ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

支えるもの

2018年08月30日 | ノンジャンル
「先生、すみません、飲んでしまいました。」

先生は黙ってこちらを向いている。

先生が何も仰らないので、弁解しようと
頭を巡らせるが、何も言葉が出てこない。


ふっと先生は笑みを浮かべて、
「また今日からですね」と仰った。

後悔でもなく、申し訳なさでもなく、自分を
責めるのでもなく、私はその笑顔に心からホッとして、
また「今日から」をしっかりと肚に決める。

院長先生が亡くなって8年が過ぎた。
夢のような歳月だが、不思議と先生の夢を
見たことはなかったように思う。

昨夜、久し振りに先生の笑顔を見た。

その笑顔は、死して後においてなお、私を支える
ものだった。

8年前を思い出した。もう、飲んでしまって
すみませんと謝れる相手がいない。

謝ることができない以上、もう飲むことは
できなくなったと。

前回の記事の「ステップ」で、先生のことを考えて
いたからだろうか。

いや、それも含めて、先生は私に、「原点」と
「歩」とを新たにするようにと仰っているのだろう。

恩を報ずるとは、恩を送ることであろう。
それが回向でもあると信ずる。

これからも、ご恩に報じ続けたいと思うのである。





ステップ

2018年08月27日 | ノンジャンル
歩み、足跡、足取り、手段、段階などの意味がある。

故院長先生の揮毫に「歩」がある。

患者に対して、回復への歩み、再生の歩みの意で
あったかとこれまで深く考えずにいたが、
ふとそれを英訳すればステップなのかと考えるに
至った。

確かに、意味からすればステップでいいのだが、
英語を常用する身にとって大きな違和感がある。

では、ステップでなければ何なのか。

ここに至って、はたと気が付いた。
院長先生が、患者に対し、上から目線になる
わけがない。
回復の歩み、再生の歩みではなく、自身と同じ、
人の歩みである。
つまりそれは、道であって、ステップではなく、
ウェイなのだと。

人生という道を歩んでいく中で、山あり谷あり、
病気や様々な困難、紆余曲折があるだろうけれど、
時には励まし合い、助け合いながら、共に進んで
いこうという、先生の生き方の意味であるだろう。

それは、道というウェイであり、生き方という
ウェイなのである。

多忙さでは、人には負けない私が脱帽するくらい、
先生は多忙を極めておられた。
いつしか、その多忙さが私を追い詰め、お酒へと
走らせたのだが、一体先生はどこで発散されて
いるのかとお訊きしたことがあった。

躊躇なく、患者の体験を聞くことだと仰っていた。
そう、それは、患者の体験というより、人の生きる
現実の体験である。

先生自身、それに励まされていたのだろう。
つまり、人として対等の位置で、生き方という
ものを共有されていたのかもしれない。

歩みは、道であり、その道は自らが決めていく。

やはり、それは、ステップではないのである。





オールド

2018年08月24日 | ノンジャンル
子供の頃、日曜の夜だったかテレビでこのCMが
流れると、おかしなことに、まるで別世界に
スリップしたような気がしていた。

それは、まだ経験すらしていない、人生の喜び、
哀しみ、怒り、傷み、嘆き、楽しみといったものを
味わいつくす、そういった大人の世界を
彷彿とさせた。

いつか、自分もああして、そういう大人の経験を
踏まえて、黙ってグラスを傾ける時が来るの
だろうかと思った記憶がある。

いや、当時の大人たちも、高度成長期の時代に
あって、いつかあんな風にゆったりとグラスを
傾ける境遇になることを夢見ていたのかもしれない。

新しいのに、名前はオールド。

テーマ曲は小林亜星の「夜がくる」。
その作曲のもととなるキャッチコピーは
「人間みな兄弟」。

人々の喜怒哀楽を、共に分かち合おうでは
ないかという事である。

その後も、恋のシリーズや、家族のシリーズ、
語りのシリーズと、秀逸なCMが続いた。

今の、目先の利益といういやらしさが前面にある
商用的CMとはまるで異なるものであった。

こういう飲み方のできる人に、アル中はいない。
やはり私は、どこかでこのオールドのCMを忘れて
しまっていたのだろう。






実害

2018年08月20日 | ノンジャンル
アルコールやギャンブルなど、依存症と呼ばれる
疾患は、病気であり障害である。

その診断は無論、専門医によってなされるのだが、
それが病気である事を知らずとも、客観的に見れば
明らかに判断ができる。

要するに、生活上の実害があるにも拘わらず、また、
その実害を認識していながら、継続してしまうなら、
それは依存症といってよい。

つまり、わかっちゃいるけどやめられないの
継続である。

収入の一部をアルコールやギャンブルに充て、
楽しみとしているだけなら、それは一つの潤いとして
より良い生活自体に寄与するだろう。

ところが、それが高じて生活自体を破綻させる
ような状況に至ってなお、更に継続していくなら
これはもう病気というより障害である。

まずは実害があるのかどうか、そして、実害があれば
それを解消していこうとする具体的な行動が取れるか
どうかである。

実害を際限なく悪化させていくなら、もはや
病気であり、障害である以上、医療に依るしかない
という事なのである。

パワハラ、セクハラなど、精神的な面で被る実害は、
現実の関りの中での問題という点で、外的要因と
なる以上、外的な働きかけを起こす勇気と決断が
必要となる。

要因が内的ではなく、外的である点がこの実害の
解消において非常に難しいところだが、要因が
はっきりしている以上、その解消に動いた時の
実損と、実益を秤にかけて判断する他ない。

こうしてみれば、社会生活を送る者としては、
日々の現実を生きることで精一杯のはずである。

ネットなどの媒体で、批判や中傷などがあっても、
それが現実に実害となるならともかく、一般には
どうという事はない。

端末を切れば済むことである。
つまり、実害のないことに思い悩む必要も
なければ、その対応に時間とエネルギーを費やす
必要もないのである。

画面の100の文字よりも、1の声、100の声よりも
1の会って話すという事が、現実を具体的に
生きることに繋がる。

限られた時間なら、現実をより具体的に生きよう
ではないか。

100の議論よりも、1の挑戦、行動こそが、
その人の現実を変えていくのである。





風は秋色

2018年08月19日 | ノンジャンル
7月から酷暑が続き、今年の夏は長くなりそうだと
思っていたが、お盆を過ぎて急に風が秋めいてきた。

年々、夏が短くなっているような気がしている。
いや、春も秋もすっ飛ばすかのような感じで、
夏が短ければ、冬が長いはずなのだが、そうでもない。

要するに、一年をあっという間に感じている分、
それぞれの季節もなおさら短く感じるのだろう。

酷暑、熱帯夜が続いているうちは、その日一日を
なんとか過ごすので精一杯だが、すこし涼しくなって
余裕ができると、先行きの不安が頭をもたげる。

何の不安かはわからないが、断酒を決意して休職して
いた頃と重なる時期だからであろう。

季節は巡り、月日も瞬く間に過ぎてはいくが、
今日一日をどう生きるかということに変わりはない。

思う通りに行かずとも、他人にどう言われようと、
せめて自分自身が本当に納得できる一日を
積み重ねていきたい。

自身の満足というものに嘘はつけない。
床に就いたときに、まずまず頑張った一日だったと
心から納得できるなら、それは幸せな一日だったと
いうことであろう。

そういう日をどれだけ重ねていけるかが、
生きる上で最も大事な臨終を迎える時に、
満足か悔恨かを決めるのであろうと思う。