ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

時の流れに身をまかせ

2012年11月29日 | ノンジャンル
歌の文句ではないが、一日を悔いないようにと
心がけてはいても、どうも地に足がついた気がしない。

日常が多岐に渡っていて、仕事面はともかく、
それ以外のことにおいても心身ともにフル稼働である。

どうも昨年来、この状況がずっと続いており、
例えば季節の変わり目、節目節目のメリハリが
つけられないでいる。

いいのか悪いのかは別にして、はっきりとした区切りが
つけられないのは、あまり感心しない。

とはいえ、逆らえない流れなら、しっかりと自分なりの
方向を見据えて、進むしかないのである。
周りから見れば、流されているように見えようが、
本人が自ら流れているなら、問題はない。

時折、全身の力を抜いて、その流れのままにあてもなく
流されてしまいたくもなるが、それは楽ではあっても、
楽しくはない。

まして、自身の最も嫌悪する、コントロールを喪失した
状態である以上、自ら本当に望むことでもない。

早いもので、息子も大学受験となった。
娘の時は推薦で100%心配なかったが、今回は
まともな受験となるので、なかなか大変である。

同じお腹から生まれてきたにもかかわらず、娘と息子は
性格も才能もまるで180度異なる。
一体、どうDNAを組み合わせればこんな違いに
なるのかといつも不思議に思う。

彼の受験は、私の勧めで理工学部に絞った形になるが、
私自身、彼を見ていていつも面白いと思うのである。
自分とは全く違うところが多く垣間見えて、面白い。

むしろ、娘の方が自分と似通っているところに
気づくことが多い。

幼いころに、積み木を積んだり、ブロックを組み立てたり
して遊んでいる彼に、数理的な理論構築の才能を見出して、
恐らくはと思っていたが、結局その方向へと進んでいく
ようである。

知識偏重の社会で、創造的な理論構築ができる才能は、
何とか大きく開花して欲しいと思う。

合格も大事なことだが、そのもてる可能性を大きく
開いていく事の方がもっと大事である。

何とか生き延びてきたおかげで、苦労はあっても
いろいろと楽しみが増えてきた。

とはいえ、費用となると文系とは格段の差で高額となる。
やれやれ、受験よりも、そのあとの方が大問題で
あることに気づかされた。

まあ、皆、健康でさえあれば、お金などどうにでもなる。
この点だけは、あまり肩に力を入れずに、
ケセラセラの心境でいるつもりである。

歌の文句ではないけれど、川の流れのように
留まることをしないでサラサラと我が家のお金は
流れていく。



原則

2012年11月12日 | ノンジャンル
日常生活に忙しく追われるようになってくると、
ついつい初心というか、原則がおざなりにされがちである。

我々においては、ともかくも日常生活をまともに送って
いける大前提として、断酒の継続がある。

それは条件であって、目的ではない。
つまり、断酒を継続することによって、すべてがうまく
いくわけではない。
むしろ、うまくいかないことの方が多い生活に、飲まずに
向き合って生きていこうとするのだから、苦しいのは
初めからわかっている。

あたり前のことではあるが、苦しいばかりの生活もなければ
楽しい事ばかりの生活もない。

その現実を、ありのままに生きていくのみなのだ。

私が断酒を開始したころはそうでもなかったが、最近では
ネット上でもこの病気や断酒について多くのページが
見受けられるようになってきた。

正しい病識や理解のためには歓迎すべきことだが、
中には、意見交換や批判・中傷交換の場と化している
ところも少なくない。

比較対照というのは、それが向上につながる場合は
別として、単なる優劣の判定や、そこにおける批評に
終始する場合、百害あって一利なしである。

自分が他に対し優位であると錯覚し、他社が自分より
優位であると感じて自己嫌悪に陥ったところで、
自身にも他者にも、益することは何もない。

最も有効なのは、それぞれの体験の交換であろう。
その人それぞれの体験は、まぎれもない事実であり、
その事実に共鳴するかしないかも、その人それぞれである。

だからこそ、自身にとって有益な体験は共有し、
そうでないものは捨てておけばよい。
押し付ける必要もなければ、押し付けられる必要もない。
そこには何の意味もないからである。

どういう形であれ、言いっぱなしの聞きっぱなしという
大原則は守られなければいけないし、現実にその原則に
よって負の話が正の話となるのである。

正となる可能性を持つ話を、わざわざ負にする必要はない。

例会であれ、ネットであれ、個人であれ、この原則を
外れてしまえば、互いを害することはあっても、
益することはないと決めておくことである。

そもそも原則というのは、自身のうちに決定させて
おくものなのである。



本然の意志

2012年11月07日 | ノンジャンル
救える命が目の前で消えようとしているのを
見過ごすことはできない。

これは、医師の原点ではあるだろう。

病気やけがで苦しんでいる人を放ってはおけない。
できれば、そういう人ばかりに医師の道を志して
頂きたいものである。

だが、医師の願いと志をもってしても、如何とも
し難いのは、本人の生きる意志である。

病気を治そう、けがを治そうというのは、根本的には
本人の生きる意志がそこにあるからである。

何度も繰り返し述べてきたが、アルコール依存症、
あるいは薬物依存というのは、この生きる意志を
麻痺させてしまうのである。

飲めば死ぬかもしれないとわかっていて、飲むのが
この病気であり、自殺行為であると、残された理性が
警告しても、抑えられない衝動がその人をして
死へと向かわしめる。

もはやその衝動の真っただ中にいる人にとっては、
飲んで死ぬしかないのである。

ただ、侵された脳にはなくとも、一個の生命として、
前へ進む、生きるという本然的な意志が厳然と存在する。

いざ、現実的に生死の境に屹立した時、たとえ一分でも
一秒でも生きようとするのが、その生命の本然的な
意志なのである。

そのギリギリのところで、本然たる生きる意志に
気づくか、気づくこともできない心神喪失状態か
によって、現実の生死は決まってしまう。

残念ながら喪失状態のまま死んでいく人が多いのが
この病気でもある。

いずれにせよ、自身の生きたい、生きる意志に早く
気が付いたものが、早く回復への道を歩めることとなる。
無理に周りがその人をして、回復の道に乗せることも
できなければ、その本然的な意志を気づかせることも
できない。

意志の問題というのは、理性と思考の意志という
ことではなく、その人の本然的な意志に気づくかどうか
という問題なのである。