ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

断酒会

2013年04月25日 | ノンジャンル
私自身は、断酒会、AAなど自助グループには
所属していない。

これは私自身の事情であって、自助グループを
否定するものではない。
むしろ、他人には事情が許せば極力自助グループへの
参加を勧めてもいる。

事実として、参加する、つまり同じ仲間のうちで、
断酒を継続できている人がほとんどである。

組織というのは、どんなものであれ、人の集まりで
あることに変わりはない。
人の心自体が頼りないものであるからこそ、
その集まりにおいては常に原点ともいうべきことを
確認し、節目ごとに回帰していくことが肝要である。

断酒会は体験に始まり、体験に終わるという。
赤裸々なその人の真実を語り、それを聴き、
互いに糧として与え、与えられる場が例会である。

諸々の行事やイベントなどは、いわゆる発展系であって、
それが主となってしまえば本末転倒の様相を呈する
ことになる。

いうなれば、お酒をやめたいけれどもやめられない人が、
仲間と共にお酒をやめていこうとする場が
自助グループであって、お酒をやめている人が集まる
グループではないということである。

ここを外してしまうと、最早その本来の使命をも
外してしまっていることになる。

今の、ありのままの自身を受け容れてもらえる
場であること、そして、そこから一歩前へ出ようと
するなら励ましにあふれていること。

いわば、そういう神聖的な場が、俗世間と同じように
体裁や利害に囚われるようになれば、それはもはや
結成時の組織とは異なる組織である。

会員数にしても、増えることがそれだけ立ち直る人の
増加を意味するなら喜ばしいし、逆に減ることが
この病気の認知度が高くなって、罹患数が減ってきたと
いうことならば、これまた喜ばしい事なのである。

生活の糧を得る仕事場ならともかく、自助グループ
という場で体裁を繕い、無理な我慢をし、嘘まで
つかねばならないなら、そんな場は離れた方が良い。

それらを全部ひっくるめて、尚、自身に得るものが
あると信じるなら留まるもよいだろう。

素直であること、正直であること、ありのままの
自身であること。それができる場というものは、
本人がその場にいて、最も自由な解放感を得られる
ものなのである。

自分の気持ちには嘘はつけない。
だからこそ、「仕方がない」で流されないために、
原点回帰という確認が、何度も何度も必要であり、
何にもまして、自分自身にとって不可欠なことなのである。



想い

2013年04月22日 | ノンジャンル
朝、珍しく息子が仏壇の前に座っている。

「ん? 何かあったか?」と思っていると、
大学の入学祝いにもらったお金を持って、出て行った。

4月からアルバイト先を変えて、最初の給料日まで
あと3日。とうとう所持金が底をついたらしい。

入学祝いは、手を付けずに仏壇の引き出しにしまって
おいたままであった。
幼い頃から可愛がってくれてきた親戚にもらった
ものである。

本人は、そのまま、ずっと手を付けるつもりは
なかったようだ。

自分の小遣い、携帯代、定期代、テキスト代、
衣類など、すべて自分のバイトで賄っている。
偉いものだと思う。

大学入学となり、いろいろと出費がかさみ、
仕方なく前借りといったところなのだろうが、
給料が入ればまた元に戻すのだそうな。

理数系の論理的思考とは裏腹に、なんとも
健気な心情を持っているものだ。

彼が仏壇の前に座るのは、見守ってくれてきた
今は亡き二人のおばあちゃんと、その親戚の
おばさんに感謝するためだと、聞いたことがある。

自分のために神頼みをするものは多いだろうが、
感謝のために祈りを捧げるものは少ない。
それは、そのまま人のための祈りに他ならない。

自分の素直な想いとしてそれができるのであれば、
人としては一人前である。

なんとなく、まぶしい思いで、息子の成長を
嬉しく見守っている今に、私も感謝すべき
なのであろう。

その大切なものを決して失うことなく、
娘も、息子も、大いに自身の可能性を開いていって
欲しいと願うのである。

人として、一番大切なことをしっかりと身につけ
てきてくれたことに、私も感謝したい。



チュリップ

2013年04月19日 | ノンジャンル
これまで何度も接待などで宴席、酒席に出て、場馴れは
してきたが、出される飲み物に関してはある程度の緊張感を
持ち続けていた。

昨夜も接待だったが、お手洗いから戻ると、ウーロン茶の
代わりにブランデーの水割りが作られて置かれていた。

店の女の子が間違えたらしい。
まあ、クラブでお茶を飲んでる奴など珍しい。
まして、なじみの店でもない。

グラスに口を付けて、あれ?と思い、口を離したが、
ひとちびり飲んでしまった。

やれやれ、油断したなと、すぐにお茶に換えてもらったが、
あれほどアルコールの匂いに敏感になっていたのに、
口に入るまで気づかなかった。

いわゆるこの業界でいうスリップではなく、口を付けた
だけの事故なので、チュリップと名付けることにした。

しかし、それを何とも思わない自分に驚きもした。
以前なら、事故とはいえ、たった一滴でも口にしたなら、
結構そのことを引きずっていたものだが、
その時点であっさり事故と気持ちの上で整理を
つけられている自分がいた。

同時に、何年やめていようと、飲むとなれば何の抵抗もなく
身体は受け付けるものだということを改めて感じた。

この6月にマル8年となるが、短いようで、確かに長い間に
渡って積み上げてきたものが、自身のうちにあることを
実感できたと思う。

何もかも投げ捨てて、命をも失う覚悟で飲みたいと思う
苦しい、苦しい局面も多くあった。そんな時、どうせ
飲めば終わるのなら、飲まずに消えてしまおうと思った
こともあった。

その都度、どうせいつかは死ぬのだから、許された時間を
精一杯で生きるしかないと原点の原点に立ち返り、
喘ぎながらも乗り越えてきた。

それはこれからも変わらない。
たった一滴のお酒にこだわることが断酒の要である。
だが、たった一滴に囚われてしまっては前へ進めない。

我ながら、タフになったものだと、感心したのである。



致命傷

2013年04月16日 | ノンジャンル
この季節、普通の人でもおかしくなりがちな時期だけに、
毎年のことながら不可解な事件が多い。

誰もが春の始動の時に、また一年を自分なりに頑張ろうと
前を向く時期でもあるのだろうが、それとは裏腹に、
妙に落ち着かない、不安定さを感じる時期でもある。

思うに、事故などで負った傷は目に見えるので、
致命的かどうかはすぐにわかる。

手の施しようのない傷に対して、人は無力だ。
心の傷も同じかもしれない。

人との関わりの中で癒され、治る傷もあれば、
もうどうにも手の施しようのない傷も
あるのかもしれない。
目には見えない分、その深さも計り知れないし、
その本人自身がそれに気づいているのかどうかも
確かではない。

その深い傷を抱えながら、残されたわずかな時を
痛みに耐えて過ごすのは、どれほどの苦しみか
わからないし、命が消えそうなその時に、頑張れと
励ますのも酷な話なのである。

できることは、本当の意味で分からないまでも
その痛みを察すること。そして、苦痛の嘆きを
黙って聞いてやることくらいしかないのかもしれない。

振り返れば、少しは聞いてやれたのかもしれないとも
思うが、もう少し聞いてやればよかったとも思う。

生と死は一体であると信じる以上、死という形が、
新たな生への不可欠な条件となることもあると思う。

ただし、それでもやはりそれは、「死にたい」ではなく、
「生きたい」でなければならないと思うのである。

桜の散った後の、新緑がやけにまぶしい。





背広

2013年04月02日 | ノンジャンル
長男の大学入学式も近い。

「入学宣誓式」だそうな。

晴れて大学生となるに際して、それなりの自覚と
決意で入学をするという趣旨ならいいだろう。

理工学部は、女子が少ないとぼやいていたが、
実は、他のどの学部よりもモテるのが、
理工学部である。

女子にせよ、企業にせよ、モテることは
悪い事ではない。

この四年、自らの可能性を大いに開く期間で
あってほしいと思う。

背広という言葉も聞かなくなったが、スーツは
男にとってはひとつの憧れである。

私も息子ぐらいの年頃には、スーツというか
ネクタイ姿に憧れたものだ。

いまだに、キリッとネクタイを締めると、心も身体も
仕事モードというか、戦闘モードに切り換わる。
いい意味での緊張感である。

学生とはいえ、その緊張感を持つことは
悪い事ではない。

スーツ姿の彼を見た時に、父親として何を
感じるのだろうか。

なんとなく、楽しみなのである。