時々、しっかりとした意識の中で眩暈のようなものを
感じることがある。
貧血とか、何がしかの疾患によるものではなく、
感覚的なものなのだが、今年は特に、父親の死のみ
ならず、社員の死、先輩の死と、近しい人を
3人も喪ったことが大きいかもしれない。
もちろん、認識できるのは他人の死ばかりであるが、
それを容易に自分に置き換えられる近さだけに、
多忙を極めた一年が終盤に入ったことで、
ひとつの揺らぎを生じさせているのかもしれない。
立場上、業績の低迷する事業部には厳しい
叱咤激励もするが、それは自身への戒めでもある。
あくまでも数字評価の世界では、数字が上がって
いても苦しみであり、上がっていなくても
苦しみである。
同じ苦しみの中にいる事を思う時、ふっと
自分自身が消える。同調というより、同化に近い、
不思議な感覚なのだが、これは昔からあった。
言葉にするのは難しいので、揺らぎという表現に
しているが、実にゆらっという感じで起こる
感覚なのである。
自身の価値とか、他者と比較してどうとか、
そういう世俗的なことから離れる一瞬でもある。
そういう時には、砂漠の一粒の砂として自身を
捉えている。
無数の砂粒があっても、一つ一つは異なる。
そしてその無数の内のひとつであるという、
孤独でもなく、虚無でもなく、むしろ自身の
ありのままをそこに感じるという事かもしれない。
もう師走に入ろうというのに、昼間はコートも
要らないほどの陽気で、年末に近づく体内時計も
狂いそうである。
いや、砂漠の砂粒としては、悠久の時の流れの
中で、今を生きているに過ぎない。
だからこそ、今を自分なりに生きていく。
その連続においては、盆も正月もどうでもよい。
明日、世界の終わりが来ようとも、今日を
自分らしく精一杯生きるのみなのである。
感じることがある。
貧血とか、何がしかの疾患によるものではなく、
感覚的なものなのだが、今年は特に、父親の死のみ
ならず、社員の死、先輩の死と、近しい人を
3人も喪ったことが大きいかもしれない。
もちろん、認識できるのは他人の死ばかりであるが、
それを容易に自分に置き換えられる近さだけに、
多忙を極めた一年が終盤に入ったことで、
ひとつの揺らぎを生じさせているのかもしれない。
立場上、業績の低迷する事業部には厳しい
叱咤激励もするが、それは自身への戒めでもある。
あくまでも数字評価の世界では、数字が上がって
いても苦しみであり、上がっていなくても
苦しみである。
同じ苦しみの中にいる事を思う時、ふっと
自分自身が消える。同調というより、同化に近い、
不思議な感覚なのだが、これは昔からあった。
言葉にするのは難しいので、揺らぎという表現に
しているが、実にゆらっという感じで起こる
感覚なのである。
自身の価値とか、他者と比較してどうとか、
そういう世俗的なことから離れる一瞬でもある。
そういう時には、砂漠の一粒の砂として自身を
捉えている。
無数の砂粒があっても、一つ一つは異なる。
そしてその無数の内のひとつであるという、
孤独でもなく、虚無でもなく、むしろ自身の
ありのままをそこに感じるという事かもしれない。
もう師走に入ろうというのに、昼間はコートも
要らないほどの陽気で、年末に近づく体内時計も
狂いそうである。
いや、砂漠の砂粒としては、悠久の時の流れの
中で、今を生きているに過ぎない。
だからこそ、今を自分なりに生きていく。
その連続においては、盆も正月もどうでもよい。
明日、世界の終わりが来ようとも、今日を
自分らしく精一杯生きるのみなのである。