ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

一事が万事

2018年05月30日 | ノンジャンル
一事が万事というのは、ある一面を見て、それが
万端に通じるという傾向性を推測することである。

つまり、ある意味主観的であり、客観性に乏しい。

人の一面を見て、それを推測によってその人の
すべてに通じるという見方は、やはり主観である。

どうもこの一事が万事的な発想が満ち満ちて
いるのは、ややこしい問題を、少しでも楽に
処理したいという、便利さと安易さを求める
傾向がそれだけ強くなってきたのだろうと思う。

人の心情というものはもとよりややこしい。
その人が集まって形成している社会はややこしくて
当たり前である。

できるだけ統制が取れるようには、その仕組み
として進化が可能だろうが、それを完全なものに
するなら人を度外視した社会優先の絶対独裁に
よるしかないだろう。

一面は単に一面であり、その一面でその人の
すべてを判断できるほど人は単純ではない。

客観とは、一事が万事ではなく、一を聞いて
十を知るの前提として、一を見て十を知ろうとする
地道で忍耐強さのいる行動に裏打ちされる
ものである。

ある組織や団体においても同じで、一人を見て
全ての人を判断する安直な主観ではなく、
一人一人全員を見ていって、その組織、団体を
判断、評価するという、客観的な視点が
欠落している。

それは、便利さの中で損なわれた、忍耐強さと
根気と、身悶えする様な労苦を厭わない
継続の力である。

いわば主観は一瞬、客観は死闘なのである。





13年の金曜日

2018年05月29日 | ノンジャンル
ここのところ、どうも体調が思わしくない。
何ともすっきりしない倦怠感が常で、
夜はよく眠れるものの、目覚めの身体の重さが
尋常ではない。

時節的には、一年で最も不調な時期ではあるのだが、
ここ数年、これほどの倦怠感はなかったように思う。

初めてクリニックに足を運んだのが6月1日の水曜日。
まる13年の節目となる今年は金曜日。

13日ならぬ、13年の金曜日となる。



肉体的には、代謝交換の周期が7年といわれている。
その二周り目に突入する時期の予兆ともいえる
かもしれない。

あるいは、自身の内のジェイソンが騒ぐ時期なの
かもしれない。

断酒の履歴においては、3の倍数に留意してきたが、
これからは7の倍数に留意すべきかと思う。

来年には、まる14年を無事に過ごし、二周り目を
越えて、新たな7年に向かっていければよいだろう。

三周となれば、齢63歳となる。
63とは、無作に通じる。あるがまま、ありのままに
人生の仕上げともいうべき時期を生きていければ
良いし、そうでなくとも、悔い無き様にと
願うものである。

そのためにも、この5年は、ひたむきな5年としたい。

還暦とは、振り出しに戻るのではなく、初めから
死というものを常に側に置きながら生きる、
新生なのであろう。

また自身の原点を迎え、大いなる新生に向けて、
今日という一日をひたむきに生きていく。





おしつけない

2018年05月27日 | ノンジャンル
普遍性、不変性のあることについては、殆どの人が
事実や原理原則として共有できるであろうが、
個々人における実例は、あくまでも例であって、
他人に押し付けることはできない。

メディアや書籍、人から聞いた話などは、明白な
事実の裏付けがないまま、人づてに広まっていく
ことが多いが、大阪の人であればそれを端的に
表現できる。

さんざん詳しい話をした後、最後に、
「知らんけど」を付ける。

おいおい、知らんのかいと突っ込みたくなるが、
いいかえれば、聞いた話で、自身で実証した
わけじゃないということである。

当然、そんな話を他人に押し付けようなどとは
毛頭思っていないのだろうが、これが自身の
実体験であれば話は別である。

自分の体験、経験による話は、本人にすれば
確信を持った事実で、こういう話は往々にして
他人に押し付けがちである。

例えば、ある療法で癌が完治した人は、
他の癌に苦しむ人にその療法を勧めるだろう。

中には、その療法しかないと確信を持って
他人に押し付ける人もいるかもしれない。

しかしそれはあくまでも、その人に限られた
一症例に過ぎない。
その療法が、功を奏す人もいれば、まったく
効果がない人もいるだろう。

つまり、事実ではあるけれども一例に過ぎない
という事である。

本人にできることは自身の体験を、一例として
紹介するのみである。
「知らんけど」ではないが、
「あなたにも効果があるかどうかはわからないが」
という事なのだ。

押し付けるのではなく、実例として紹介し、それを
聞いた相手が、自身も身を以て共有するのか
どうかは、その人自身の問題である。

癌細胞が見つかれば、事実として、癌という診断を
受け入れざるを得ない。それを認めないと
いったところで癌であることは事実である。

もとより、認めないという人はいないだろうが、
依存症の場合は事実として挙げられるのは
癌細胞ではなく、それに付随する様々な弊害で
ある以上、認めないというケースが多い。

それは、認めれば、依存対象を奪われることを知って
いるからである。

かといって、断酒、断酒と押し付けたところで
仕方がない。

まずは、癌であることを認め、受け入れるという事が
治療、回復の第一歩だからである。

仮に酒害で悩む人がいるなら、その人にできることは、
自身の実例と、回復の過程を紹介することぐらいで
あろう。

断酒は勧めるものであって、押し付けるものではない。
その人にはその人なりの回復の過程があるだろうし、
断酒が回復への必要最低条件であるとしても、
それを自覚するのは、やはり当の本人によるのである。

例会の言いっ放し、聞きっ放しというのは、
この実例の紹介と、断酒のすすめという事なのである。





退化

2018年05月26日 | ノンジャンル
技術の進歩によって、世の中は随分便利になったが、
その分、生身の人間の退化が著しい。

手紙を書くことがほとんどなくなった今、たまに
書こうとすると、漢字が出てこない。

計算機がなくて暗算すると、格段に時間がかかる。

手帳などなくとも、スケジュールなどはしっかり
頭に入っていたが、今では携帯のカレンダー
なしでは日々を過ごせない。

昔、母親が手でもみ洗いをしているとき、
指の薄皮が剥がれたのを見て、情けないと
言っていた。

洗濯機がまだそれほど普及していない頃、子供の
布おむつを手洗いしていた時のことを
思い出したのであろう。

ウォシュレットを設置してからというもの、
それなしではいられなくなったが、たまに
出張先などで設置されておらず、紙で拭くと、
何やらお尻がひりひりする。

自動車も、これからの方向性は自動運転だが、
それも人間の感覚を退化させる。

人の進化は、脳の進化に他ならない。
だが、その進化は、かえって人の退化にも
寄与している。

もとより、自然界において脆弱な存在ではあるが、
脆弱であるが故に有していたものを、失い続けて
いるのかもしれない。





現実逃避

2018年05月25日 | ノンジャンル
先の記事で、楽しいお酒は明日への活力となるが、
充電にはならないと述べた。

それは、楽しい時間を過ごすことは、気分転換には
なるが、休息とはならないからである。

さて、その楽しいお酒も、ストレスの多い仕事の
憂さ晴らしとなってくると、まるで様相が
変わってくる。

様々な問題で悩み続けている時、解決するまでは
四六時中自身の中で悶えがある。
自分の努力で何とかなることならともかく、
それだけではどうにもならない問題を抱えた時、
寝ても醒めてもその苦悩は絶えることはない。

食欲は落ち、夜も眠れず、憔悴していく。
これでは心身ともにもたない。

お酒による憂さ晴らしは、簡単に言えば
現実逃避である。
しかし、現実の問題がそれによって何ら好転する
事がないことも分かっているのである。

ただ、その現実に向き合い続けるのに、
必要な緩和のひと時を、お酒によって得ている
だけである。

本当の現実逃避とは、その問題そのものより
逃避することを意味する。

さて、自身もこの履歴を持つものであるが、
断酒を始めてから、次々に問題が生じた。

しかも、その問題の大きさは、飲んでいた頃より
遥かに大きいものばかりだった。

特に、これまでで最大の問題に直面した時、正直、
また飲んで何もかも忘れるひと時を持ちたいと
思ったことは何度もある。

四六時中の苦悩の中で、特に心がけたのは、
食べることと寝ることである。
無理してでも食べ、眠れなくとも、悩んだところで
何にもならないと開き直って寝る。
そしてまた次の日に悩むという事を繰り返した。

そして、ついに解決の日を見た時に、お酒に頼らず、
その問題を乗り越えたことが大きな自信となった。

現実逃避は、それが現実に向き合い続けるための
休憩だとすれば、必要不可欠な事である。
それはお酒であってもいいが、それが繰り返されると、
お酒そのものに呑まれ、まさに現実からの逃避となる。

50歩100歩という言葉があるが、形勢を見て
50歩下がり、再び攻める機を見るのと、
100歩下がる敵前逃亡とではまるで意味が異なる。

休憩と、逃避もまたしかりなのである。