ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

恋と愛

2012年03月26日 | ノンジャンル
柄でもないタイトルだが、艶っぽい話ではない。

久し振りに、結婚披露宴に出席した。

結婚はゴールではなくスタートであるとは
よく言われるが、それは、恋から愛へと転換していく
スタートなのではないかと思う。

恋はひとことで言えば自己中。
極端に言えば、相手のことなど考えていない。

愛は相手中心。見返りなど初めから求めてはいない。

初めから相手に持てる愛情は、親の愛情だけであろう。
将来の投資と計算して子供を育てる親はいない。
そんなことを考える暇もあるはずもない。

誰しも人を好きになる恋から始めて、
それを愛へと変えていければ、自然に結婚となるのだろう。

恋は冷めるが、愛は深められるものである。
いつも恋をしていたいというのは、私に言わせれば
ドМである。Mの本質は自己中である。

人というものはおかしなもので、他に対する愛情は
いくら注いでも減ることはない。
むろん、それは相手に依るだろう。

随分と永い交際の後に結婚となったようだが、
互いのありのままを重ね合い、これからさらに
愛情を育んでもらいたいと思う。

結婚生活は、ギブアンドテイクではない。
むしろ互いにギブアンドギブのつもりでいればよい。
その中で、わざわざ求めずとも自然に喜びが与えられるに
違いない。

どうか末永く、互いの愛情を育んでいってもらいたいと
願うのみである。


わからないこと

2012年03月14日 | ノンジャンル
新聞やニュースを見ていると、相も変わらず利己的な
犯罪が多い。

一体、他人をだまし、他人を傷つけ、他人を殺して、
仮になにがしかの利益が自身にもたらされたとして、
それが自身の幸せにつながると本気で考えているのだろうか。

他人を泣かせて、楽しい食事ができるのか。
他人を殺して、心の底からの喜びがあるのか。

ましてや、裁判を有利に進めようとするなど、
何の意味があるのか。

そんなものは、法律上の事であって、現実に自分がした
行為は全て自分自身が誰よりも知っている。

その報いは、必ず自身に還ってくる。

世間の評判や、国の法律など及ばない、厳然とした
因果律がそこにあることを知らねばならない。

錆は身から出るものであり、表面をいくら糊塗した
としても仕方がない。

他人を殺して得た利益で、楽しく食事をし、ぐっすり
眠れて、生活を謳歌できるとすれば、それはもはや
人ではなく、狂人である。

極論ではあるが、武士は食わねど高楊枝、食えなくなれば
腹を切ればよいという自己完結の潔さを、この国の人々は
いつから失ってしまったのだろうと思う。

この病気で、周りを巻き込んできた人間であるからこそ
余計にそのあたりのことを思うにつけ、どうにもわからない。

反面、年間の自殺者は3万人を越えて久しい。
これもいわゆる潔さとは無縁の状況である。

半世紀の間に、これほど豊かになってきた国が、
その豊かさの代償としてきたものはなんだったのか。

昨年の大地震、津波の大災害の折に垣間見えた民族の
根っこが、たかだか一年でもう埋もれてきているように
思えて仕方がない。

どうにもよくわからないのである。



あきらめない

2012年03月13日 | ノンジャンル
あんなに苦しい思いをしたのに。

あれほど泣いて泣いて、泣き暮らしたのに。

死ぬほど辛くて、淋しくて、悲しくて、本当に消えて
しまいたいとばかり思っていたのに。

死ぬほどじゃなく、本当に死ぬところまで行ったのに。

それでもやめることのできなかったお酒。

やっとその呪縛から少し解放されて、自分を
あきらめないところまで回復したなら、今度は少し
元気になった頭がお酒を欲しがる。

飲めばまた地獄に戻ることになるとわかっているのに、
お酒を入れさせようとする頭はささやく。
「少しだけなら大丈夫。」

そしてまた地獄の苦しみを味わって、また回復の道を
歩もうとしても、飲めない苦しみに堪えられず、
あるいはまた「もう大丈夫」という罠にはまって
その一杯に手を出す。

飲まないことで取り戻すことができたものを、
失いたくないと思いながら、その一杯でまた失ってしまう。

飲まない中で感じた喜びを、その一杯で悲しみと後悔に
してしまう。

飲んでも飲まなくても、苦しみと悲しみばかりではないか。
ならば、飲んで死ぬか、苦しくとも飲まずに生きるかの
どちらかしかない。

死ねば苦も楽もない。喜びも悲しみもない。

苦しむことも、楽しむことも、喜ぶことも、悲しむことも、
全部ひっくるめて、それは生きるということ。

苦しいだけの人生もなければ、楽しい事ばかりの
人生もない。

だが、楽しい事、嬉しいことが待っているとしたら、
今の苦しみも、悲しみも乗り越えることもできるだろう。

自分をあきらめないことは、生きることをあきらめないこと。

生きることをあきらめないことは、苦しみを乗り越えて、
幸せを感じていくことなのだ。




主体

2012年03月12日 | ノンジャンル
これまで幾度となく繰り返し述べてきたことだが、
断酒は意志の問題ではない。
正確には、この病気そのものが意志という制御作用を
麻痺させてしまう。

常に主体が自分自身であることは間違いないが、
その主体自体を主体にさせない病気なのである。

我々はまずそのことを認識することから始めるのである。
そこで、少なくとも自身を主体としていくのに必要なのが
断酒だという認識と自覚に至る。

この世に病人もケガ人もいなければ、医師という者の
必要はない。医者がいるから、病人やケガ人が出る
わけではない。

求められて現れてきたのが、医師という存在なのである。
つまり、主体は病人やケガ人ということになる。

何もアルコール依存症に限ったことではない。
病気やケガからの回復は、主体である自分自身の治癒力、
つまり治りたいという願望、治そうとする意志である。

その主体的な自身を取り戻すことが、初期段階での
医師の手助けとなる。

取り戻したなら、その主体を再び失うことがないように
維持していくことは、医師の問題ではなく、
意志の問題となる。

医療であれ、自助グループであれ、抗酒剤であれ、自身の
主体を失わないために必要であるなら、それは間接的な
助けとはなるだろうが、断酒の根本は主体たる自身の
願望と意志であることに変わりはない。

医療に治してもらう、自助グループに断酒を続けさせて
もらう、抗酒剤によってお酒を飲めなくさせる。

受動的な表現は、婉曲的な表現としても用いられるので
謙虚さがないと誤解されると困るのだが、
治すのは自分であり、断酒を続けるのも自分であり、
お酒を飲まないとの覚悟で抗酒剤を服用するのも
自分なのである。

「なぜ自分は断酒しているのか。」

何年経とうが、いや、むしろこの課題は、死ぬまで
自身に問い続けていくべきものであるだろう。

今の私にハッキリと見える答えは、

「ありのままの自分らしく生きるため。」

なのである。




環境

2012年03月09日 | ノンジャンル
とかく人は様々なことを自身の置かれている環境のせいに
したがるが、結論から言えば、環境をいくら変えても、
本人が変わらなければ何も変わらない。

無論、環境の変化は一時的にその人に変化をもたらす
かもしれないが、その人自身が変わらないなら、
変化を求めるには、常に環境を変化させることが
必要となってしまう。

要するにその人自身が何をどう変えていくのかが
肝心要なのである。

ここをしっかりと押さえておけば、環境に
振り回されることはない。

親のせい、育った環境のせい、地域のせい、世間のせい、
社会のせい、政治のせい・・・。

石につまづいて、もともとそこにあった石のせいに
したところで、転んで痛い思いをしているのは
他ならぬ自分である。

こんなところに石があるから悪いなどと、いつまでも
愚痴り、嘆いたところで、痛みが消えるわけではない。

傷の手当てをし、痛みをやわらげて、今度は
つまづかないように注意してまた歩き出す。

これを経験ともいい、成長ともいい、前進ともいう。

転ぶ前の自分と、転んだ後の自分との間には、
確かな変化があるのだ。