昔見た映画で、ある罪人を罰するのに、穴を掘らせ、
その穴をまた埋めるということを繰り返させる
シーンがあった。
たとえば、拷問であるとか、強制労働であるとか、
様々な罰はあるが、これは拷問と変わりない。
肉体的苦痛を主として精神を衰えさせるか、
精神的苦痛を主として、肉体を衰えさせるかの
違いだけである。
拷問によって肉体的に苦痛を与えるのは、見るからに
残虐非道ではあるが、後者については一見、強制労働と
変わらない。
だが、決定的に違うのは、そこに何の意味も達成感も
ないという点である。
労働には必ず目的がある。道路を作る、荒れ地を耕すなど
すれば、それが達成された時にはそれなりの充実感がある。
つまりは、希望があるということだ。
だがこの罰は違う。何時間もかけて穴を掘らせ、
深く大きな穴を掘った後に言われるのは、その穴を
元に戻すことである。
そしてそれが繰り返される。
罰を与えるものは、単に穴を掘れ、穴を埋めろと指示を
出すだけで、その罪人に手を出すこともないし、鞭打つ
こともない。
何の目的もなく、意味もないその労働に、罪人は半ば
狂ったようにその労働をやめさせてくれと懇願する。
人間が意味を求めるのは、そこに希望を見出すからである。
そして、希望を見出すからこそ、人は労苦を惜しまず
奮闘することができる。
何の意味も、希望もないその労働は、ロボットではない
人間にとっては、この上ない罰となろう。
精神面で言えば、これほど残虐非道な罰はないかもしれない。
私たちが仕事をするということは、端的に言えば、
穴を埋めることかもしれない。
そこに穴が開いている。そのままではだれかが落ちて
怪我をするかもしれない。だからその穴を埋める。
それを見ていた人は、その人を褒めもし、喜んでくれも
するだろう。だが、大多数の知らない人たちは、
そこに穴がない事を当然のこととして歩いていく。
今年一年を振り返るわけでもなく、振り返る暇もないが、
この、穴を埋めるということをしっかりしてきたのかとも
思うと感慨深い。
だが、目の前にはまだまだ多くの穴が開いていて、
これをどんどん埋めていこうと考えている自分にとっては、
年末年始もあまり気に留めていない。
要するに、継続とは連続のことである、停滞とは
後退のことなのである。
また淡々と、この継続・連続の中に身を置いていく。
そしていつの日か、自身の本当の喜びをつかみたいと
願って止まないのである。
その穴をまた埋めるということを繰り返させる
シーンがあった。
たとえば、拷問であるとか、強制労働であるとか、
様々な罰はあるが、これは拷問と変わりない。
肉体的苦痛を主として精神を衰えさせるか、
精神的苦痛を主として、肉体を衰えさせるかの
違いだけである。
拷問によって肉体的に苦痛を与えるのは、見るからに
残虐非道ではあるが、後者については一見、強制労働と
変わらない。
だが、決定的に違うのは、そこに何の意味も達成感も
ないという点である。
労働には必ず目的がある。道路を作る、荒れ地を耕すなど
すれば、それが達成された時にはそれなりの充実感がある。
つまりは、希望があるということだ。
だがこの罰は違う。何時間もかけて穴を掘らせ、
深く大きな穴を掘った後に言われるのは、その穴を
元に戻すことである。
そしてそれが繰り返される。
罰を与えるものは、単に穴を掘れ、穴を埋めろと指示を
出すだけで、その罪人に手を出すこともないし、鞭打つ
こともない。
何の目的もなく、意味もないその労働に、罪人は半ば
狂ったようにその労働をやめさせてくれと懇願する。
人間が意味を求めるのは、そこに希望を見出すからである。
そして、希望を見出すからこそ、人は労苦を惜しまず
奮闘することができる。
何の意味も、希望もないその労働は、ロボットではない
人間にとっては、この上ない罰となろう。
精神面で言えば、これほど残虐非道な罰はないかもしれない。
私たちが仕事をするということは、端的に言えば、
穴を埋めることかもしれない。
そこに穴が開いている。そのままではだれかが落ちて
怪我をするかもしれない。だからその穴を埋める。
それを見ていた人は、その人を褒めもし、喜んでくれも
するだろう。だが、大多数の知らない人たちは、
そこに穴がない事を当然のこととして歩いていく。
今年一年を振り返るわけでもなく、振り返る暇もないが、
この、穴を埋めるということをしっかりしてきたのかとも
思うと感慨深い。
だが、目の前にはまだまだ多くの穴が開いていて、
これをどんどん埋めていこうと考えている自分にとっては、
年末年始もあまり気に留めていない。
要するに、継続とは連続のことである、停滞とは
後退のことなのである。
また淡々と、この継続・連続の中に身を置いていく。
そしていつの日か、自身の本当の喜びをつかみたいと
願って止まないのである。