ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

依存の移行

2009年04月29日 | ノンジャンル
いつの頃からか、仕事人間となって、公私のメリハリのない
生活となってから、ますます仕事にのめりこみ、
他の趣味などなくとも、仕事が趣味だなどと本気で
考えていた。

家庭を持ってそうも行かなくなってからは、まだ良かったの
だろうが、カミサンともめると、仕事に逃げるようになった。
会社で泊まったことも何度もある。

楽しい、夢中になるくらいまでならいいのだが、それ以上
のめり込むと虜となり、囚われの身になってしまう。
ある意味、ワーカホリックのようなものであったろう。

それでも、仕事が一段落して、息抜きに飲むのであって、
飲むことよりも仕事が優先であった。
それが、同等となり、やがて飲むことを優先させ、
飲むために仕事をするといった形に移行していった。

結果として、アルコール依存症となったのだが、
ひとたびこの虜となる経験をすると、そこから抜け出すのに
別の虜になるものを探し、移行する傾向がある。

私の場合は、仕事からお酒へと移行し、アルコールに
囚われて断酒せねばならない状況に至った。
断酒してからは、まずタバコの本数がやたらと増えた。
吸わずにはおれないのである。
それから、甘い物への異常な執着。これは抑えられない
渇望に似た思いで、やたらと摂取した。

いずれも、断酒初期の典型的な依存移行の傾向であり、
タバコ、甘い物、大量の飲茶、食欲へと、飲酒欲求が
変換されたもののようである。

断酒による一過性の反動ともいえるだろうし、事実、
それらは時間と共に落ち着いていった。
ところが、囚われやすい傾向は残っていて、それが
異なることに移行していくということがこれまでの
経過からみて、よくわかる。

体験を整理し始めた頃から、他の囚われは落ち着いた
ものの、ネット依存かと思えるほど没頭していた
時期がある。

性的欲求が高まり、SEX依存かと思える時期もあったし、
敢えて盛り場へ繰り出して夜遊びをする時期もあった。
買い物依存的に、ともかく欲しいと思った物を買わずには
いられない時期もあったし、仕事でも特にこだわりがある
場合には、自分でももういいだろうにと思いながらも
とことんまでやってしまう時期もあった。

こうして振り返れば、形は変われど、虜となって、囚われ、
やむにやまれぬという依存的傾向が、あちらこちらに
移行していった経緯がはっきりと見て取れる。

今は、ちょうど全ての囚われたことが落ち着いて、
バランスが取れてきているのではないかと、
自分を静観できている。
断酒後、紆余曲折を経て、ようやく本当の意味で
落ち着くのに丸4年近く掛かったことになる。

局部的な痛みが、あちらこちらへ移動していたのが、
ようやく身体全体に散って、痛みとしては感じなくなって
きたと言えばわかりやすいだろうか。
やはり、そうそう簡単には回復の実感を得ることが
できないようである。

幸いにも、ギャンブルに関しては全く興味がなく、熱くなる
自分をわかっていて、昔から手を出さなかったせいか、
その方面への移行はなかった。

いずれの場合でも、飲んでいた頃に比べれば遥かに
経済面での損失は軽微で、月々の決まったお小遣いで
十分賄えるものであったことが勿怪の幸いである。

同じところばかりが痛いと辛いので、それを他の部位に
移行させることを繰り返していく中で、次第に痛み自体が
どこにあるかわからないまでに少しずつ散っていくのでは
ないかと思える。

今は、断酒、断酒と躍起になることもないし、むしろ断酒
そのものに囚われているのではないかと自問した時期も
過ぎて、心の穏やかさを感じている。

もっとも、囚われないまでも、夢中になれることは
一つや二つあったほうが良い。
これから、ゆっくり、いろいろやってみるつもりである。



真珠の首飾り

2009年04月27日 | ノンジャンル
美しい女性がいました。彼女は貧しかったので、
パーティーへ出かけて将来の良き伴侶を探そうと
思い、なんとかドレスを縫い上げ、靴も用意したのですが、
アクセサリーがありません。
友人に真珠のネックレスを借りることにしました。

そのパーティーでは良縁もなく、あろうことか、
ネックレスを紛失してしまいました。
仕方なく借金をして、同じ真珠のネックレスを買って
友人に返しました。
彼女は借金を返すのに苦労して働き、すっかりやつれて、
その美貌も消えました。

心配した友人が彼女の話を聞いて驚きました。
その真珠のネックレスは模造品で、数千円の
価値しかなかったからです。

彼女の友人はそのことを黙っていました。
真実を告げて、彼女に絶望を味あわせたく
なかったからです。

やがて、彼女の友人が急病で亡くなり、葬儀に参列した
彼女は、思い出に何か友人の遺品を分けて欲しいと、
遺族に頼みました。
二束三文だと知っていた遺族は、その真珠のネックレスを
彼女に与えました。
その時はじめて彼女は、友人から借りたネックレスは
二束三文であったことを知りました。

今、遺品として手にしているネックレスは、彼女が買って
返した高価な品であることを遺族は誰も知りません。
彼女はその事実を隠して、ネックレスを譲り受けました。

それを売れば、生活は随分楽になり、今までとは
比べようもない贅沢ができます。
でも、友人の遺品となってしまった以上、
それを売ることなどできませんでした。

そのうちに、遺族の中でこのネックレスの価値を
嗅ぎつけた男が出てきました。
彼は言葉巧みに、偽物を遺品として他人に譲るなど、
遺族としても、故人としても恥辱なことで、特に故人の
名誉をひどく傷つけるとかなんとかいって、彼女に返して
もらうように頼みました。

彼女は紛失したとか言い繕って、売ってしまおうかとも、
考えましたが結局やむを得ず、彼にネックレスを
返しました。
彼はすぐにでもそのネックレスを売って、現金を
得たかったのですが、他の遺族にばれるのを恐れて、
しばらく時間をおくことにしました。

その間に、彼はある女性に熱烈に恋をしました。
寝ても覚めてもその女性のことが頭から離れず、
思いの丈をぶつけましたが、それは叶わぬ恋でした。
その女性はすでに結婚していたのです。
焦がれる思いを抑えきれない彼は、せめてもの愛の記し
として、その真珠のネックレスを女性に贈りました。

女性は、裕福でもない彼が、まさか本物の真珠の
ネックレスなど買える訳がないと思っていましたから、
模造の安物だと頭から信じて疑いませんでした。
夫の前で身につけることもできず、捨てるに忍びず、
処分に困った女性は、知り合いの独身女性に
そのネックレスをもらってもらうことにしました。
もちろん、模造の安物だということをきちんと伝えました。

独身女性は、アクセサリー類をほとんど持って
いなかったので、模造とはいえ、喜んで譲り受けました。

そのネックレスをつけるため、独身女性は身だしなみに
気を遣うようになり、もともと美しい顔立ちであった
せいもあって、みるみるうちに魅力的な女性へと
変わっていきました。
やがて、多くの裕福な紳士が、彼女に求婚し、
彼女は心惹かれる一人の紳士と結婚をしました。

今、幸せな日々を送っているその元独身女性は、
身につけている真珠のネックレスが、自分で買った
本物だとはまだ気づいていません。
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美しい女性、彼女の友人、遺族の男、既婚女性、独身女性。

真珠のネックレスをめぐって、様々な人間模様が
繰り広げられたようですが、だれが幸福で、
だれが不幸なのか。

話としては日本的です。
シニカルな西洋の話なら、彼女の友人が
「あれは模造の安物なのよ。」と彼女に言って
お終いでしょう。
東洋では、塞翁が馬的な物語が好まれます。

ここでは、法律上、罪に問われるような事は
誰もしていません。
遺族の男にしても、作為的であったとはいえ、
遺品を譲った相手の納得のもとで返してもらって
いるにすぎません。
作為と隠蔽という点で、心情的に問えるとすれば、
彼女と、彼女の友人と、遺族の男でしょう。
けれども責められるほどのことではありません。

何が言いたいかというと、人が人と関わり合って生きていく
社会というものは、スッキリとした構図の中に、
様々な人間の心情的模様が絡み合っているような
ものだということです。

ネックレスを紛失した時に、そのことを友人に正直に
話せば、この話は始まってすぐに終わってしまいます。

ところが、面白い事に、正直に話して終わってしまうはずが、
また違う展開の話となっていくことが多いのです。

人との関係の中で生きていくというのは実に不可思議で
面白いものであると思うのです。



いじめの文化

2009年04月25日 | ノンジャンル
この国では、いじめの文化には伝統がある。

太古の昔より、「仲間はずれ」という民族的に根付いた
差別、被差別感覚がある。

携帯の待ち受けにニュース速報が流れるのだが、剛君が
わいせつ罪で逮捕とのテロップが流れた。
「ん? 剛君が強制わいせつ?」
「とうとうやっちまったか?」と思い違いをしていながら、
やっぱり早く結婚するべきだよなぁ彼はなどと考えていた。

帰宅して詳しくニュースを見れば、何のことはない、
泥酔して公園で素裸になって、15分ほどなにやら叫んで
騒いでいただけのことである。
強制ではなく、公然わいせつ罪とのこと。

泥酔して騒いで、近隣に迷惑をかけたことは失態ながら、
マスコミの取り上げ様、騒ぎようは異常である。
後に訂正したものの、最低の人間という言葉まで
飛び出す始末。街頭のインタビューでも、ショックだとか、
しっかりして欲しいだとか、尤もらしい事を言っている
人達を見て、思わず苦笑してしまった。

あなた方は、いったい彼の何なの? 恋人?父親?母親?と
突っ込みたくなる。ファンだというだけで会った事も
ない人にとやかく言われたくはないだろう。
もちろん、客商売だから、そんな本音は言えないし、
ご心配をおかけしてと謝罪するしかないのだろうが。。。

大体、他人を傷つけたわけでもなく、人のいない深夜の
公園で素裸になって騒いだとて、これほどの騒ぎになるのは
妬みがあるからである。
国民的なアイドルグループのメンバーで、歌にドラマに
映画、バラエティーとマルチなタレントを発揮し、
富も名声も博しているからこそ、
些細な失態でも槍玉に揚げられる。

ホームレスのオヤジが同じことをしても、記事にもならない。
むしろ全国の夜の繁華街では、遥かに迷惑で犯罪に等しい
行為が毎夜のように繰り広げられている。
酔って店内で素裸になって踊りだす人などざらである。

まことに可愛らしいものではないか。
若い頃私は剛君にそっくりといわれていた。飲み屋では
どこでも女の子に剛君と呼ばれていた。
そのせいでもないが、彼の演じる役柄や、メンバーの中での
役回り的な面から見ても、かなり繊細で危うさがある
ところにはどことなく似通っている面が見えて共感すら
覚えている。

メンバーの中でも特に酒癖の悪さがあり、お酒にまつわる
エピソードも多い。彼とて、いくら有名であろうと、
一人の人間であることに変わりはない。
だからこそ、そういう面を支える良い相手が早く現れて、
結婚した方がいいだろうとは常々思っていた。

泥酔したことを悔やみ、反省していることは明らかだが、
大体、自分がなにをしていたかまるで覚えていない
はずである。最初に見た写真の表情は、未だ酔いから
醒めていない状況だった。

さて、日ごろ真面目で、良い人に見られている者は、
善い事をして当然であり、今回のような失態を演じると
まるで鬼の首を取ったような騒ぎとなって、一気に
イメージダウンとなってしまう。

悪人の嫌われ者が、時に予期せぬ善行をしたり、義侠心を
見せたりすると、そのことが至上の美談であるかのように
取り沙汰され、それまでの悪行は大目に見ようという気分と
なることと、正反対であるから、これほど気の毒な
ことはない。

アル症の関係者から見れば、なんでもないことであり、
可愛いものなのである。
そもそも、お酒の上での失態は、無礼講として大目に見る
余裕のある文化であるはずが、不景気で余裕がないせいか、
底意地の悪さばかりが表に出ているような気がしてならない。

いったい彼が、誰にどれほどの迷惑をかけたというのだろう。
私にはこの騒ぎが不思議で仕方がない。
自分が親になって思うのだが、子供にはまともなことを
言って、時に叱ったり、諭したりするが、実際に自分が
子供の頃はどうであったかを振り返れば、子供が親の
言うことを聴くわけがないとも思うのである。

親の言うこと、先生の言うことを素直に聞いて、わがままを
言わず、お手伝いをして、勉強もしっかりして、品行方正で
親孝行な子供であったかどうか、自分を振り返って
みれば良い。自分はさも偉かったように錯覚して、子供に
説教を垂れるなど、恥ずかしくて私にはできない。
自分の考えていたこと、経験を基にしての話ならできる。

剛君もまだ34歳の若き独身男性である。
失敗もあり、失態もあり、間違いもあるだろう。
誰もが通る道でもあり、その意味では普通の若者となんら
変わりはない。
若さの無鉄砲さや、そのために派手な転び方をする面も
自身が経験してきたことではないか。
説諭し、注意して、反省すべきことは反省させ、失態自体は
大目に見てやるのが大人というものである。

自らを省みず、人の失態に付け込んでここぞとばかりに
それを責め立てるのは、大人のすることではない。
むしろことさらに責め立てる、その人の人徳が
疑われるのみである。

大変な仕事であることには変わりがない。
できれば、お酒はたまりにたまったストレスの発散
手段ではなく、楽しく飲むことで気分転換、
新たな活力としていけるものであって欲しいと願う。

今の飲み方は依存症へと繋がりやすい危うさがある。
今回の事件を機に、お酒自体との付き合い方を考えて
もらいたいとも思うのである。



新開発

2009年04月23日 | ノンジャンル
ノンアルコールビールというのは、アルコールゼロではない。
1.0%未満のアルコールが含有されている。
当然大量に飲めば酔うことになる。

飲酒運転の問題が深刻となり、処罰や規制も厳しくなって
いるなか、ビールメーカー自ら、その解決に寄与しよう
という主旨で開発されたのがアルコール含有0.00%、
つまり完全にアルコールフリーとしたビール風味の
炭酸飲料である。

皮肉にも酒造メーカーとの取引がある私は、設備関係、
工程関係には詳しい。

通常、アルコールを添加する場合はもちろん含有する
ことになるが、発酵工程がある場合は、仮にアルコールを
後の工程でいくら除去したとしても、含有をゼロと
することはできない。

一般の清涼飲料をはじめ、醤油などの調味料にも
厳密に言えば微量のアルコールが含まれる。
完全に含まないものはミネラルウォーターぐらいである。

さて、今回のアルコールフリービールは、発酵工程を
一切排除している。つまり製法上、アルコールの発生する、
あるいは添加される工程が皆無なのである。
これは、技術的には画期的な開発である。
もちろん、いくら飲んでも酔うことはない。
苦い炭酸水を飲むのと変わらない。

で、試しに飲んでみることにした。
ノンアルコールビールには、微量ながらアルコールが
含まれるということで、一切手をつけてこなかった。
が、今回は全くのゼロであるから、缶ジュースと
変わらない。

缶のデザインはビールそのものである。
一応、酒類の棚に置かれている。取り出して買う時に
すでにドキドキしていた。
お客さん用に買うことはあっても、自分が飲むために
買うのは4年振り近くになる。
何か悪いことをしている気分だ。

いざ飲もうと缶を開けると、またまたなんともいえない
うしろめたさが頭をもたげる。
えい、ジュースと同じと、口をつけてグイッと飲む。
懐かしい麦の香り、苦味が口に広がり、そのまま一気に
ごくごくと飲み干す。仕事の後の一杯目のビールのうまさに
似た感覚がよみがえる。

「ん? これはありかな。」と思う。
だが、飲み干した後に残る鈍いくぐもった様な臭みと、
もったりとした咽喉に残る感覚。。。
咽喉越しのスッキリ感と切れがまるでない。
アルコールゼロだから当然か。
苦味と切れ、スッキリさは、どうしてもアルコールが
なければ限界がある。当たり前のことだが、それにしても
雰囲気、風味をここまで持ってきたことは評価できる。
さすがはキリンである。

だんだん酔いが回って、麻痺すればこそ、ビールを
何リットルも飲めたのである。
水やお茶を何リットルも同じようには飲めない。
この新製品も水やお茶と変わりない。
ただ、苦味の炭酸飲料はそうそうないので、
たまの気分転換には良いかもしれない。

今回改めてわかったことは、一杯のお酒ですべてもとの
木阿弥に戻るということである。
4年近く断酒してきて、アルコール臭に敏感となり、
接待の場でも、遅い時間の電車でも他の酔客のお酒臭さに
閉口するようになった自分は、もうお酒など飲めない
体質となってきたのではないかとさえ思っていたが、
なんのことはない、いつでもすっと受け入れてしまえる
ということに気がついた。

これが本当のビールで、少しでもアルコールの作用が
あったなら、間違いなく徐々に止められなくなって
いくのではないかと思う。
何年経とうが同じである。一杯に手をつければ、直ちに
振り出しとなる。
「一杯くらい」が、まさしく命取りになる。
そのことを実感させてもらえたと思う。

私と同じように、依存症の身で試した人は多いことと
思うが、これは逆に再飲酒の引き金となる危険性を
はらんでいる。
ビンや缶からグラスに注げば、どう見てもビールである。
いくら飲んでも酔うことはないが、酔わないからこそ、
本物のビールへの欲求が高まる。
寝ている子を起こそうとするようなものである。
そしてもし本物に手を出せば、眠っていた回路に
スイッチが入り、限りなくアルコールを求めることになる。

こうしてみれば、画期的とはいっても、我々アル症に
とってはなんとも厄介な製品を開発してくれたものだ。
スリップの疑似体験程度に収まればよいが、
現実にスリップをする人が増えれば、なんともならない。

避けられるものであれば、酒席であれ、宴会であれ、
避けるべきである。
アルコールゼロとはいえ、やはりこの新製品も、
「君子危うきに近寄らず」の態度でいるほうが
無難であると思われる。



遺影

2009年04月23日 | ノンジャンル
今日は、母の命日である。

いかなる人生であったとしても、それを終えた死者に
対しては生存するものは敬意をもって遇するのが
礼儀である。

葬儀では死者が最上位となるため、どんな立場の
弔問客も殿(どの)付けで呼ばれることになる。

ところが最近では、出棺前の最後のお別れの時に、
死者の顔を撮影する者が多いという。
気持ちはわからないでもないが、無礼にもほどがある。

映像の中で人生を送ってきた人は、死後も生前の映像を
繰り返し放映されることは、いわば宿命であり、
その人にとっても本望であるかもしれない。

あるドラマで死んだ人が、新しいドラマに出演していると、
感覚として生死の境界が曖昧になり、現実に亡くなった人が、
映像で笑っていると、おかしな錯覚感を覚える。

死者の顔を撮影するのは、その人が死んだのだということを
確認し、実感するためなのか。よくわからない。

私ならその死に顔を目に焼き付けて、自分の心に保管する。
亡骸となった人には、その意志の表しようがない。
残されたものが出来ることは、その意志を慮って、
出来ることをするのみである。
それは死に顔の撮影などではないだろうとは思うが、
中にはそういう遺志を持つ人もいるかもしれない。

パチンコのCMだったろうか、ドリフの全員集合をベースに、
唖然とするメンバーの前に長さんが登場する。
「オイッス!」 「行ってみよう!」の懐かしい掛け声に
ハッとさせられ、本当に還ってきたかのような錯覚に陥る。
CGや合成など、映像技術の発達はある意味残酷である。

懐かしさと嬉しさと、虚像であることの淋しさと悲しさが
渦巻いて、切なくさえある。


母親が亡くなって、しばらくの間、夢で普通に話をしていた
ことを思い出させる。
死んだはずなのに、こうして目の前にいて話をしている。
ありもしないことだとどこかでわかっていながら、良かった、
生き還ったんだなどと内心喜んでいる。
そして目覚めた時の新たな喪失感。

何度もこの喪失感を味わい、切ない思いをした者にとっては、
死に顔は自分の心に写すもの、遺影は笑顔である方が良いと
思うのである。

過去の映像ならともかく、今現在の映像に合成して故人を
蘇らせるなど、私には悪趣味としか思えない。
生と死の境を曖昧にしてしまうことが、生きること、
死ぬこと自体をぼやかしてしまうのではないかと危惧する。

かといって、死に顔の写真を胸に、常に死を意識して
生きるのも辛い。
心に写した死に顔は時の流れと共に少しずつぼやけていき、
毎日見る遺影は笑顔であるから、また私も笑顔で今日という
一日を生きることが出来る。