
診察は事務的である。

その人の全体ではなく、まるで機械の
部品交換や修理のような視点での診察。

診察時間を短くして、多くの患者を診察する、
いわゆる合理的な診療が多い。

だが、精神科でこれをやられて、薬の処方だけの
対症療法の場合、回復は遠のいてしまうと思う。

故院長先生は、常に、「どうですか?」と
問いかけて下さっていた。

身体の不調がなくとも、不安なことや、
囚われがちな事を話すと、黙って聞かれ、
言葉少なではあるが、何か安堵させられるような
二言三言を頂いていた。

診察のわずかな時間は、その部屋にそよ風が
吹いているような清々しさがあった。

待ち時間は短い方が良いに決まっている。
わずか数分の診察に、何時間も待つことも
多かった。
何せ、院内に入り切れずに、外で待つ人も多い
くらいだったのに、先生は患者の状態に応じて
忍耐強く診察をされていた。

待ち時間の長さ、一部の診察時間の長さに
辟易する人も多かったが、私は、本を読んだり、
音楽を聴いたりして、やり過ごしていた。

まだかと待つのではなく、いつかは呼ばれる
だろうと、それまでの時間を自分のことに使う
ようにしていた。

待つという事も、治療のひとつだと、後に聞いた
ことがあるが、さもありなんと思う。

もう、あの「どうですか?」が聞けなくなって
久しいが、思い出すたびに、逆に今の自分が、
「どうしたの?」と人に訊ける、つまり、聞く耳を
持てるようになっているかと自問する。

とりわけ、精神科の医療というものは、病気を
診るのではなく、人を診るのである。

間違いなく先生は、人を診られていた。
先生との出会いが、先生亡き後も、私を支えて
いることは、紛れもない事実なのである。





かすがい

2019年10月27日 | ノンジャンル
子はかすがいというが、我が家では
まさしく夫婦の要であった。

妊娠しにくいと診断され、気長に体調を
整えていく通院を始めて、それほど
期間をおかずに家内は妊娠した。

水と油のような二人であるから、
もしも娘ができるまで何年も
かかっていたら、離婚していたかもしれない。

子供ができて、それがかすがいとなるのは、
もちろん子供自体のためということもあるが、
実は、夫婦二人だけでは分からなかった
互いの想いを知ることができた事が大きい。

夫婦としても一年生、親としても一年生。
文字通り、子供たちと一緒に成長してきた
ということだろう。

振り返れば、子供たちに助けられたというか
救われたことも少なくなかった。

私の新生も、子供たち抜きには
なかったし、回復は家内によるところが
大きい。

何より、子供の成長をそばで見守る中で、
可能性というものを信じられた事が
自身にとっては最大の財産である。

もう大人になって、それぞれの人生を
一生懸命生きている。
一抹の寂しさはあるものの、今なお
可能性に限界はないことを思い出させて
くれているのである。





分かれ道

2019年10月25日 | ノンジャンル
これまで多くの岐路に立ち、いずれの道を
行くべきか迷い、その都度、自分なりのベストと
思う方向を選び歩んできたつもりである。

受験、就職、結婚、転職、退職、離婚、自殺と
決断を迫られた岐路において、少なくとも、
まるで先の見えない選択だけはしなかった。
転職、退職、離婚、自殺である。

ただ、こうして振り返ると、自分の選択は、
楽な方、或いは楽に見える方ではなかった
ように思う。

ともあれ、進むという事に変わりはないが、
その先はないという道を選ぶことは、ギリギリの
ところで踏み止まり、他方へ進んだ。

選んだと言ったが、今思えば、選んだというより、
その時の自分の生き方において進んだという
事だろう。

もし違う方に進んでいたらと考えることは
あっても、そうしなかったことに後悔はない。

それが、良かったのか、悪かったのかは
わからない。
ただ、行きたいが、大変だろうなと思う方へ
進むことに、後悔はないだろう。

これからも自分なりに進んでいく。





カルマの法則

2019年10月23日 | ノンジャンル
いわゆる、宿命、宿業と呼ばれるものである。

若い頃に、同名の本が出版され話題となっていた。
自身も読んだが、だからどうだという感じだった
気がする。

過去世の業因が、現世の報いとなり、現世の業因が
来世を決めるという事だが、これは本来仏教ではない。

平等である人々を身分制度によって区分けし、
その身分であることを生まれによって強いる、
いわば人々を縛る制度を支援する思想である。

王家に生れたものは、過去世も来世も王家であり、
奴隷身分に生れたものは、過去から未来までずっと
奴隷なのだと。

釈尊はむしろこの思想を打ち破った人である。
生まれがどうであれ、今、種を植える人が、
農夫であると。

つまり、今、尊い行いをしている者が尊い
人であって、今、悪い事をしている人が、
悪人なのだという、ごく当たり前のことなのだ。

身分制度など、人が作ったものに過ぎない。
そんなものに、たとえ身は縛られようと、心まで
縛られる必要はないというのが、釈尊の思想である。

それが仏教伝来の中で、権力者の都合で
取り込まれたに過ぎない。

つまり、人々を差別する上で必要なのが、
カルマの法則なのである。

泥棒だったから貧乏な家に生まれた、
人を傷つけたから、病人となった。
だからどうだというのだ。

今貧乏で、今病気で苦しんでいるものを、
流行りの「自己責任」で切り捨てるなら、
その社会そのものが、反人間的なものとなる。

反社会的という言葉はよく聞くが、反人間的
という言葉は滅多に聞かない。

どちらが主体なのかを考えれば、その社会自体の
ゆがみが見えてくるのである。





生きる価値

2019年10月18日 | ノンジャンル
これまで何度も述懐してきたが、自分が何の為に
生まれてきたのかという意味を問う事は、意味がない。

つまり、生きる意味を問う事は、意味がないのである。

ともかくも、この時代に、自分を認識できる形で
生まれてきた以上、過去世や来世など、わからない
ことを考えたところで仕方がないし、まして自身の
存在の意味など問うたところで詮がない。

現実は、生まれてきて、確実に死んでいくこと
だけである。

ただ、問い続けられることがあるとすれば、
それは自身の生き方である。
つまり、何の為に生きるのか、それがどういう
意味をもたらすのかを自身が決められるという
事である。

生きる価値と言えば、常に他人の評価が基準となる。
あんな人でなしは生きる価値がないとか、
こんなにも尊い人は、生きているだけで価値がある
などとは、いわゆる他者からの評価である。

自身に生きる価値があるとかないとかを
自己評価するとすれば、それは他者の評価とは
まるで異なる。

そんなものはどうでもよい。

生まれて死ぬまでの、その人の生涯が、果たして
生きる価値があるのかどうかである。

更に言えば、その生涯を価値あるものにするか
否かである。

生き方というものは、価値があるのかないのか
わからない生涯を、価値あるものにしていく
可能性である。

自身に価値があるかどうかではなく、
自身の生き方が、価値あるものになるか、
ならないかである。

社会に絶望し、自身にも失望し、自分を取り巻く
環境を主体とするなら、可能性は開けない。

たとえ様々なしがらみの中で、がんじがらめに
縛られていようと、自身の可能性だけは縛られない。

その可能性を信じ、自身の生き方を問い続ける事が
生きる価値を産むのである。

そして、自身のみならず、他者の可能性を信じる時、
その他者は、真の友人となるのである。

真の友人とは、自身が絶望の淵にいる時に、
そばにいなくとも、その人の事を思えば、
一歩を踏み出せるという相互の存在である。

そんな友人を得たなら、その人の生涯は、
十二分に生きる価値がある。
そして、その人の問い続ける生き方も、
価値を産み続けていくのだろう。