ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

努力と成果と報酬

2007年04月30日 | ノンジャンル
理想を言えば、努力した分相応の成果が出て、その成果に
見合う報酬を得ることが出来れば、何の苦労も無いのだが、
現実は、必ずしもそうはいかない。

努力と成果ということを考えてみても、常に努力に相応した
成果を見込める事は、少ないようだ。
努力を無駄とは言わないし、それが何がしかの結実となる
ことは確かだが、成果となると、努力だけではなく、機、時、
運などの様々な要素条件が必要となる。

いくら努力しても成果が出ない時もあれば、大した苦労も
しないで、大きな成果を生むこともある。
だが、当然ながら、報酬というものは、成果に対して
考慮されるものであるから、最良の場合は、大した苦労もせず、
大きな成果を上げて、相応の十分な報酬を得るという事だろう。

最悪の場合は、もうこれ以上は無理というほどの、精一杯の
努力をしたにもかかわらず、大した成果を上げることも無く、
報酬も少ないという事だろうし、えてして、こういう場合に
限って、努力が足りなかったからだと言われてしまう。
これでは立つ瀬が無いのである。

これらは両極端な例であるが、その中間も含めて、我々は良い時、
悪い時、まあまあの時を繰り返している。
全部ひっくるめて精算してみると、どの人もさほど変わらない
ようでもあるから、人生というのは、うまく出来ている。

努力した事がすべて報われるという、偏頗な考えをやめて、
何もしなければ、何も実を結ばない事は承知しているのだから、
とりあえず、何事に対しても、努力をするぐらいしかないと
考えていれば良い。

ただ、その考え方には、「諦め」の文字は無いという事を、
しっかりと自覚しておくことだ。


体験

2007年04月28日 | ノンジャンル
今日、病院で、ワーカーさんに、私の体験談を他の患者さんに
見せても良いかと尋ねられた。

どういう話の流れかはわからないが、断酒3ヶ月になるその方が、
読んでみたいと仰っているようだ。

もちろん、ご自由にと快諾しておいたが、どうやら、その方も
ご自身の体験を、記録しておこうかと考えておられるらしい。

自身の体験が、断酒を決意するきっかけとなったなら、その事を
記録しておく事は大きな意味があると思う。
常に自身の決意の原点として、何年経とうが、読み返す事で、
当初の状況や、気持を新たにする事が出来る。

風化という事が、最も大きな落とし穴というか、問題となる病気で
あるからこそ、手段はどうであれ、その原点に立ち帰るという事が
非常に大切である。

通院であれ、自らの体験記録を読み返す事であれ、自助グループ等
で、その体験を繰り返し発表する事であれ、ようするに、初心の
更新という作業が、常に必要なのです。



同調

2007年04月27日 | ノンジャンル
私自身は、「霊感」というものには、とんと縁が無いのだが、
カミサンと娘は、強い方のようである。

時折おかしな事を言うが、私はというと、そんなものかと
思っている。

人の気配がする、誰かが立っていた、こちらをじっと見ている、
などなど、気の弱い人が聞けばぞっとするのだろうが、本人達は、
いたってけろりとしている。

テレビなどで見る、霊能者や、交霊などには、訝しさと
いかがわしささえ感じるが、人によって、そういう感度の違いが
ある事は理解できる。

我が家などは、大阪で一番大きい川沿いであるし、死体が流れ着く
という事もたまにある。霊が通ったとしても少しも不思議ではない。

但し、私自身は、霊と言うよりは、生命の一つの現れのような
理解をしている。具体的活動をしている時が、いわゆる生きている
時で、死んだからといって、生命そのものが消える訳ではなく、
冥伏している状態と捉えている。

つまり、電波のようなもので、あちらこちらにありながら、邪魔には
ならない。が、その波長と、その人の肉体、精神状態との波長が
同期した時、見えたり、聞こえたりするものだと解釈している。

場所によって、電波の強いところもあれば弱いところもあるだろうし、
人によって、感度の高い人も低い人もいるだろう。

もちろん、様々な電波があり、傾向も志向性も異なるであろうが、
何かしら、超常的なものとして捉える必要は無い。

生命が具体的に活動をおこなっている時が生きている時、
次の活動の為に、潜伏して休んでいる時が死んだ後と考えれば、
どちらも生命に変わりは無い。

事実、人を傷つけたり、殺したり、具体的な行動を起こせる、
生きているものの方が、よほど怖いものではないか。

取り立てて、霊魂などと別のものとして捉えるからおかしくなる。
生命の、ある状態であるにすぎないと思うのである。


恒常への憧憬

2007年04月25日 | ノンジャンル
幸、不幸というものは、自他及び事象に対する認識能力を
持つ人間のみが問題とする事であって、これまで無数の
人間が生死を繰り返してきたにも拘らず、一人として同じ
人間がいないが故に、その定義というものは存在し得ない。

つまり、同じ状況であっても、幸、不幸は、その人自体の
資質と状態に左右される観念によって決定される為、
普遍的な定義はあり得ない。
強いて言えば、生きる事が楽しいか、苦しいかによって、
その人における幸、不幸がその時点では顕在化している。

ただ、生死というものを認識している中で、自身を含め、
一切の万物が無常であり、変転し続けている事を無意識下で
覚知している以上、楽しいか、苦しいか、幸か、不幸か
という事自体も、虚しいものという、まだ浅い領域に
思考が到達した時、人は誰でも死というものを、目下の
急務として捉えてしまう。

自身の内面を深く掘り下げて観じる事をしていく時、
ある地点でこの「無常」という一つの階層に達する。
これを最後の本質と捉えてしまえば、残された道は、
死しかない。
事実、この地点で無常を観じ、死を選んだ人の何と多い
事かは、計り知れない。

内に向けてより深きへ進む思考と、外に向けて無限へと
拡がる思考は、突き詰めれば、同じものへと通じるに
違いないが、そこへ到達するのは、人智のみをもってしては、
不可能であろう。
ここに一つの越えられない限界があるように思えてならない。


東洋的思考は、自己を大海に溶け込んだ一滴として捉え、
西洋的思考では、大海を構成している一滴として自己を
捉える。
いずれにせよ、志向しているところは同じであり、永遠に
変転を繰り返す中で、逆に永遠に変らない恒常的なものに
対する憧憬をもっている。

それは、神であり、仏であり、原理であり、法則である
かもしれない。
形あるものとして作られたものではなく、厳然と存在する
原理、法則を見出して、その普遍性を実証する事が、科学の
使命と歴史であると同時に、人間の憧憬でもある。
現代に至るまで、限りない実証が積み重ねられてきたことは
事実だが、実は、最も根本的な問題である、生命という
領域においては、不可思議で解明出来ていない事の方が
遥かに多いのである。
これと同様に、宇宙というものの領域も、難しい問題では
あるが、外へと志向する象徴的対象が宇宙であるならば、
内へと志向する象徴的対象は生命であり、外へ、内へという
ベクトルは違うように見えて、しかしながらその到達点は
同じという事にならないか?

つまり、内なる生命、外なる宇宙は、そのまま、内なる宇宙、
外なる生命ともみなす事が出来るのではないかという
事なのである。

そこには、厳然と、創られたものではない、本然的な
原理とも法則ともいうべき、「恒常的」なものが存在する
はずである。
その存在に対する憧憬が、その存在を神としたり、仏とした
のかもしれないが、いずれにせよ、流転の波に翻弄されながら
生きている凡人たる私には、その「恒常的」な存在を
覚知するには到底及ばず、ひたすら求め、憧れているに過ぎない。

ただ、ひたすらに求める事をやめないとき、何があろうとも
生き続ける事は出来るであろうし、憧れ続ける限り、自ら死を
選ぶような理由は雲散霧消して、今を生きる自身に問われている
事を追い求めるのみである。

この一生で、果たしてその本然的な存在を覚知できるかは、
甚だ疑問だが、少なくとも死を迎えるその時まで、憧れ、求める
姿勢を失いたくはないと思うのである。

生命とは、本来、輝きをやめないものだと確信している。





帰る場所

2007年04月24日 | ノンジャンル
どちらかというと、プライドが高く、いわゆる、いい格好しいの
自分である。他人の誹謗中傷には敏感で、理不尽なままでは
済まされない面を持っている。

そういう敏感な部分が、マイナス作用をする時は、心が囚われる
ことになってしまうので、なるべく鈍感にさせようと言い聞かせ
たりもしている。

ところが、どういうわけか、ひとたび家に帰り、スーツを脱いで、
子供達の前に出ると、途端にバカになれる。
ごく自然に、酔っ払ってもいないのに、バカな話しをしたり、
ふざけてバカな事をしながら、皆でバカ笑いをしている自分がいる。

本来なら、威厳と尊敬の対象であるべき自分の理想の父親像とは
180度違う姿がそこにある事に改めて気がついた。
それほど、自然に振舞っている。

そういえば、子供達が私を呼ぶ言葉も変わってきた。
パパ、お父さん、父さん、父ちゃん。。。

皆、一歩家を出ればそれなりにストレスとなる事は多くあるだろうが、
家に帰ってきて、バカ笑いが出来るのであれば、それでいいのかも
しれない。いや、それでいいのである。

皆で笑い飛ばして、また新たな一日を頑張っていける活力を得る
事が出来る場であれば、それはまた、皆が帰って来れる、帰って
来たいと思う家庭なのだろう。

この場所だけは、子供達が巣立っていくまでは、しっかりと守っ
ていかねばならない。