ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

大三角

2011年11月27日 | ノンジャンル
ギリシャ神話には興味があって、昔、いろいろな物語を
読んだ記憶があるが、星座というのは、どうしてもその名前の
ようには見えなくて、知識もあまりない。

それでも、初夏の長崎で見上げた北斗七星は強烈な
印象となって記憶に残っている。

このところ、空気が澄んで、星のきらめきが眩しい。
何気なく見上げた空に、宵の明星と木星がひときわ大きく輝く。

都会では珍しく、深夜の南天にくっきりとオリオン座が
見て取れる。

あきれるほど大きく輝くシリウス。
その輝きに目を奪われると同時に、真上のベテルギウスと
左上のプロキオンとを結ぶ正三角形に非常な美しさを感じた。

天空に浮かぶ冬の大三角。

この年になって、なにやら星空に初めてのような大きな
感動を覚えたのである。

悠久なる時の流れの中で、何千年も昔の人も、今の私も、
同じこの大三角を見ているのだと思うと、思わず熱いものが
心にあふれる。

私は今を生きているが、今だけの存在ではないようにも
思えるのである。






対人恐怖

2011年11月24日 | ノンジャンル
ある方にメッセージを頂いて、それが昔の飲んだくれていた
自分自身を振り返る契機となった。

他人と接するとき、少なくとも対等、あるいは上位の立場に
自分を置こうとするのは、いわば自身の臆病さに
起因することが多いのではないか。

私の場合はそうであったように思える。

無理もない。 飲んでいては、何一つ己のやるべきことが
できない。 自分に自信を持ちようがない。
そんな、自分をどうしようもない中で周りにその一番痛い
ところをつつかれるのは耐え難い。

それが、私の対人恐怖であったかもしれない。
心の中で相手を見下し、軽蔑することで自身を支えて
いたのだろう。
自分が向上しないのだから、それしか方法が
なかったのである。

今は、少なくとも自分自身が納得できるようにということを
第一としている。 誰が何と言おうが、私自身が正直に自分と
向き合った時に、できることを精一杯という、「私なり」を
納得できればそれでいいと思っている。

誰と比較する必要もなければ、誰を見上げる必要も、
見下げる必要もない。

但し、私が最も恐れたのが、私という存在が、家族の
負い目となってしまうことであった。
これは、私個人の問題ではなくなってしまう。

一家の主として、父親として、あるいは一人の人間として。
最も守りたいはずの家族の、負い目の存在となってしまう
ことだけは、どうしても耐えられない。

私の断酒継続の原点は、この一点に尽きる。
もちろん、断酒の契機となったことを風化させないために
通院もし、例会にも時間が許せば出席し、こうして考えを
書面に整理するということもしている。

だが、自身の原点というものは、突き詰めれば
そういうことなのである。

家族も身寄りもいない、自分ひとりであったなら、
果たして断酒など決意したかどうかさえ分からない。

人は人に傷つけられ、人に癒され、人に励まされ、
人に勇気づけられる。
人は、人の中でしか生きられないというよりも、
むしろ人の中で生きていくべきであると思うのである。




CANということ

2011年11月18日 | ノンジャンル
英語でCANとは、「できる」ということを意味するが、
これは能力的な意味だけではない。

「し得る可能性がある」という意味も持つ。

仕事であれ、なんであれ、私の嫌いな言葉が、

「知らない」、「わからない」、「できない」、である。

無論、現時点に特定すればそうしたことは多いであろうし、
ハッキリと言うべき場合もあるであろう。

だが、知らないで済ませ、わからないで済ませ、
できないで済ませ、はたまた仕方がないで済ませることは
自分自身、良しとはしない。

いうなれば、今は知らない、今はわからない、今はできない、
ならば、そこにはCANのいま一つの意味である可能性が
含まれている。

そして、その可能性を開こうとするなら、必ずそこに
苦闘がある。
これを避けて済ませることが最も嫌いなのである。
そこには必ず愚痴が付きまとう。

わかるようになろう、できるようになろうという意志は、
それに伴う苦闘を覚悟した意志である。

米国大統領の、YES, WE CANという言葉は、
いわば、YES,WE WILLということなのである。

人は、困難に立ち向かう意志を喪失した時に、
自らの可能性をも閉ざしてしまうのである。




日々の軌跡

2011年11月18日 | ノンジャンル
「記憶の跡」に続き、このブログの記事を一年ごとにまとめた
「ALQUIT DAYS 日々の軌跡」を電子書籍化した。

2005年の断酒開始後、体験をその年の末にかけて
まとめたのが 「記憶の跡」。

雑感として、断酒の日々をブログ上で綴り始めたのが
2006年。

今回は2006年から2010年までの5年を
5冊にまとめた。

なんのことはない、このブログの過去記事をまとめただけの
話であるが、ひとつの整理としては満足している。

一応、この場をお借りして紹介だけさせて頂く。


「ALQUIT DAYS 日々の軌跡 (1)」




「ALQUIT DAYS 日々の軌跡 (2)」




「ALQUIT DAYS 日々の軌跡 (3)」




「ALQUIT DAYS 日々の軌跡 (4)」




「ALQUIT DAYS 日々の軌跡 (5)」






大学祭

2011年11月14日 | ノンジャンル
日曜日に、娘の通う大学の学祭へと出かけた。

学祭など、もう何年振りだろうか。
自身の出身大学の学祭には、卒業後も何度か足を運んだが、
もうかれこれ20年以上も前になる。

娘はダンス部に所属しており、特設ステージでの
発表であった。

彼女の本格的に踊る姿を見るのも久し振りだった。

親の欲目ではあるが、1回生ながらセンターで踊る
彼女の輝く姿に昔を思い出した。

小学生の頃、運動会でソーランを踊る演目があった。
この時も、最前列のセンターで彼女は踊っていた。

女の子らしいことよりも、ともかく身体を動かすことが
大好きな彼女の踊りは、音楽のリズムに合わせる
というより、身体の奥のリズムが、音楽と同期する
といった印象で、本当に感動した覚えがある。

その時とまるで変わらない姿に、感動を新たにした。

猛練習もしたであろう。様々な課題や、苦労もあったに
違いない。
ステージ横で出番を待つメンバーには緊張感が溢れている。
無論、彼女もそのうちの一人である。

だが、ステージに立ち、音楽が流れだすと、見た目にも
明らかだったその緊張の姿が一変する。
踊るのが楽しくて仕方がないといった心の底からの
喜びが、表情にも、動きにも鮮やかに表れる。

ああ、あの頃と少しも変わっていないと、なんだか
胸が熱くなった。

本当にいいものを見せてもらったと感謝している。

そして、私自身、また日々新たに精進していかねば
という奮起の契機にもなった。

穏やかな、そして何かしら満たされたような、そんな
充実した気分の日曜日となった。