ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

向かう先

2016年10月31日 | ノンジャンル
ひとたびこの世に生まれ落ちれば、それは直ちに
死への旅となる。

死ぬことは決定しているのだからと、生を蔑ろに
するのか、限られた時間であるからこそと
生を輝かせようとするのか。

これまで繰り返し述べてきたが、それはその人の
生き方なのである。

病と老いというものは、衰えというマイナスイメージが
付きまとうが、病と老いによって初めて見えてくる、
わかってくることの方が多い。

それがその人の豊かさとなることを思えば、病も老いも
生を輝かせるプラスと転じることができる。

むしろ、健常の驕り、若さの驕りがなんと恥ずかしい
ことだったかと否が応でも気づかされるのだ。

いわんや、苦しむものを見下し、弱きものを見捨てるなど
生き方を問う人としての尊厳の放棄であろう。

人は人によって育まれ、傷つき、そして救われる。

自身が苦しむ時に、どれほどの人が寄り添ってくれるのか、
それが、その人の生き方の現れでもある。





幸せの秘訣

2016年10月29日 | ノンジャンル
常に学ぶ好奇心を持つか、すべて解ったと慢心するか。

変化を恐れるか、挑戦の勇気を失わないか。

人の幸せを願うか、人を蹴り落とすか。

自身の考えを語るか、他人のことを語るか。

人を恨むのか、人を赦すのか。

自身の過ちに責任を持つか、人の過ちを責めるのか。

生きる為に仕事をするのか、人の為に仕事をするのか。

過去を踏みしめて一歩前へ出るか、
過去を引きずって進めずにいるか。

これは生き方そのものだろう。

全部は無理でも、半分くらいは幸せな方を
実践できるかもしれない。

いわゆるトントンか、少し幸せといったところか。





民衆主義

2016年10月27日 | ノンジャンル
基本的に現代社会のほとんどは民主主義で
成り立っている。

いわゆる、多数決社会である。

より多くの大衆の支持を得たものが、社会の行政を
任されるということだ。

そこには共通の認識、判断、決定が大多数の支持の
もとに繰り返されるのだから、より良い方向に変化して
いってしかるべきだが、各国の社会状況を見れば、
自ずとその限界が知れる。

それは数による圧政に等しい、いわば民衆、
大衆主義であって、一人に焦点を当てた民主主義の
根本原則とは異なるからである。

100人いれば、大抵二つに意見が分かれ、その主要な
対立意見にばかり焦点がおかれ、少数派の意見は
無視されるか、排除される。

人間も多種多様で、100人いればいわゆる出来損ないも
数人は出る。
それを初めから踏まえた上での社会構成が民主主義
であり、それを排除して、スッキリと黒白に分け、
対決の構図で過半数の支持獲得、つまり多数派に
身を置くことに躍起となるのは、もはや民主主義
ではない。

巷で話題のヘイトスピーチなど、民族主義的なデモは
大きく取り上げられるが、こんな単純で分かりやすい
ことは問題でも何でもない。

実は、一般的に良識ある市民、国民として認められて
いるものが、いわゆる少数派に無関心で、常に多数派に
所属しているかどうかの基準で自身を縛ることの方が
はるかに大きな問題である。

ナチスのホロコーストは、ヒトラーが一人でやったもの
ではない。
民主主義を謳うワイマール憲法が施工されたのちに、
こうした大虐殺が現実となった背景には、民主主義でも
なく民族主義でもなく、民衆主義あるいは大衆主義と
いった多数派に所属できなくなる恐怖があったのである。

善良と誰もが認める一小市民の、多数派への依存と迎合が、
最も残虐で非道な悲劇を創りだしたといってよい。

自らの思考で認識し、判断し、行動していくものが、
少数派であるからといって排除されるなら、それを
民主主義社会と呼ぶなど笑止である。

これほど便利な世の中になってきたにもかかわらず、
人々の時間的・精神的豊かさが矮小化し続けているのは
どうしたことか。

物質的豊かさが幸福と直結しているわけではないという
認識はもはや観念的な領域に追いやられ、相変わらず
物質の豊かさを求め、それに縛られながら、少しも
幸福を感じられない。

そろそろ、経済大国・精神貧国の矛盾に気がついても
良いのではないか。





幾知可比

2016年10月24日 | ノンジャンル
この言葉が放送禁止用語になったのはいつの頃だったか。

子供時代は、日常でもテレビでも普通に使われていたと思う。

テレビで最後に聞いたのは、塩爺が、騒音おばさんのことを
淡々と、「これはもうXXXXですね」と評していた時である。

物狂いという意味もあれば、乱心という意味もあって、
肯定的、否定的両面の用法があるので、誤解を招きやすい。

とはいえ、釣りバカは良くて、釣りキチは良くないのか。
よくわからない。

今ではメンタル系の研究が進んで、多種多様な病名が出てきたが、
昔はこの一言で終わりだった。

共通しているのは、直接的であれ間接的であれ、周りを
巻き込んで自分と同じようなメンタル系に引きずり込む
ことである。

普通の病気で言えば、感染症とでもいうべきか。

何が言いたいかというと、メンタル系の症状のある人は、
その周りの人を巻き込んでいくが、実は自分自身が
もっとも巻き込まれやすい体質だということを
あまり自覚していない。

回復過程において病識が重要なことは無論だが、
実は、自分自身が巻き込まれやすいのだということを
しっかりと認識する方がはるかに重要である。

つまり、周りを巻き込み、周りに巻き込まれることこそ、
本人と周りの回復を最も妨げる状況であるということを
当事者は知っておかねばならない。

それは負のスパイラルどころか、幾知可比の渦に
自ら身を投じるようなものなのである。





眩しさ

2016年10月22日 | ノンジャンル
夏の陽射しが一刀両断なら、この季節、傾いてきた
陽射しは袈裟切りといったところか。

陽射しを眩しく感じるのは、むしろこの季節かもしれない。

それは、真上からの一閃ではなく、斜め上方からと
反射という切返しのせいでもある。

正から負への一方向ではなく、負から正へも含めて
両方向。 そしてその絶対値は変わらないのでダブルとなる。

このダブルを意識して、今年を締めくくりたい。