ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

リセット

2008年01月30日 | ノンジャンル
物事が複雑に絡み合ったり、混沌とした状況になったときに、
一発で白紙に戻せる、リセットボタンがあったらと思うことがある。

卑近な例で言えば、PCや、ゲームなどのリセットは、システムを
新たに復帰し、再構築が行える点で、便利であり、羨ましく
思うことさえある。

ところが、これはリセットしなければならなくなった状況や過程を、
我々が認識していて、その上でリセットするから、便利に思える
だけであって、実は機械自体は初期化されれば、それまでの経験値
とも言えるデータは、バックアップが無ければ全て失われてしまう。
完全な白紙に戻るということである。

人として生きている以上、時を元に戻してやり直したいとか、
リセットしたいとか、削除したいとか思うことは数多くあるだろう
けれど、要するに、都合の悪い、あるいは悪いと思っているものを
リセット、削除したいのである。

ただ、経験値として考えれば、都合の悪いものも、実は良いもので
あったり、良い経験と思っているものも、後にまるで必要の無い
ものに思えたりと、その判断は時間と共に変遷するから
厄介であろう。

良きにつけ、悪しきにつけ、経験というものはその捉え方で、
将来の糧になったり、前進を妨げる足かせとなったりする。

リセットは、そうした善悪共々の経験の積み重ねを白紙に戻す
ことであり、もしそれが可能であったとしても、これほど
もったいないことは無いのではないか。

どれほど苦しく辛い経験であろうと、必要の無いものに思える
ものであろうと、自身が積み上げてきた経験であるなら、
全て自分自身の糧として、生かしていければ良いと考えている。

お酒で自分を害し、周りを害し、できるものなら消してしまいたい
経験や過去も、断酒というリセットをして、つまり、お酒を飲む
ことを白紙にして、飲まない生活を積み上げていく為の糧と
すれば良い。

経験を白紙にしてしまえば、生きる軌跡は描けない。
経験を積み重ね続けていく中で、初めて軌跡が描けるのである。
自身の後ろに繋がる軌跡を糧として、新たな軌跡を描くと共に、
その新たな軌跡をもまた糧としていくのである。

我々にとって、断酒というリセットは削除ではない。
再生への仕切り直しということなのである。
その仕切り直しの時には、もちろん自身の描いてきた軌跡を
苦しくとも振り返らねばならない。
そして、描くべき軌跡を心に決めながら、歩いて行こうではないか。



新たな経験

2008年01月28日 | ノンジャンル
断酒後初めての慰安旅行。しかも海外とあって、少々気が
重かったが、避けていても始まらないと、気持ちを引き締めて
参加した。

到着後、家族に頼まれていたお土産を早々に買い揃えて、
準備万端。 
リラックスして過ごそうと考えていたが、宴会、二次会と、
飲んで騒ぐのが目的のような場ではリラックスどころではなく、
ひたすら話す事と食べる事に専念していた。
祝辞としての乾杯、親睦を深める杯のやり取り、注ぎ注がれの
宴席は、飲まない私にとっては、非常に辛い場となった。

勧める、受ける、返杯するの繰り返しのなかで、飲まないことが
まるで礼儀知らずのような雰囲気のなか、自分はお茶を飲みながら、
お酒を注いでまわることで、何とか切り抜ける場面もあった。

機内で一杯、ホテルに着いて一杯、宴会で盛り上がり、二次会、
三次会へとハシゴしていくのが常であった自分が、
一滴も飲まないでそういう場をやり過ごしているのが、
なんとも不思議な気がした。

淋しい場面、辛い場面、情けない場面、虚しい場面が多かった
夜ではあったが、一晩目を乗り切ったことで安堵し、ゆっくり
寝ようと思っていたのだが、これは見事に打ち崩された。

相部屋の御仁は、高いびきというよりも、まるで猛獣の雄叫びの
ようないびきで、私を眠らせない。
うつらうつらするといびきで起こされるという繰り返しの中、
一睡も出来ずに朝を迎えた。

二日目は朝から出掛けて朝食をとり、関係会社工場を訪問、
スタッフとの昼食会となったが、現場の人たちとの食事は
楽しかった。
大勢で食事を共にして、食べる、話すという事を中心に過ごす
一時が、これほど楽しいとは、今までの会社の旅行では
思わなかったであろう。

夕食も同じことで、食べる、話すを中心に、大満足の時間を
過ごし、二次会も歌って踊ってと、少々疲れは見えたものの
興の醒めることはなかったように思える。
宴席の場を飲まずに乗り切るというよりは、飲まないなりに
楽しむことが出来た。

とはいえ、周りを酔客に取り囲まれ、目の前にはお酒がずらりと
並び、アルコールのグラスが所狭しと林立している中で、
一番気をつけないといけないのが誤飲である。
席を立った後などは、必ずグラスの中身を確認するように
していた。

気持ちの上では、ぐらつく瞬間というものもあった。
やはり、危険な酒席に出ざるを得ない場合は、まず、
何があっても飲まないと決めてしまうことである。
飲めば死ぬと思い切ってしまえば、どんな状況でも飲まずに済む。

危険な二晩を乗り越えてしまえば、もう後は楽なものだと
高を括っていた私だが、一つ忘れていた。例のいびきである。
初日はまだ元気があるので、まいったなぐらいであったが、
二夜連続となると疲れも出てきたところにかなりきつい。
再びの雄叫びのようないびきに、耳栓も何の用もなさず、
悪夢のような一晩を過ごした。

前日、かなり食欲旺盛であった私も、この朝はさすがにグロッキー
となり、食欲は無かった。
現地の人の案内で、龍頭山へと登り、その後商店をぶらついたが、
息切れを感じている自分に驚いた。
それでも、昼食はしっかり食べたので、何とか帰国まで
持ちこたえたようである。

家に着くとどっと疲れが出たが、お土産を喜ぶ家族の姿に
ホッとした。
家族のもとに帰り着くと、本当に普段となにも変わらぬ夜となる。
ああ、ここが自分の帰って来る場所なんだと、安堵の気持ちと
ともに改めて感じた。

断酒を継続していくものにとっては、酒席は避けられる
ものなら、避けた方が良い。
どうしても避けられないときは、その場に身を置く前の一瞬に、
飲まないと腹を決めてしまうことである。
気持ちの上では、死ぬも一瞬、生きるも一瞬という、大袈裟な
くらいな覚悟で、飲むも一瞬、飲まないも一瞬と同様に捉えて、
死なない、飲まない決意を固める事である。

普段からこの感覚では疲れてしまうが、ここという時には、
これくらいの力技がないと乗り切るのは難しい。
力と気合の入れどころをきっちり押えることが出来るように
なるには、やはり危険ではあってもそれなりの場数を踏まないと
いけないようである。

これで、一通りのパターンは経験した事になると思われるが、
まだまだ未経験の場もあるのは間違いない。
やはり、一日、一日ということに尽きるのである。


そのとき

2008年01月24日 | ノンジャンル
この冬一番の冷え込みとなった今日、朝から冷たい雨で身震いする
ほどだったが、電車を待つあいだ空を眺めていると、どうも雨の
落ちるのが遅い気がした。
雨粒の一つ一つが見えるようで、不思議に思っていると、
やがてひらひらと舞い始めた。
ちょうど雨が雪に変わる時だったのだろう。

雨が雪に変わる瞬間を見たのは初めてかもしれない。
ただ規則的に落下運動をしている雨を眺めると無機的だが、
雪に変わって舞うところを見た瞬間は、まるで生命の誕生の
ような不思議な感覚に包まれた。

それはまるで、物質に息吹が生じて舞うような、そんな瞬間の
変化を目撃した様であった。
何かが変わるときとは、そういうものかもしれない。
むしろその瞬間瞬間に絶えず変化しているという事だ。

変化の前後を理解する人間だけが、「そのとき」を意識するの
だろうが、実は変化というものは雲の流れのように絶えず
起こっている。
ある程度の相違がハッキリしたところで、初めて人間が
意識できるだけの話である。
何一つ、今の状態のままで存在するものは無い。

であれば、変わろう、変えようと思うなら、その瞬間が
「そのとき」なのである。
思ったときに、行動できるかどうかが大きな鍵ではあるが、
実は思ったときに既に変化は始まっている。
行動によって、その変化を早く具体化するかどうかなのである。

時に人は、あれこれと思い悩み、考えるよりも、具体的に動く事で
新たな道を切り拓いていけるものである。
いま自分に求められているのも、そういうことかもしれないと
考えている。
いや、正確には、考えているのではなく、具体的に
動きつつある。

誕生日に初雪。決断と行動をするには、出来すぎの舞台設定
ではないか。

絶え間ない変化、決断、行動、動きを開始した時の周りへの影響、
その余波などなど、多くの予感がめまぐるしく駆け回った
一日であった。



困難と喜び

2008年01月23日 | ノンジャンル
安定した収入があり、生活に不安もなく、穏やかに日々を
暮らせていけば、これほどの幸せはないと思い、またその
穏やかな日々に感謝もするのだが、どうやら人間というものは、
それで満足できるほど欲の浅いものではないらしい。

その穏やかな日々に喜びや楽しみがなければ、ついつい
平々凡々な退屈さに飽き飽きし、不満が感謝を上回ってしまう。

ふと考えたのだが、楽しむことを目的とした娯楽やゲームは、
常にレベルアップしていく仕組みをとっている。
簡単なレベルをクリアして、それで満足する人はいない。
更に難度の高いものに挑戦して、それをクリアするために
あらゆる努力をし、クリア出来た時により大きな喜びと楽しみと
達成感を満喫する。

そしてまた更に難しいものへと挑戦していこうとする。
このことから見れば、人間というものは本然的に、困難を求め、
それを乗り越えていくことで楽しみ、喜び、幸せを感じていく
ものなのであろう。

常に前に進もうとし、高みに上がろうとし、自身の向上を
目指していくのであるが、そこに何の障害もなく、すんなりと
進めたとしたら、その喜びは半減してしまう。

進む目の前に立ちはだかる壁や障害が大きければ大きいほど、
乗り越えたときの喜びも大きくなる。
つまり、苦労や困難というものはむしろ人の喜びや幸せに
とっては不可欠なものであり、仮にそれがない順風満帆な
人生というものは、誠につまらないものといえる。

困難や障害が多いほど、それを乗り越えた時の喜びも多い
ということである。
立ちはだかるものに対しては、むしろ喜んで立ち向かい、
自身を更に成長させ、幸せを感じさせてくれるものとして
感謝しつつ乗り越えていけばよい。

避けることは容易いが、ゲームなら全然前に進まない
ことになる。面白くもなんともないのである。
次はどんな障害がやってくるのかと、わくわくしながら
生きていければ、これほどの幸せはないであろう。

苦難と安楽、悲しみと喜び、障害と歓喜、不運と幸運は、
対極的なものではなく、まさに表裏一体の
ものではないかと思うのである。



心の眼

2008年01月22日 | ノンジャンル
前回の記事は、実は子供達のことを書こうと思っていたのだが、
概論的な内容になってしまった。

その人その人の個性や、感性というものは、幼い頃に皆が
集まって、同じことをする中で非常に良く見えるものである。

紙飛行機を折って飛ばすという事を幼稚園でしていた事がある。
折り方は教わった同じ方法である。
左右対称に折り目正しく、時間をかけて寸分のずれも無いように
きっちりと折る子もいれば、適当に折って、すぐに飛ばしたがる
子もいたりと、同じ事をしてもそれぞれまるで違うことが
面白く、感心しながら見ていた。

動物園に遠足にいったときの事を描いた絵が貼り出されていた。
絵というものはその子の感性が最も顕著に現れる。
同じものを見ても、感じ方はそれぞれであり、強く触れた
心の琴線も様々である。
絵を見ると、一人一人の子供の、そのときの感動が伝わってくる。

「楽しい」、「すごい」、「大きい」、「恐い」、「可愛い」、
「面白い」などなど、その素直な表現に、自分の賢しい心の
汚れを写し出されるようであった。

ものづくりもそうである。それなりにきちんと計算されたような
完成度の高い作品もあれば、柔らかな印象を持つもの、
不恰好だけれど、おかし味のある作品、一見乱雑に見えて、
しっかりとバランスの取れているものなど、本当に様々であった。

娘にしても息子にしても、本当にそれぞれの個性と感性を
しっかりと認めることが出来るのだが、これからますます
成長していく二人に、どうかそのもって生まれたものを大切に、
健全な方向へと伸ばしていって欲しいと願うのである。

わが子であればこそ、そういう見方も、認めるという事も
できるのだが、なかなか他人をその人のまま、寛大な心で
受け容れて認めるという事は難しい。

ついつい、比較して、自分より上か下かという、下卑た判別を
してしまう。
自分が生まれ育った競争社会の弊害は確かにあるだろうが、
社会のせいにするつもりは毛頭ない。

願わくは、これからも自分の感受性を守りながら、
あの子供たちを見ていた眼で人を見て、人をそのまま受け容れて
いけたらと思うのである。