ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

めまい

2019年11月29日 | ノンジャンル
時々、しっかりとした意識の中で眩暈のようなものを
感じることがある。

貧血とか、何がしかの疾患によるものではなく、
感覚的なものなのだが、今年は特に、父親の死のみ
ならず、社員の死、先輩の死と、近しい人を
3人も喪ったことが大きいかもしれない。

もちろん、認識できるのは他人の死ばかりであるが、
それを容易に自分に置き換えられる近さだけに、
多忙を極めた一年が終盤に入ったことで、
ひとつの揺らぎを生じさせているのかもしれない。

立場上、業績の低迷する事業部には厳しい
叱咤激励もするが、それは自身への戒めでもある。

あくまでも数字評価の世界では、数字が上がって
いても苦しみであり、上がっていなくても
苦しみである。

同じ苦しみの中にいる事を思う時、ふっと
自分自身が消える。同調というより、同化に近い、
不思議な感覚なのだが、これは昔からあった。

言葉にするのは難しいので、揺らぎという表現に
しているが、実にゆらっという感じで起こる
感覚なのである。

自身の価値とか、他者と比較してどうとか、
そういう世俗的なことから離れる一瞬でもある。

そういう時には、砂漠の一粒の砂として自身を
捉えている。
無数の砂粒があっても、一つ一つは異なる。
そしてその無数の内のひとつであるという、
孤独でもなく、虚無でもなく、むしろ自身の
ありのままをそこに感じるという事かもしれない。

もう師走に入ろうというのに、昼間はコートも
要らないほどの陽気で、年末に近づく体内時計も
狂いそうである。

いや、砂漠の砂粒としては、悠久の時の流れの
中で、今を生きているに過ぎない。
だからこそ、今を自分なりに生きていく。
その連続においては、盆も正月もどうでもよい。

明日、世界の終わりが来ようとも、今日を
自分らしく精一杯生きるのみなのである。





デート

2019年11月26日 | ノンジャンル
家内の伯母が入院したとかで、急遽見舞いに
白浜へと走った。転倒して膝の皿を割った
と聞けば、重症だが、本人はいたって
元気であった。

折角だからと、16~7年ぶりで
アドべンチャーワールドへ行った。

家内と二人でというのは初めてである。
子供達と一緒だと随分広く感じていたが
二人だと小さく感じた。

思えばこの25年というもの、二人きりの
デートなどなかった。
楽しそうにはしゃぐ姿を見れば、
また二人のデートを計画するのも悪くは
ないと思えた。

これから一つ楽しみができたということだろう。





ゴミはゴミ

2019年11月25日 | ノンジャンル
韓国の若いアイドルが自殺した。

知り合いにも熱狂的なファンがいたから、
かなりのショックを受けていると思う。

この国は、ひとことで言えば妬みの国である。
地位や名声、財産を人並み外れて築いたものに
対し、妬みによる陰湿な攻撃が後を絶たない。

大統領を筆頭に、多くの著名人や資産家が、
追い詰められて自殺をするケースが多い。

彼女の場合、せっかく韓国を離れ、日本での
活動をメインとする方向であったにも拘らず、
今回の悲劇となった。

それでも私は、韓国の人に国外へ出て、
広く世界を見ろと言いたい。

何よりも象徴的でショッキングだったのは、
まだうら若い女性の遺した言葉だ。
「いくらきれいな包装紙で包んでも、
 ゴミはゴミ」

外見を特に重視するのは、どこも似たような
ものだが、この国は外見が全てといわんばかりに
重要視する。
結婚のお祝いに、整形手術費用を花嫁に贈る
くらいだ。

彼女の言葉は、ある意味この国の社会の影を
映し込んでいる。

きれいな包装紙で包むことは、決して悪い事
ではない。

しかし、たとえ糞尿にまみれていたとしても、
その中に誰しもが黄金を蔵しているということを、
自身も含め、周りにも通じることとして、
信じられていたらと思うと、不憫でならない。

まだ若い韓国の知人たちには、常に声をかけている。
国の外に出て、世界を見よと。

少なくとも、心だけはこの狭い閉鎖的な社会の
呪縛から解放されんことを切に願うのである。





断酒のすすめ

2019年11月20日 | ノンジャンル
慢性アルコール中毒症という呼び名が、
アルコール依存症という名称に代わってから久しい。

精神科、神経科で取り扱う、誰がなっても
おかしくない病気として、世間の認識を広げた
点では、その効はあったかに思う。

昔に比べれば、ネット上でも随分と関連サイトが
増えたし、この病気の特徴である、巻き込まれた
家族の体験なども共有することができるように
なってきた。

だが、根本的な事を言えば、アル中は
救いようがない。
本人が死ねば、本人も周りも救われるはずが、
家族や周りの傷や悔恨が本当に癒される
ことはない。

本人は無論、周りも依存症としての病識を
持って初めて、回復への希望を見出すのである。

相変わらず、節酒と断酒の議論もかしこで
見かけるが、そんな議論は不毛である。

この病気は、進行性の病気であるが故に、
その依存度も人によって様々である。
ただ、端的な尺度は、自身で飲む量を
コントロールできるか否かである。

できるなら依存症ではない。
ただ、できなくとも、再びコントロールできる
ようになる可能性を否定するものでもない。

既に命に及ぶところまで進行している者もあれば、
お酒に関わる様々な問題はあるものの、
社会生活をまともにしている者もいる。

要するに、節酒か断酒かという事ではなく、
ケースバイケースという事なのである。

個別のケース論ならわかるが、それをすべてに
当てはめるような議論は意味がない。
もともと普遍的かつ不変的な要素がそこに
ないからである。

自身が節酒で済むなら、あるいはコントロールを
取り戻したなら、それは結構なことであるが、
異なるケースの他人に勧めることは、命に関わる。
節酒のすすめは、最大の無責任と信ずる。

仮に、ある人の場合、節酒もコントロールを
取り戻すことも可能であるとしたとしても、
お酒によるトラブルがあるなら、その人に対して
立派な依存症者を自認する者ができるのは、
断酒のすすめでしかありえない。

その立派な依存症者というのは、誰よりも
命に関わるという事を深く認識している故に、
他人の命に関わることについて、無責任では
いられないのである。

よって、少なくとも私ができることは、
断酒のすすめのみなのである。





朋友

2019年11月17日 | ノンジャンル
仕事上の取引で、出会った人々は数知れない。
取引が継続している相手とは、無論今でも
お付き合いがあるが、取引がなくなって
疎遠となる相手も多い。

そんな中、取引があろうがなかろうが、
友人として変わらぬ付き合いを続けている
相手もいる。

彼もその一人である。もう20年以上になる。
立場的には私が顧客となるが、そういう関係性を
超えたところで、共に仕事に取組んできた
パートナーである。

プライベートでも家族ぐるみのお付き合いを
させて頂いている。

今回会うのも5年ぶりになる。
だが会えば、つい昨日まで会って
いたかのようである。

友垣というのは、ありがたいものである。