ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

年の暮れ

2017年12月31日 | ノンジャンル
天に唾を吐いておきながら、その唾が自分に
降り掛かったと天を恨む愚かさを穢土という。

天はただそこにあって何も変わらない。

原始 女性は太陽であった

命を育む光を無償で降り注ぐ太陽は、
母の愛の象徴でもある。

そこには感謝しかないのである。

明年もまた、感謝の年にしていく。





納会

2017年12月30日 | ノンジャンル
今年も間も無く暮れ行く。

事務所の掃除も終え、スッキリした心で
一礼して、一応の区切りとした。

息子が帰阪したので、二人で納会という事で
夜の街に繰り出した。

鍋が食べたいと言う。
一人暮らしの一人鍋というのは味気ない。

皆で鍋をつつきながら、ワイワイ話して
過ごす家族団欒に飢えていたのだろう。

いつまでも彼の話は尽きない。

一緒にお酒を酌み交わすのが楽しみだったが、
別にお酒でなくとも、対等な大人としての
交歓はいくらでもできる。

これで本当の納会となって、
今年を締め括れた。

新年は、またいきなりのトップギアでの
スタートとなりそうである。

節目は節目として、また坦々とこれからも
歩き続ける。
縁ある人々に幸多かれと祈りつつ。





正々堂々

2017年12月27日 | ノンジャンル
社会人となって以来、サラリーマンとして勤めて
きた私は、社会的には一切の疚しさはない。

給与の支給前にバッサリと源泉徴収されるので、
税金のごまかしようがない。

今年の年末調整では、初めて不足が出て、
追加徴収となった。

それだけ今年は頑張った証なのだが、こう簡単に
机上計算で徴収されると、その税金で政治を行う
ものたちの仕事振りや不正に我慢ならない。

とはいえ、個人的には社会人として一点の曇りも
ない正々堂々たる生活に満足もしている。

社会的信用を失い、仕事を失いかけた過去は
事実である。

現在の成果をもって、その過去の事実を美化する
ようなことがあってはならない。

逆に現在の不遇が、その過去の事実にすべて
起因するというのも誤りである。

現在、そして未来というものは、事実を事実と
受け入れて、さて今をいかに生きるかという事に
かかっている。

自身の過去の体験は、自らの学びであり、
自ら省みることは由とするも、他者から批判される
べきものではない。

過去はどうであれ、そこに学び、自省し、
今をより良く生きていこうとするなら、
それで良いのである。





関らない

2017年12月26日 | ノンジャンル
今現在のこの世を生きるのは、たかだか100年
ほどである。

私などは恐らくもう20年とないだろう。

その限られた時間の中で出会う人達もまた
限られている。

限られているからこそ、特別であり、かけがえの
ないものも多くあるだろう。

その関りが、互いの生きるを励まし、それぞれの
立場でまた前を向けるなら良いだろうし、
そうでなければ関らないほうが良い。

医者が病人を見捨てるのは論外だが、病気を治す
気のないものに、何をしたところで無駄である。

ただ、病気であることを知らぬ者にはそれが病気で
あることを知らしめる必要はある。
そうと知って、その人がどうするのかはその人の
自由である。

いくら主体が自身であるとはいっても、関りの中で
人は多分に影響されてしまう。

自身の生きるに、悪い影響となる関りは断ち切った
方が良い。少しでも良い影響であるならば、進んで
関っていくべきだろう。

袖振り合うもではなく、自ら袖を振って生きる
という事だ。

そしてその関りは、対等でなければ意味がない。
自身が上と見ても、自身が下と見ても、その良き
関りの意味がなくなってしまう。

絶望の闇の中に佇むとき、彼もまた、彼女もまた、
その闇の中でもがきながらも前へ進もうとしている
ことを感じて、自身も見えない光を求めて歩き出す。

そういう関りは、一つあれば充分である。

その一つの関りが、何十億の累乗となっていく
のである。

黒板上の顔も知らない、声も聞いたことがない、
名前すら知らない関りの中での、殴り書きの
応酬など笑止である。

それで今の自身の現実に対し、一歩でも一ミリでも
前へ進めているのか。
それは誰あろう自分自身が最もよくわかっている
ことだろう。

関る、関らないは、他ならぬ自身が決めることである。

朱に交われば赤くなる。
交わったのは自身である以上、赤くなったことを
誰のせいにしたところで詮無い事である。





生老病死

2017年12月24日 | ノンジャンル
この世に生を受けた以上、生きて、老い、病を得て
死んでいくことは避けられない。

父親が癌で入院している。

若い頃から手術を繰り返し、最後は腎臓を片方
摘出するという大きなものだった。

その後は見違えるように頑健に暮らしてきたが、
さすがに身体自体の疲れが出たようだ。

状態的に放射線治療は不可で、抗癌剤となるが、
一度目の投与で死ぬほど苦しみ、その治療継続を
拒否している。

妹や弟達は治療を続けるように説得しているらしい。
病室で二人になると、最も長い時間を過ごしてきた
父子である。
何も言わずとも互いの心は通じるものがある。

苦しんでわずかな時間を延命しても、生きている
実感はない。

もう為すべきことは為したのだから、残された
時間を自身の思うまま、望むままに生きればよい。

親より先に逝くという最大の親不孝を免れた私は、
自身もまた、子供よりも先に逝く。

その自然で当たり前のように思えることが、
かけがえのない、特別なことなのだろう。

私は父に、長生きしてもらいたいのではなく、
自分らしく最後まで生きて欲しいのである。