ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

アルコール

2011年01月28日 | ノンジャンル
時に、この病気の本人や家族などは、その実害の原因を
アルコール自体に求めることがある。
この世に、アルコール(お酒)さえなければと。

周知のとおり、最初のアルコールの発見は、酒精と呼ばれる
エタノールであった。
無論人工ではなく、自然界に自然に存在している物質である。

お酒に限らず、人間の食生活に深く関わりのある発酵という
過程を経る場合、必ずアルコールが生成される。

つまりその物質の存在を根絶することはできないし
する必要もない。
人間が発見する以前から、もともと存在していたものである。

その物質の特性を、どう有用し、利用するのかは、
全く人間の勝手であり、物質に善悪はない。

これは、お酒に関しても繰り返し述べてきたことである。

人体に薬となるものは毒ともなる。 それを善悪と置き換える
ことはできない。
薬とするのも人間であり、毒とするのも人間である。
置き換えていうなら、それは人間自体の善悪、あるいは
有用、利用の仕方の正誤ということなのである。

我々は、誤用を繰り返し、アルコールを体内に摂取することは
もはやできなくなったが、殺菌、消毒という効用は
変わらず可能である。

ということで、マスクもせずに咳をしていた人が帰った
ところで、アルコールを室内に噴霧することにする。




男の品格

2011年01月26日 | ノンジャンル
何も男性に限ったことではないが、その本来のDNAと
品格というものは全くの別物である。

品格とは、自らの生きる姿勢であり、周りに対する気配りの
現れでもある。

それはつまり、その人の挙措動作、立居振舞に
現れるのである。

* 身なり
家の外に出るということは、私から公へ転ずることである。
ネクタイが弛んだり曲がっているようではいけない。

何を着ているかではなく、きちんと着ているかどうかが
問題なのである。

* 歩く姿勢
寒いからと縮こまって、うつむき加減で歩いているようでは
ハンターのDNAを持つ男とは言えない。

胸を張って、まっすぐ前方、目線より少し高めを見れば、
これから進む先の地面も周りも空も一望にできる。

家を出れば7人の敵がいるといわれるくらいである。
どんな状況にも敏速に対処する体制を整えるのは
ハンターの必須条件である。

足が悪いわけでもないのに、ヨタヨタと歩いているのは
男としては論外である。

* 口元
締まりのない口元は、臭覚を阻害する。臭いに鈍感なのは
ハンターにとって致命的である。

しかも、口元に締まりがないと、物を食べる時や
ガムをかむ時でさえ不快なぺちゃぺちゃ音をまき散らす。
品格以前の問題である。

* 食事
収穫することに喜びを感じるハンターは、自分が
食べるよりも、収穫したものを人に食べさせることで
本当の満足感を得る。

男の食事は、また収穫するためで、食事が目的ではない。
同時に、ハンターである以上、食事は命を頂くということを
わきまえているからこそ、そこに作法が必要なのである。

貪るような不作法や、食いしん坊は論外である。
坊がついている以上、子供ではあっても男ではないことを
知るべきである。

* 道具
身体一つで捕獲できるほどの鋭い牙も爪も持たないので
あるから、道具は命を支えるもののひとつである。

箸の一膳から飛行機まで、あらゆる道具を大切にするのは
男の心得である。そしてそれぞれの使い方は、作法とも
いうべきで、最も効果の高い有用を知るべきなのである。

* 対人
人に接するときは爽やかな風のようでありたい。
みだりに無駄かつ余計な言葉を弄するのではなく、
互いに心にしみるような話ができればよい。

獲物を逃せば、明日の命はない。後悔したり、
くよくよしたり、不平不満を愚痴っている暇はない。
次の獲物を探すのみである。

良き出会いというものには、知恵が涌く。
愚痴の交換からは知恵は生まれない。

* 矜持
男の品格は、そのプライドの置き場によって決まる。
外見か、肉体か、才能か、名声か、地位か、
権力か、財力か。

自らの可能性と、他の人の可能性を信じ切る心を
矜持としたいものである。

* 大胆かつ繊細
ハンターは機を知らねばならない。
その機に応じて大胆に、あるいは繊細に行動する。
大胆ばかりでは高転びにこけ、繊細ばかりでは
なかなか前へ進めない。

この大胆さ、繊細さは機を逸すれば天と地ほどの差を
結果にもたらす。

男の品格とは、その立居振舞、挙措動作において、
機を知る感受性を持ち合わせているか、そして
瞬間瞬間に変わりゆく機に応じて瞬息の行動が取れるか
どうかにかかっている。

そしてそれは、どれほどの経験を積み、その経験から
どれほど謙虚に学んだかということに尽きるのである。




自然に還れ

2011年01月25日 | ノンジャンル
男というものは、生来そのDNAに冒険の志向性が
組み込まれている。

つまり、外への能動性に支配されているということで、
籠の鳥のように無為徒食して、安穏の中で生涯を終える
ということには堪えがたいものである。

引き籠りというのは、男の場合はその生来のDNAの志向に
明らかに反するため、そのストレスたるや女性の比ではない。

何もせずとも、いや、何もしないからストレスが増大し、
かえって何もできなくなるという負のスパイラルに
陥っている状況を打破するのは、外に出ることである。

大地に立ち、陽射しを浴び、風に吹かれるとき、
己のDNAがその本然的な志向性にスイッチを入れる。

女性的な男が増えている。
草食だの肉食だのは関係ない。冒険に必要なのは
雑食である。

安穏と幸運を願うのは、女性に任せておけばよい。
男は困難を求めて、それを乗り越えることに
最大の喜びと生きている実感を得ることができる。

安穏は、航海の後に帰る港のように、しばしの
休息程度でよい。

かつて古人は「自然に還れ」と言った。
男も、本来の男に還るべき時代なのではないか。
ジェンダーフリーなど笑止である。

問題は、己の遺伝子に「Y」があるのか
ないのかなのである。




起承転結 II

2011年01月24日 | ノンジャンル
母親は45歳でクモ膜下出血で倒れた。

動かぬ体を、何とか日常生活ができるまでに回復させ、
それから10年、為すべきことをすべて為して、
55歳で逝った。

私は厄年に死にかけ、現在のクリニックにつながった。
45歳を越えた時には、ひとつの節目を越えたようで、
安堵した憶えがある。

母親が逝った55歳まであと7年。
娘も息子も、一人前の社会人となっている頃だ。

この7年をとにかくも生き抜こう。

断酒でいえば10年を越えることになり、
「転」へとつながる。
人生でいえば一応の「結」を迎えて、再び「起」へと
転ずる時でもある。

いずれにせよ、性格もひっくるめて母親にそっくりだと
言われてきた私は、彼女の生き様、死に様に、
妙に共感できるのである。

この7年を生き抜けば、自身の「転」へとつながる
気がしている。






抗酒剤

2011年01月20日 | ノンジャンル
シアナマイド、ノックビン。

一般の人には聞き慣れないだろうが、いずれも抗酒剤と
呼ばれる薬である。

お酒を飲みたくなくなる薬ではない。
アルコールの体内での分解を抑制するもので、
つまりこの薬を飲めば、お酒は飲めなくなる。

物理的にはお酒を飲むことはできるが、アルコールが
分解されずに直接身体や脳に作用することになるので、
飲めば動悸、息切れ、眩暈、頭痛などの症状が同時並行で
一気に現れ、救急車で運ばれることになる。

シアナマイドは、無味無臭の液体で即効性があり、
ノックビンは、粉薬で効能の持続性がある。

当初は、両方とも服用していたが、副作用で全身に
発疹ができ、ノックビンの最少量となった。
院内では規定によって服用せねばならないが、
なぜか故院長先生は私がお願いした時以外は
処方されなかった。

我慢の断酒の時期、酒席で宴たけなわの中、
まあまあ少しくらいとすすめられて目の前の一杯に
手を出さない自信はなかった。

抗酒剤を服用していれば、初めから飲めないことが
大前提となっているので、お酒はあきらめるしかない。

誰のためでもない、自分がその日をどう生きるのかを
決めるのが、目覚めの抗酒剤服用ということなのである。
無論、それを服用するのか、しないのかは本人の自由である。

誰に強制されることでもなければ、誰のためでもない。

私は、家で抗酒剤を服用したこともなければ、カミサンに
強要されたこともない。

カミサンは、飲みたければ飲めばいいというスタンスだったし、
私自身、飲むなら、家庭も仕事も命も捨てるのを覚悟した上で
という認識だったように思う。

断酒しようが、スリップしようが、飲もうが飲むまいが、
それは自分自身の問題である。
それを、なになにのためなどと勘違いするから、おかしくなる。

飲んでいても飲んでいなくても、周りに迷惑をかけるものは
変わらない。 飲んでいればそれをあまり憶えていないし、
飲んでいなければ現実に対峙しなければならない分、
どこかに逃げ道を作ろうとする。

要するに、歯が痛くてそれを薬でごまかし続けるのか、
何もせず、痛いまま耐え続けるのか、怖いけれども
歯医者に行って治療を受け、定期的に検診を受けるか
なのである。

いうまでもなく、行動という点では、歯医者に行くのが
最も「生きる」ということになるのだが、いずれにせよ、
だれそれのために痛み止めを飲んでいる、だれそれのために
痛みに耐えている、だれそれのために治療を受けている
というのはひどくおかしな話なのである。

ごく普通の話は、当座を痛み止めで凌いで、治療を受け、
定期健診で良好な状態を維持し、美味しいものをよく噛んで、
美味しく頂く。 そしてそのことに感謝するという
ことなのである。