ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

仕切り

2019年01月29日 | ノンジャンル
腰を痛めてから、しばらくは出張を避けて
いたのだが、立て続けに予定が決まってしまった。

1月も終わろうかという時に、会長からの特別招集。
2月には夜通しの稼働立ち合いもある。

新幹線での移動は、なぜか首が凝る。
コルセットをしているせいか、いつものように
眠れないで、姿勢良く到着した。

座っている時の姿勢が、時間が長ければ長いほど
大事なことがよく分かった。

会長も残された時間はそう長くはないだろう。
できることをできるうちにという思いも強く
なっているにちがいない。

そういう私も、どれほどの時間が許されているのか
わからない。
できることを精一杯ということでは、
会長と変わらない。

今年も多忙とはなるだろうが、一期一会のつもりで
日々を悔いないように生きていく。

力士が立ち合い前に何度も仕切り直しをして
己の一念を高めていくのと同じだ。

日々の仕切りがなければ、いざという時の
覚悟もできない。

いざという時には、悩んだり迷ったりしている
暇はない。どんな仕切りを積み重ねてきたかで、
その時の己の姿勢が決まる。

無様な姿だけは晒したくないものである。





前を向く

2019年01月26日 | ノンジャンル
また新たな歳を迎えて、一年を始める。

自身の可能性というものは、あるといえばあるし
ないといえばない。

元々具わっているからと、何もしなければ
可能性を開くことはできない。
そこに可能性はないのである。

他人と比べたり、周りの環境のせいにしたところで
開くことはできない。

ただひたむきに、己の可能性を信じ、
前を向くのみである。

というより、前を向いて進むのに精一杯で、
横を向く暇などないというのが本当の
ところだ。

それが、母親の戒めを守ることにも
なるだろう。

また心新たに、前を向く。





足あと

2019年01月23日 | ノンジャンル
56歳になる2ヶ月前に母親は逝った。

短いながら、やることをすべてやり切ったその
足あとを想えば、自分自身も何とかその歳まで、
自身の足あとをつけていこうと、祈りにも似た
気持ちで今日まで過ごしてきた。

もしも当時のままの自分であったなら、
その足あとはとっくに途絶えていたであろう。

母親と並んでつけてきた足あとは、途中で
自分だけとなり、何となく同じ長さで途絶える
ような気がしていたが、追い越して今もなお
つけ続けている。

何故かは分からないが、父親とは並んで足あとを
つけてきたという実感がない。
常に私のはるか先を行く、足あとのないような
印象である。

男とはそうであろう。つけた足あとは、振り返る
間もなく波に消されていく。

前を向いて進む時に、後ろの足あとなど気にも
かけていないのである。

これからも進めるだけ進んでいく。
消えない足あとは、自身の内にこそ刻まれている
ものだからである。





話が長い

2019年01月22日 | ノンジャンル
「今日は時間がないので、
 手紙が長くなってしまいます事、ご容赦下さい。」

海外との取引がメインの仕事であることから、
いわゆるコレポンは簡潔明瞭にという癖がついている。

従って、結局何が言いたいのか、焦点がぼやけた
長文あるいは長い話は、殊の外苦手である。

その傾向は、韓国、中国において顕著であるが、
国内は最たるものである。

電話や会議、商談において、長々と繰り返される話を
辛抱強く聞かねばならないことはよくある。

心の中ではいつも問いかけている。
「で、何が言いたいのか?」と。

主題の話は、昔読んだことのあるコラムである。
時間がないから、手紙が長くなるというのは一見、
矛盾しているが、伝えたい内容をしっかり絞って
文章を推敲し、簡潔化するのに必要な時間がなく、
よって文章が長くなってしまうという事である。

そうしてみれば、私の記事も長文のきらいが
あるので、他人の事はとやかく言えないが、
要するに時間が無いのである。

記録、伝達、交信と、目的は違っていても、
文章化するというのは、それが第三者を
想定しての事であれば、主眼は相手に
十分伝わるかどうかという事である。

そこにどれだけの時間と考察を費やしたかで、
文章や、会談の長短は決まる。

なにせ、自身も他の人達も、読む、聞く、見る
という事における集中力は、驚くほど短い時間しか
継続維持できないのである。