ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

折り返し

2012年06月27日 | ノンジャンル
今年も早いもので半年になろうとしている。

年々、加速度的に時の経つのが早く感じるのは、
それ相応の年を経てきたということだろう。

振り返っても、地に足の着いた軌跡も見えず、
ただその日一日をひたすらに走ってきた気がする。
そのこと自体は、これから先も変わらない。

良く言えば、それだけ充実しているということでもあり、
悪く言えばバタバタしているだけということだろう。

ともあれ、生きるとはそういうことかもしれない。

何の不安もなく、ゆったりと寛げる椅子に坐して、
悠々自適に穏やかな一日を過ごすことは、
理想ではあるが、少なくとも私にとっては
生きていることにはならない。

50近くになって、身体の衰えを急速に
感じ出したのだが、気持ちはいつまでも若いままなので
そのギャップの処置に困る。

仕事柄、身体を動かすことは多いものの、やはり慢性的な
運動不足でもある。 使わねば衰える典型といえる。

はてさて、今年一年、残り半分をいかに動くかが変わらぬ
課題であることには間違いないようである。

考えるより、一歩前へ踏み出せ。
自身に言い聞かせていることではあるが、
さらにその心構えで、後半戦を奮闘したいと思う。

一歩前へ。そこから何かが変わり、何かが始まる。



梅雨入り

2012年06月25日 | ノンジャンル
台風が早く来たせいもあって、あまり梅雨入りという
ことを意識していなかったが、ここの所すっきりと
晴れない日が多いところを見ると、梅雨の季節の
真っ只中であるのだろう。

呑気なことを言っているようだが、この感覚は、
自分にとっては危険である。

仕事面での様々な抑圧や焦燥感、先行きの不安が
高まるほどに酒量が増え、季節が巡ることにも、
自身の体調にも感覚がマヒしていた頃にかなり
近い状況の中にいる。

昨年からこれまで、兎にも角にも突っ走って
きたのだが、いろいろな意味で危険な状況に
陥っている気がする。

いわゆる、「ヤバイ」気がしているのである。

酩酊という気分転換、あるいは現実逃避を知る者が、
素面ですべてを乗り切っていくというのは、もともと
お酒を飲めない人よりもはるかに難しい。

そのことを、理解ではなく、ひしひしと
身をもって感じている。

断酒期間が長くなれば長くなるほど、楽になる面と、
苦しさを増す面がある。

そこで、一杯に手を付けてしまえば、致命的になり、
苦も楽もなくなってしまう。

何年やめていようが、その一点においては
平等なのである。

「今回は頑張れんかもしれん。」

このあたりの微妙さは、本人にしかわからない。
そのきわどい紙一重のところで、飲むか、飲まないか。
こればかりは、その人の運も含めて、想いの丈に
依るのだろう。

そして、その想いをどれほどの人が支えてくれて
いるかにも依るのである。

這いつくばってでも、お酒を買いに行った自分である。
這いつくばってでも、己の為すべきことを、一日一日、
為していこうとするのみである。

そこにささやかな喜びがあれば、それが幸せという
ものかもしれない。



安らかに

2012年06月20日 | ノンジャンル
今日、忌明けとなる。

台風一過。

明日は晴れ間ものぞくだろう。

実質、このひと月はなんだか無我夢中だった。
そんなことはお構いなしに、時は容赦なく過ぎていき、
今日に至っているのだが、時折、ふっと風が心を吹き抜ける。

いまだに、「オヤジ・・・」と電話がかかってきそうな
気がしている。

「お前、また暇つぶしにかけてきたやろ。」と
言ってやろうと考えている自分がいる。

空を眺めていると、安らかにというのは、むしろ浮世を
必死で生きる者に対しての言葉かもしれないと思う。

もう天へと昇ったものに、せめて安らかにと祈りを
捧げつつ、その祈りは、自身に対しての祈りでも
あるのかもしれない。

今さら是非もないが、今を生きる者には、
生きることこそが闘いであること。
その自分なりの闘いを諦めてはいけないこと。
そして、その闘いの中に、せめて安らぎの時が
あれよと祈っているのかもしれない。

何も残さず逝ったとしても、その人に関わった人達には
何かが遺されている。
そして、それは生きる者の力になっていくものと信ずる。

安らかに、安らかに。

それは、生きていく者にこそ、必要な祈りなのだ。
いやむしろ、祈りとは、生きることそのものなの
かもしれない。





二十歳

2012年06月18日 | ノンジャンル
今月、誕生日を迎えた娘は、二十歳となった。

成人したとはいえ、別段何が変わったということでも
ないが、ひとつの大きな節目である事は間違いない。

大きくなったものであり、私も年を取ったものである。
もう見る間に、息子も成人となるのだが、思えば何だか
気が遠くなる。

何にせよ、心身共に健康であることが、この過酷な
世の中を力強く生きていく上で最も大切なことである。
その意味では、二人とも健康そのもので、本当に
幸せなことだと思う。

ごく普通のことのようで、決して普通ではない、
ありがたいことだと、身に沁みて感じるのである。

それぞれ、性格も資質もまるで違う二人だが、
仲も良く、皆で笑って過ごせていることがどれほど幸せか。

あたりまえのことなど、何ひとつないこと。
ささやかなことを幸せに感じられるかどうかで
その人をして愚癡の人とするか、感謝の人とするかが
決まってしまう。

同じ一日なら、感謝の一日としたいものである。

父の日には、二人からプレゼントをもらった。

子供の成長というのは、嬉しい反面、なぜか寂しさも
つきまとう。

願わくは、どんな時代であっても、己の信じる道を
まっすぐに歩んでいってほしいと、祈るばかりである。



家事メン

2012年06月12日 | ノンジャンル
定期検診で歯科医に行った時、待合で手にした雑誌に
「家事メン」なる特集が組んであった。

いわゆる、男の家事特集である。

どれどれと、興味を持って読んでみたが、
特に目を引いたり、興味の持てるものはなかった。

主婦の方には、この家事というのは面倒なことだと思う。
報酬があるわけでもなし、家族にいつも感謝される
わけでもなし、ぶっちゃけると、できていて当たり前と
みなされることのほうが多いだろう。

だが、男にとっては、その気でやると意外に
気分転換になる。

仕事というのは、職人でもない限り、自分の努力が
いつも具体的な成果として目に見えるわけではない。

むしろ、具体的な評価がされるとすれば報酬面で
あろうが、これも努力がすべて報われるわけでもない。

つまり、自身の懸命な努力が、具体的に目に見える
成果として表れたり、報酬として表れることは
少ないのである。

その点、家事というのは、報酬はともかく、
やればやった分、目に見える形で成果が表れる。
これはその意味だけでも十分やりがいのあることである。

また、そこに男性ならではの創意・工夫を許される
余地が十分にある。

一仕事終え、掃除の行き届いた部屋で、ゆっくりと
くつろぎ、音楽を聴きながらコーヒーを一杯・・・
片付いた部屋は自身の努力の成果。

これは、まさに至福のひと時なのである。

男性諸氏に家事を勧めているわけではない。
企業戦士の安らぎは、意外にも身近なところに
あるのかもしれないという、一示唆なのである。