私自身は、断酒会、AAなど自助グループには
所属していない。
これは私自身の事情であって、自助グループを
否定するものではない。
むしろ、他人には事情が許せば極力自助グループへの
参加を勧めてもいる。
事実として、参加する、つまり同じ仲間のうちで、
断酒を継続できている人がほとんどである。
組織というのは、どんなものであれ、人の集まりで
あることに変わりはない。
人の心自体が頼りないものであるからこそ、
その集まりにおいては常に原点ともいうべきことを
確認し、節目ごとに回帰していくことが肝要である。
断酒会は体験に始まり、体験に終わるという。
赤裸々なその人の真実を語り、それを聴き、
互いに糧として与え、与えられる場が例会である。
諸々の行事やイベントなどは、いわゆる発展系であって、
それが主となってしまえば本末転倒の様相を呈する
ことになる。
いうなれば、お酒をやめたいけれどもやめられない人が、
仲間と共にお酒をやめていこうとする場が
自助グループであって、お酒をやめている人が集まる
グループではないということである。
ここを外してしまうと、最早その本来の使命をも
外してしまっていることになる。
今の、ありのままの自身を受け容れてもらえる
場であること、そして、そこから一歩前へ出ようと
するなら励ましにあふれていること。
いわば、そういう神聖的な場が、俗世間と同じように
体裁や利害に囚われるようになれば、それはもはや
結成時の組織とは異なる組織である。
会員数にしても、増えることがそれだけ立ち直る人の
増加を意味するなら喜ばしいし、逆に減ることが
この病気の認知度が高くなって、罹患数が減ってきたと
いうことならば、これまた喜ばしい事なのである。
生活の糧を得る仕事場ならともかく、自助グループ
という場で体裁を繕い、無理な我慢をし、嘘まで
つかねばならないなら、そんな場は離れた方が良い。
それらを全部ひっくるめて、尚、自身に得るものが
あると信じるなら留まるもよいだろう。
素直であること、正直であること、ありのままの
自身であること。それができる場というものは、
本人がその場にいて、最も自由な解放感を得られる
ものなのである。
自分の気持ちには嘘はつけない。
だからこそ、「仕方がない」で流されないために、
原点回帰という確認が、何度も何度も必要であり、
何にもまして、自分自身にとって不可欠なことなのである。
所属していない。
これは私自身の事情であって、自助グループを
否定するものではない。
むしろ、他人には事情が許せば極力自助グループへの
参加を勧めてもいる。
事実として、参加する、つまり同じ仲間のうちで、
断酒を継続できている人がほとんどである。
組織というのは、どんなものであれ、人の集まりで
あることに変わりはない。
人の心自体が頼りないものであるからこそ、
その集まりにおいては常に原点ともいうべきことを
確認し、節目ごとに回帰していくことが肝要である。
断酒会は体験に始まり、体験に終わるという。
赤裸々なその人の真実を語り、それを聴き、
互いに糧として与え、与えられる場が例会である。
諸々の行事やイベントなどは、いわゆる発展系であって、
それが主となってしまえば本末転倒の様相を呈する
ことになる。
いうなれば、お酒をやめたいけれどもやめられない人が、
仲間と共にお酒をやめていこうとする場が
自助グループであって、お酒をやめている人が集まる
グループではないということである。
ここを外してしまうと、最早その本来の使命をも
外してしまっていることになる。
今の、ありのままの自身を受け容れてもらえる
場であること、そして、そこから一歩前へ出ようと
するなら励ましにあふれていること。
いわば、そういう神聖的な場が、俗世間と同じように
体裁や利害に囚われるようになれば、それはもはや
結成時の組織とは異なる組織である。
会員数にしても、増えることがそれだけ立ち直る人の
増加を意味するなら喜ばしいし、逆に減ることが
この病気の認知度が高くなって、罹患数が減ってきたと
いうことならば、これまた喜ばしい事なのである。
生活の糧を得る仕事場ならともかく、自助グループ
という場で体裁を繕い、無理な我慢をし、嘘まで
つかねばならないなら、そんな場は離れた方が良い。
それらを全部ひっくるめて、尚、自身に得るものが
あると信じるなら留まるもよいだろう。
素直であること、正直であること、ありのままの
自身であること。それができる場というものは、
本人がその場にいて、最も自由な解放感を得られる
ものなのである。
自分の気持ちには嘘はつけない。
だからこそ、「仕方がない」で流されないために、
原点回帰という確認が、何度も何度も必要であり、
何にもまして、自分自身にとって不可欠なことなのである。