ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

起承転結

2013年07月16日 | ノンジャンル
断酒初期から、軌道に乗るまでには随分とお世話に
なった方々がいる。

いろいろと不安定な時期であることで、ご迷惑を
おかけした方もいた。

そんな方々に、励ましを頂くことは、いまだに
嬉しい事である。

むしろ、そういう人たちの笑顔を見たくて、
頑張っていた時期もあった。

院長先生とはもうお会いできないが、
「厳しい環境の中でよく頑張っている。」との言葉は
自身を支え続けている。

あれから8年、自分自身、どう変わったのか、
成長したのか、まるでわからない。
何も変わっていないのかもしれない。

実感として、明らかに変わったことといえば、
断酒は誰のためでもなく、自身のためということが
本当の意味で腹に坐ったということかもしれない。

困難な断酒を継続していること、それを周りに
認めてもらいたい。褒めてもらいたい。

その困難な状況にいる自分を支えてもらいたい、
励ましてもらいたい、協力してもらいたい。

家族のために頑張っているのだから、
もっと感謝してもらいたい。

どこかで、そういう思いに囚われていた時期が
確かにあった。
それは、自分が何か特別なことをしている、
特別な人間だという、滑稽な錯覚であったろう。

何のために飲まないかといえば、
それは生きるためである。
生きるということは、想いのままに行動することである。
それが自分のためであれ、人のためであれ、自身に
悔いのないものであればそれで良い。

他人のことをとやかく言う暇があれば、まず自ら動く。
逆に、他人にとやかく言われようと、自ら信ずる
行動であれば、それをやり切る。

生きるということと、生き切るということは違う。

あの時は、家族を守るために生きねばならなかった。
今は、自らの許された人生を生き切るのみである。

「起承転結」

社会人になって10年を節目としてみると、まさに
この10年は「転」であった。
これから、ひとめぐりの歳にむかう10年は「結」である。

この10年をひとつの仕上げとして、生き切るのみ。
その時、やっと何かが見えるだろうと思うのである。






人のため

2013年07月10日 | ノンジャンル
前回の記事とは真逆の内容になるが、人のため、
家族のため、社会のため、国のためと、ためため
喧しいのも選挙が近いせいもあるだろう。

選挙でなくとも、何かにつけてためためと連呼する
人は、個人的にはまるで信用していない。

親が子供のためを思うのは当然としても、
子供にためためを繰り返していれば、
子供は息が詰まってしまう。

「情けは人のためならず」

つまり巡り巡って、自分の利益になるという
この至言を考えればなるほどと思う。

ためため人に、なにがしかの打算が垣間見られるが
ゆえに、信用できないのだと納得できる。

私は子供達に向かって、「お前たちのために」と
言った記憶は一つもない。
自分がしてやりたいこと、できることをしてきた
だけである。

自分たちのために・・・と感じるのも子供達であり、
それが本当にためになったのかどうかも子供達が
判断することである。

何が言いたいかというと、人のためということは、
主体は人であり、自分ではない。

自分が主体であれば、それは打算であり、
つまりは自分のためなのである。

ただ、その「ため」が、共通の理想目的であるなら、
自分は人と同じであるから、共々に努力していく
ことになる。

自分のためであるのを、人のためと叫ぶから
おかしくなる。
自分のためでもあり、人のためでもある理想の
ためにこそ、叫ぶべきであろう。

そして、そういう人は、叫んでいる暇があれば
具体的に行動しているものなのである。



二三月

2013年07月01日 | ノンジャンル
「他人のことをとやかく言っているうちは、
 まだまだダメ。」

とは、亡き母親の箴言である。

人の目は外に向かっているだけに、他人の粗を
見ようとすれば、いくらでも目に入ってくる。

批判というものは、建設的なものであれば
共に成長の機会とすることができるが、
粗探しや、単に他人の過ちをあげつらうだけなら、
それは、他人に発していながら、その人のためではなく
自身のためなのである。

つまり、他人を下げることで、自身を上に置くという、
矮小な根性が露骨に見える。
「私はちがう。 そこまでひどくはない。」

こうして言葉にしてみると何とも陳腐な器であることが
わかろうものなのだが、見せかけの上から目線に
喜んでいる人は、それに気が付かない。

客観的に見て、確かにその人はひどいかもしれない、
バカな過ちを犯したかもしれない、まちがった
ものの考え方をしているかもしれない。

だが、結論的に言えば、自分自身の位置は
何も変わっていないのである。

上になったような錯覚と、見下す快感、いわゆる
くだらない優越感に浸っている自身が、一歩も成長できて
いないという現実に直面した時、どれほど恥ずかしい
思いをするのか。

これをもって、無智とも無恥ともいうのである。

少なくとも、その批判が建設的となる条件としては、
その対象の人物のことをどれほど思いやっているかによる。
関わることのない人のことを、とやかく言ったところで
詮のない事であるし、関わっている人のことなら、批判は
直截的に行えばよいし、それができないなら黙しておればよい。

いわゆる陰口というものは、結果として自身にもその人にも
何のプラスにもならない。

今月は旧暦では文月となる。

文月、二三月。二つの粗が見えたなら、三つの良いところを
発見しようと努める中に、自身の成長と、その人の成長の
機会が生まれることを銘記して、また新たな月をスタートしたい。