ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

そこを何とか

2019年03月31日 | ノンジャンル
様々な問題や課題、要請に対して、「何とかする」
というのは、ひどく現実的な話である。

どれほど特別な対策や対応であっても、それは
現実的なのであって、つまりは道理でもある。

つまりそれは相手によって左右されることはない。
どれほどの地位や名声のある人であれ、富や権力を
持つものであっても、道理の前には平等である。

現実に即して話していることに対し、まるで
奇跡でも起こせとばかりに、そこを何とかと言う
相手とは話さない。

そこを何とかというのも、現実内の話である。
現実を離れて、そこを何とかなどと平気で言う
バカとは話をしても無駄である。

例えば、大阪にいる私に、今から1時間で東京に
来いなどということを平気で言うものがいると
すれば、相手が誰であれ、その時点で電話を切る。

1時間以内に現場対応が必要とのことであれば、
現実的な対応として、東京本社の人間を派遣する
こともできる。

前者のようなバカは、大抵精神論をぶつものが多い。
いわゆる気合バカで、精神によっていくらでも
奇跡を起こせると思っているらしい。

奇跡は、起こらないから奇跡なのである。

精神論を肯定するとすれば、それは自身との闘い
においてのみである。
それは、様々な可能性を開いてくれる鍵ともなる。

しかし、依存症においてこの精神論をぶつのは、
先の気合バカと変わらない。
依存症とは、その精神そのものの病である以上、
病んだ精神でどうにかできるものではない。

依存対象から隔離され、客観的にその対象を
見ることができるようになってから、回復の
始まりとなる。

また、長い年月をかけて依存症を形成してきた以上、
その習慣を矯正するにも長い年月がかかる。

一朝一夕に、気持ちの持ちようだけで
解決できるような生易しいものではない。

それができると公言するものは、私に言わせれば、
これから1時間で東京に行きますと言うバカと
変わらない。

一人でやるバカは罪がないかもしれないが、
周りを巻き込むバカは重罪である。

その罪の重さは、誰あろう依存症の当人が
最もよく知っているのである。





ショーケン

2019年03月29日 | ノンジャンル
マカロニ刑事が、本当に亡くなっていたらしい。

子供の頃に見た彼のドラマはどれも鮮明に
覚えている。

型にはまらない、自然体な姿に、テレビの世界の
人でありながら近隣でふっと出会えそうな、そんな
親近感があった。

妙に力の入ったカッコよさではなく、
力の抜けすぎたカッコよさでもなく、絶妙の
バランスがひどく魅力的だった。

元々歌手であったことを知ったのは随分後の
事であった。

それまでの、どの刑事もののドラマでも
見ることのなかったタイプのマカロニ刑事は
なんだかそこにいるだけで良いという存在だった。

確かその殉職の回の時、メインのストーリーで
危うく命を落としかける。
その危機を何とか脱して、ひと段落した時に、
「助かっちゃった」というセリフが印象的だった。

本人の安堵がにじむようなセリフで、見ている側も
誰もが胸を撫で下ろしたに違いない。

ところが、立小便をしている時に突然通り魔に
刺されて死ぬという衝撃的なラストが待っていた。

クライマックスを越え、安心しきったところに
このラストは、子供には衝撃が強すぎた。

せっかく虎口を脱して命拾いしたのに、
何とも間抜けな話でもあるし、彼らしいといえば
彼らしい。

最後の言葉は、「母ちゃん」「熱いなあ」だったか。
それすらも、妙にリアルで、本当にこの人は死んだ
のかとすら思った。

その後も彼のような俳優は、ついぞ見たことがない。

離婚や事件、逮捕など波乱の多い人生ではあったが、
彼は彼なりに正直に生きたのではないかと思う。

新しい時代を目前にして逝ってしまうところも、
なんだか彼らしい。

謹んでご冥福をお祈り致します。





憐憫と否定

2019年03月28日 | ノンジャンル
自己憐憫と、自己否定では、その生き方において
根本的に異なる。

自分を中心に、自身を憐れみ、周りを否定し
怨嗟するのは、別の意味で言えば自己肯定である。

自分はこれほど苦労して頑張っているのに、
これほど苦しんでいるのに、周りは誰もわかって
くれない、評価してくれない。

周りがどうであれ、自身を褒めてやりたいほど
頑張っているのであれば、それは充実という
自己肯定に繋がるはずである。

だが、この場合の自己肯定は、自分は良くて
周りが悪いという、独りよがりなのである。

何の事はない、今の自分から一歩も前へ出ていない。
曇り空の下で、息苦しい閉塞感の中にいるだけの
事である。

自己否定とは、ひとことで言えば、まだまだ
という事である。
今の自分を過大評価することなく、まだまだ
こんなものじゃないと、さらなる進化を目指す
という意味での自己否定である。

自己憐憫の人は、周りが中心、自己否定の人は
自分中心なのである。

今の自分をもっと評価してほしいと周りに求める
自己憐憫と、今の自分をまだまだ発展途上として
自己否定するのとでは、その生き方において
天地の差がある。

自己憐憫は慢心であり、自己否定は謙虚さである。

いずれがより具体的に自身の可能性を開きゆくかは
自明の理である。

願わくは自己否定の生き方を続けたいものである。





ケセラセラ

2019年03月24日 | ノンジャンル
英語では”Whatever will be will be”となる。
そのまま訳せば「なるようになる」だが、
ある訳では「どうにでもできる」となる。

受動から能動への見事な転換である。

続きは、「未来は見えない」から、
「未来を変えることができる」という
転換となる。

見えない未来のことを考えても仕方ない。
なるようにしかならないという虚無的な
生き方ではなく、想い描く未来に向けて
どうにかしていこうという、生き方の
転換である。

解釈の違いでもあるが、それは天動説と
地動説ほどの開きがある。

今を受け入れ、なるがままの未来を
待つのか、一歩前へ出て見えない未来を
開くのか。

真理はそれ自体に価値はない。
哲学とは生き方の解釈とその実践である。

森羅万象、不変のものはないと虚無に
陥るのか、それを真理とした上で、
だからこそ変えられないものはないと
前を向くのか。

同じ一生、無表情で日々を過ごすのか、
笑って過ごせる日々にしようともがくのか、
それもまた、その人なりの生き方なのである。





首狩り

2019年03月19日 | ノンジャンル
会社組織の営業部門においては、業績が全てである。
つまり、営業利益から経費、オーバーヘッドを
差し引いて、実質どれだけ会社の金庫に利益を
入れたかが、評価の全てである。

私達中堅以上の事業責任者においては、事業部の
業績が全てであり、その内容によっては首切りも
覚悟せねばならない。

それなりの矜持もある者は、状況がどうであれ、
業績が上がらず、先行きの見通しも立たない
となれば、首切りの前に自ら退く事もあるだろう。

私自身、常にその覚悟はできている。

さて、ある取引先の社長から食事の
お誘いがあった。
現状、話をするべき懸案もなかったので、
その内容は想像もできなかったが、いわゆる
ヘッドハントであった。

経営陣の高齢化、若手の経験と実績の乏しさ
という状況は、どの会社も多少なりとも抱えて
いる課題であろう。

経営の刷新、人材育成の要として、その会社に
来ないかという、想定外のお話であった。

業績という面で言えば一流の会社である。
待遇も報酬も破格の提示を頂いたが、
本当に丁重にお断りをさせて頂いた。

私には、現在の会長に大恩がある。
バッサリと首切りをされても仕方のない、
最もどん底にあった時に、温情を頂いた。

自身で立ち直ったとはいえ、その時の温情が
無ければ、どうなっていたかしれない。

そして、自身で立てた10年の計というものがある。
少なくともこれをやり遂げない事には、自身の
出処進退は自身にはないと考えている。

自身の出処進退を自身のものとした時に、
まだお役に立てるなら、その時にということで
納得を頂いた。

この年になって、男に求められるというのは
男冥利に尽きる。
その取引先との実績は、全体から見ればさほど
大きくはないが、それ故に、首狩りによる商権の
略奪ではなく、私自身を買ってくれているのだと
いうありがたさが身に染みる。

それは、断酒以降の私の生き方が、誤りでは
なかったというひとつの証左でもある。

ならば、今一度原点に還り、反省を日々の精進の
力へと変えていくのみである。