ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

穴を埋める

2014年12月25日 | ノンジャンル
昔見た映画で、ある罪人を罰するのに、穴を掘らせ、
その穴をまた埋めるということを繰り返させる
シーンがあった。

たとえば、拷問であるとか、強制労働であるとか、
様々な罰はあるが、これは拷問と変わりない。

肉体的苦痛を主として精神を衰えさせるか、
精神的苦痛を主として、肉体を衰えさせるかの
違いだけである。

拷問によって肉体的に苦痛を与えるのは、見るからに
残虐非道ではあるが、後者については一見、強制労働と
変わらない。

だが、決定的に違うのは、そこに何の意味も達成感も
ないという点である。

労働には必ず目的がある。道路を作る、荒れ地を耕すなど
すれば、それが達成された時にはそれなりの充実感がある。
つまりは、希望があるということだ。

だがこの罰は違う。何時間もかけて穴を掘らせ、
深く大きな穴を掘った後に言われるのは、その穴を
元に戻すことである。

そしてそれが繰り返される。

罰を与えるものは、単に穴を掘れ、穴を埋めろと指示を
出すだけで、その罪人に手を出すこともないし、鞭打つ
こともない。

何の目的もなく、意味もないその労働に、罪人は半ば
狂ったようにその労働をやめさせてくれと懇願する。
人間が意味を求めるのは、そこに希望を見出すからである。

そして、希望を見出すからこそ、人は労苦を惜しまず
奮闘することができる。

何の意味も、希望もないその労働は、ロボットではない
人間にとっては、この上ない罰となろう。
精神面で言えば、これほど残虐非道な罰はないかもしれない。

私たちが仕事をするということは、端的に言えば、
穴を埋めることかもしれない。

そこに穴が開いている。そのままではだれかが落ちて
怪我をするかもしれない。だからその穴を埋める。

それを見ていた人は、その人を褒めもし、喜んでくれも
するだろう。だが、大多数の知らない人たちは、
そこに穴がない事を当然のこととして歩いていく。

今年一年を振り返るわけでもなく、振り返る暇もないが、
この、穴を埋めるということをしっかりしてきたのかとも
思うと感慨深い。

だが、目の前にはまだまだ多くの穴が開いていて、
これをどんどん埋めていこうと考えている自分にとっては、
年末年始もあまり気に留めていない。

要するに、継続とは連続のことである、停滞とは
後退のことなのである。

また淡々と、この継続・連続の中に身を置いていく。
そしていつの日か、自身の本当の喜びをつかみたいと
願って止まないのである。






お酒の場

2014年12月09日 | ノンジャンル
断酒しているものにとって、特に避けなければ
ならないのが、飲み会や宴会など、お酒が
つきものの場や機会である。

目の前にお酒を置かれて、飲みたくても
飲めないというのは精神衛生上よろしくない。

つい魔がさしてということもありうるし、
その気がなくとも、誤ってお酒を口にする
といった、いわゆる事故の可能性も大きい。

私などは仕事柄、接待の機会が多く、断酒初期から
お酒の場には頻繁に出ていた。

もちろん、そんな荒療治的なことは誰にも勧める
つもりはないが、自分にとってはその都度緊張感が
あって、口をつけずに帰ることでホッとすると同時に、
自信にもつながっていった。

ここでひとつの提議をしてみると、そういった
お酒がつきものの場に置かれたとして、果たして
あなたはいずれであろうか。

*お酒が飲めないのだから楽しくない。
*お酒が飲めたら楽しいはずだ。
*お酒を飲む飲まないではなく、
 楽しいか楽しくないかだ。

いかがであろうか。

その場は、当然ながら人が集まる場である。
その集まりが、楽しいか、楽しくないかが
問題であって、お酒が飲めるか飲めないかは
むしろどうでも良い事なのである。

「俺の酒が飲めないのか」などとからんでくる
人がいるなら、お酒を飲めても飲めなくても、
その場自体があまり楽しいものではない。

人が集まる以上、話をしたり、歌ったり踊ったりと
それが楽しい仲間と共の場であるなら、お酒を飲む
飲まないに関係なく、その場は楽しいのである。

いくらお酒が飲めても、一人で飲んでいて
楽しいわけがない。

誰しも、その楽しい場所に対して高いお金を
払うのであって、お酒を飲むことが目的なら、
ディスカウントショップで安くお酒を買って
一人でたらふく飲めばよい。

そんな楽しくもない場で、一人ででも飲み続けるのが
この病気なのである。

私はもっぱらお喋りとカラオケで十分に
楽しむことができる。
もちろん目の前にはお茶かソフトドリンクとなるが、
そんなことはどうでも良いのである。

むしろ、しらふの方が、少しほろ酔いの女の子を
口説くには都合が良い。
車もいつでも運転できる。・・・と、これは話が脱線。

いずれにせよ、お酒が飲めないから、そうした場で
楽しめないというのは、大きな錯覚なのである。




木枯らし

2014年12月02日 | ノンジャンル
今年は随分暖かい日が続くと思っていたら、
12月に入って雨上がりの後、突然木枯らしが
吹き荒れ、風も水も氷のように冷たくなった。

今年もあと一ヶ月だというのに、例年にも増して
実感がない。若い時は、なにがしかの節目という
ものは、わくわくするものだったが、それは
新たなスタートという期待感がそうさせるのだろう。

年を取ると、ともかく目の前の今を精一杯で、
どちらかというと残された時間のカウントダウン
的な心情に支配されるのかもしれない。

それは、逆に言えば日々新たなスタートという
意識ともいえる。
節目や区切りを意に介せず、何でも思い立った
時にすぐ始めるということになり、後で振り返れば、
それが自身の節目であったこととなる。

自分が行動を開始する時が「今」であり、後に
それが「節目」となるのだろう。

一年の終わりも、始まりも連続している。
私自身もその連続の中に生きているし、
これからも生きていく。






インカーネーション

2014年12月01日 | ノンジャンル
もうかなり長い事、風邪をひいた記憶がない。

少しひき始めという時はあったが、早めの対処で
ひどくなることはなかった。

ところが、先週の結婚式の後、大勢の人が集まる場に
出ることが重なり、どこかで風邪をもらったようだ。

早い目に対処したものの、久し振りに風邪の症状が
ひどくなり、熱、咳、鼻と三拍子そろって過ごした
一週間はかなり辛かった。

深い眠りの中で、自分の体が光の粒子となって
空間に散らばっていく夢を見た。
痛みもなく、感情もなく、煙が空気中に散乱して
消えていくような感じだった。

それは、おそらく、この世界を離れ、無限の
宇宙の中の一塵として自分を見たときの感覚に
似ているのではないかとも思う。

宇宙飛行士となって地球を飛び出すことは、
自分にはもう不可能ではあっても、いつか
肉体の滅びるその瞬間に、わが身が、
地水火風空の五大そのものであると
感じられたなら、最大の幸せであろうと思う。

なぜならそれは、最後の最後に遺る、自身の
至上の喜びであるからだ。