ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

節目の日

2008年05月31日 | ノンジャンル
自分にとって、大きな節目の3年を無事に迎える事が出来ました。

正直、長いようで短い3年でしたが、この日を現実に迎えてみて、
様々な感慨が湧きます。

これまで支えてくださった医療側のスタッフの方々、家族や
会社の仲間、そして、こちらに投稿やコメントを下さる方々、
あるいは、黙って見守ってくださっている方々に改めて感謝し、
謹んでご報告とお礼を申し上げます。

本当にありがとうございました。
今後ともどうぞ宜しくお願いします。

自分の中では一段落と考えていて、さてこれからが本番と
気持も決意も新たに引き締めていきたいと思っています。

少し億劫でもあるのですが、体験記録や、これまで綴ってきた
考察をここでじっくり読み直してみる事も必要かと思います。

さて、こちらはこちらで、これからもALQUITな日々の考察を
綴っていきたいと思いますが、少し趣を変えて、考察ではなく、
日常の心境や、感じた事を、その都度簡潔な言葉と画像で綴る場を
別に設けました。

普通に公開の形でもいいかとも思いましたが、不特定多数の方々に
わざわざお見せするものでもないと思いますので、
保護設定としました。

ご覧になりたいという、好奇心旺盛且つ、物好きな方には、
メールを頂けましたら、パスワードをお知らせ致します。

メール送信先は、コメント欄に掲載しておきます。

どうぞ今後とも宜しくお付き合いのほど、お願い申し上げます。




戦慄の画像

2008年05月27日 | ノンジャンル


上のMRI像を見てもらいたい。

極端な例ではあるが、アルコール依存症による、脳萎縮の
症例である。
黒い空洞部の大きさに、戦慄を覚える。
(実際は空洞ではなく水が溜まっている。)

ここまで萎縮が進めば、日常生活にも大きな支障が出るで
あろうし、それにもまして、まともな思考はできない。
更に、理性を司る前頭葉の萎縮は、その人を本能的な支配下に
おく事となり、社会的にも非常に危険な存在としてしまう。

最近では、萎縮脳の回復も多少は確認されているようであるが、
ここまでに至れば、その回復も何ら状況の改善には繋がらない。

身体の自由が利かないのも、本人にとっては情けなく、歯がゆい
事でもあろうが、その情けなさも歯がゆさも何もない、
脳自体の障害と言うのは、私には耐えられない。

無論、耐えられないと言ったところで、そうなってしまえば、
その感覚さえ無いのである。

そうなればなったで、悩みも無く幸せなのかもしれないが、
それはただ生きているだけであり、自分らしさも、自分の人生も
無くなってしまう。

今、生きている中で、自分の事に関してのみ言えば、命を失う事が
最も怖ろしい事であるはずだがそれ以上に、生きながら自分を
失ってしまう事が怖ろしい。そしてそれは、生きながら家族も、
世界も全てを失う事となる。
そして、本人はというと、失ってしまっている事自体を
認識できない。

かろうじてこの最悪の事態は避ける事が出来た今、自身にとって
最も怖ろしいのは、子供達という未来を、希望を失う事である。
これだけは何があっても守りきって行かねばならない。

そして、その先の継承を見届けた上で旅立てたなら、これほどの
幸せは無いであろうと思われる。

自身の命のみを留め置いて、自身も世界も失う事が無いよう、
しっかりと心に焼き付けておくべき像であると思っている。

しかし何度見ても、怖気がする画像である。




不安と後悔

2008年05月24日 | ノンジャンル
今現在の自分の状況をもたらしたものは。、言うまでも無く
これまで自分がしてきた事であり、その中には後悔する事も
少なからずある。

むしろ後悔することの方が多い気もするが、皮肉な事に、その
後悔する経験の方が、自身の成長の肥やしとなってきた事も
否定できない。

過去の振り返りが、現在と未来に向けての糧となるのであれば
いいが、後悔によって現在の自分が縛られるようであれば、
それは停滞となる。つまり、具体的に前へ進めない。

現在、不安に苛まれているとすれば、同じく停滞の状況となって
しまうであろうが、実は、不安に思っているのは未来の事であり、
今現在そのものが不安である訳ではない。
ともかくも、今は現実に生きている自分がいる。

過去の後悔に縛られ、未来の不安に苛まれて、身動きが出来ないで
いる現在の自分自身は、今を生きている現実が見えないで
いることになる。

これまでの過去、経験というべきものをひっくるめて現在の
自分があり、未来への目標をもって、今を生きる自分がある。

ならば、今を生きよう。過去を受け容れ、未来へ目を向けて、
今を生きる。自身の現在を精一杯生きて行く事を常に心掛けて
いく中に、未来があり、過去もある。

刹那主義とは完全に袂を分かつ生き方が、そこにあるはずである。

今を、断じて生きていく。自分の前に道は無いが、道を描く事は
出来る。自分の後ろに道は出来るが、後戻りの出来ない道である。
自分が立つ現在の場所から、一歩一歩足を踏み出し、
道を創っていく。

今を踏み締める、その一歩一歩が、最も大切な事なのである。



余命何年

2008年05月22日 | ノンジャンル
人はいつかは死ぬ。 誰しもそれをわかっていながら、日々を
健気に生きていることを思えば、人間というものは
偉いものである。

若いときには、その熱と力に溢れ、いつか死ぬなどという事は
考えもしないのだが、歳を取って肉体的にも精神的にも衰えを
感じるようになると、いつかは死ぬそのいつかを意識し始める。

「あなたはアルコール依存症です。」と診断を下されたなら、
それは即ち、
「あなたの余命はあと○○年です。」と告知されたのと
同じである。

そのまま飲み続ければ、確実に寿命を縮めて命を落とす。
断酒しない依存症者の平均寿命は、50代前半である。
事故死、自殺、内科的合併症などが主な死因だが、一般的な
平均寿命から考えればあまりにも短い。

もちろん人の寿命は本人にも誰にもわかるものではないが、
仮に末期癌で余命一年と宣告されたなら、その人の苦悩は
計り知れない。 
いつかは死ぬ事はわかっていても、そのいつかがわからないから
生きていけるのである。 
そのいつかがわかってしまったなら、これほど恐ろしい事はない。

まして、一年などという本当に限られた時間しか許されて
いないとすれば、尚の事である。

何故自分がそんな目に遭わなければならないのかと苦しみ、
まだまだ生きたいと望み、それが可能なら何でもする気になり、
神仏と取引をしようとさえする。 
命を救ってくれたら、寄付でも布施でも何でも可能な限りする
だとか、まじめに信仰するだとかといった、命と引き換えの
取引である。

それも叶わないと悟ると、ようやく自身の現実を受け入れる
ようになる。そして、限られた時間ではあるが、その中で何が
出来るか、何をするべきかを考えるようになる。

明日死んでしまうかもしれないという事を常に頭において
今日を生きるというのは、本当に難しい。
誰しも、今日と同じ明日がやってくると信じて疑いも抱いて
いない。だが実際は、突然そういった局面に遭遇する事は
稀ではない。ただ、それが他人事で、自分には起こらないと
漠然と安心しているに過ぎないのである。

さて、アルコール依存症と診断されたところで、これほどの
切羽詰った状況には追い込まれないのは何故か。
寿命を延ばす方法がはっきりとわかっているからである。
断酒すれば良いのである。この安易さが、かえって断酒を難しく
させてしまう。

「依存症です。」という診断のときに、
「このまま飲み続ければ、また、再び飲むことがあれば、
 余命は一年足らずでしょう。」と断言されれば、それは即ち、
生きるか死ぬかの選択を迫られることになる。

反面、選択がまだ出来るという事なのである。
つまり、一年以内に死ぬ事が決定しているのではなく、自分の
意志でその時間を延ばすことが出来るという事である。

わかっているんだけど、どうしても飲んでしまう。
そういう病気なのである。
だからこそ、その怖さを知るべきなのだ。
飲めば死ぬということを、本当の意味でわからないでいる事が
恐ろしいのである。

そうこうしている間に、確実に命を削って、死んでいく人のいかに
多いかという事を知るべきなのである。

余命一年と宣告されたとき、その一年をどう生きるのかを
考えてみれば良い。
何をどうしても、その一年という時間を変える事が出来ない中で、
どう生きていくのかを考えるなら、その余命をまだ延ばす事が
出来る方法、手段がある事の幸せ、ありがたさが、骨身に沁みて
心底からわかるはずである。

人の寿命はわからない。だが飲み続ければ確実にその寿命を
削ることになる。
いつ死んでも良いと、飲み続ける病気である。だが本当に
いつ死んでも良いと思っている人などいない。
自身を、その切羽詰った状況に追い込んで、どうするのかを
考える時、素直に生きていたいと思うから、まだ死ねないと
思うから、少しでも時間を得るためにお酒を断つのである。

寿命は運命かも知れないが、断酒は生への意志なのである。



こいごころ

2008年05月19日 | ノンジャンル
あまり得意な分野の話ではない。

女性というのは、安定を求め、望むが故に、XYという遺伝子、
つまり男性を創造した。

子供を産み、育むという最も安定した環境を必要とすることから、
危険を伴う食料調達や、外敵から身を守る楯として、能動的に
活動する本能を具えた男性を創造したと考えられる。

端的に、家庭内が安全で、一歩外へ出れば多くの危険が待ち受けて
いる状況下では、この役割分担的な進化の過程は妥当で
あったろうが、人間の生活がどこにあっても安全であることが
あたりまえとなってから、この役割分担そのものが崩れてきた
といえる。

特殊な職業でない限り、夫が朝出掛ける時に、これが最後かも
しれないというような危機感と不安を感じながら送り出す妻は
今では殆んどいない。

むしろ、平安の中に居続けて、不安や危機感が希薄になって
くると、自ら安定を脱し、不安や緊張を求めるようになる。 
女性の社会進出、少子化などは、太平の世においてしか
考えられない。

男女平等を声高に掲げるのも太平の世であるからであり、
動乱の時代においては男女を問わず誰もが出来る事を精一杯する
事が必然となり、悪く言えば、そういった形而上的なことを
論ずる暇がない。

私は、男女を問わず、人は誰しも対等であると考えているが、
みな平等という事はあり得ないとも考えている。
この世に生を享けた時点で既に人には差があるのである。
それを否定すれば、画一的な人間群を形成しようとする悪しき
方向に進まざるを得ない。

人それぞれ差があって、その人らしさがあるのであり、
その人なりということを受け入れられるのである。

話が逸れた。こいごころの話である。
本来、命を育む安定を求める女性は、愛情の源泉であり、
心を守るものである。
男性は肉体的に傷つくことは厭わないが、心が傷つく事に
関しては脆い。

女性の愛情はその心の傷を癒すオアシスである。
端的に言えば、女性は男性を内的に守り、男性は女性を外的に
守りながら、互いに内外共に安心感を共有するのである。

愛情を安定とすれば、恋は不安であろう。
恋多き女性は、無意識に安定に飽きているのかもしれない。
ある意味、それは男性化とも言える。
男性の恋多き傾向は、本能的なものである。
女性のそれは、倦怠がその根にあるような気がするが、
男性化によって必然的にそうなるのかもしれない。

ただ、決定的に異なる面もあるかと思う。
男性の立場でしかわからないが、少なくとも、恋という不安定な
状況の中で、仮に相手の気持ちを感じ取っていたとして、
それが自分に対し好意的なものであったとしても、自分の帰る
ことが出来る愛情の場を捨ててまでそれに走る事はない。

恋は恋として、いとしさも、切なさも、苦しさも全てありのまま
心に抱きながら、思いを告げることなく、封印して自分の成す
べき事を成していくのが、大人の男の恋だと考えている。

自分の勝手な想いを、相手に無理押しに押し付けていくのは、
まだまだ幼い恋であろう。

恋の醍醐味は、相手に伝えなければ始まらないという事ではなくて、
あえて伝えない苦しさに身を置いて、その想いが甘酸っぱい
想い出に昇華していくのを見届けるせつなさにあるものと
思うのである。

豊かな感情に溢れ、時にそれに翻弄される事もあるであろう
女性の立場では、全く異なる想いとなるであろうけれど、
それは男性である私のわかることではない。