ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

ウサギとカメ

2018年09月30日 | ノンジャンル
童話には、様々な教訓や示唆があるが、
それをどう捉えるかも人それぞれである。

ウサギとカメでは、一般的には油断は禁物、
コツコツと地道な努力の積み重ねが大事
といったところだろう。

ウサギも相手がカメなので油断したのであり、
同じウサギ同士の競争なら、初めから
最後まで全力疾走だったろう。

油断を戒めることはできても、ウサギを
責められるほど、出来た人間ではない。

断酒というのは無論、カメの行き方で、
毎日コツコツと地道に飲まない日を
重ねていくしかない。

一年止めたから、1日くらい飲んでもいい
ということが出来ない。

つまり、ウサギの油断も行き方も出来ない
事になる。

しかし、生き方となれば、どちらでも良い。
倦まず弛まず、マイペースで毎日をしっかりと
重ねていくのも良し、集中的にエネルギーを
消耗して、充電時間をたっぷり取るのも
良しであろう。

コツコツの方が規則正しい生活で、
心身の健康には良いだろうが、
倦怠の傾向が顕著となる。

不規則で波乱に富んだ生活は体調に
良くないが、倦怠とは無縁である。

平凡と特別、あるいは波乱という事に
なるが、いずれであっても、その人の
生き方という点では良しという事だ。

過信と驕慢を廃し、波乱を生きる
というのが、今の私だろう。

油断せず、ともかくも今日を精一杯
という事だ。

勝敗はともかく、ウサギもカメも
ゴールはしたのである。
そこを見逃してはならない。





1400億年

2018年09月26日 | ノンジャンル
この宇宙の始まりは、138億年前、即ちビッグバン
とされている。

それ以降、膨張を続けているらしいが、ひとつの
区切り、つまりこの宇宙の終焉が、1400億年の
後らしい。

永遠の過去と、永遠の未来の悠久さの中に、
現在我々は生存しているわけである。

ある時は、単細胞であったかもしれない。
ある時は、名もない草や花だったかもしれない。
ある時は、この地上で蠢いていたかもしれない。
ある時は、大海で棲息していたかもしれない。
ある時は、星そのものであったかもしれない。

今初めて、人として生まれ、その悠久さを認識し、
自身を宇宙の一塵とも観れば、宇宙そのものとも
観ることができる。


つまり、自身をちっぽけな存在とも認識できれば、
この悠久を内に蔵した存在としても認識できる。

いずれの認識をもって今を生きるのか。

ましてや、我々は、認識するとともに、自身の
生き方を問える存在でもあるのだ。

問い続けるという事が、人が生きるという事
なのかもしれない。





主体

2018年09月25日 | ノンジャンル
「他人の事をとやかく言っているうちは、
 まだまだダメ」

亡くなった母親の至言である。
事実、彼女は他人の面倒をよく見るくせに、
あの人はどうだとかいう言葉を発することは
なかった。

二人称であれ、三人称であれ、あなたは、彼は、
彼女は、という言い方はないという事だ。

これは、いわゆるアメリカ的な発想で、その点で
言えば、母親の影響を色濃く受けた感がある。

例えば、他の人のことをわがままな人だと
思ったとする。

あなたはわがままだ。彼はわがままだ。
彼女はわがままだ。

日本の場合は、当事者と対面してハッキリものを
言う事は稀で、当事者がいないところで、
その当事者を評し、同じ評を持つ人が集まって、
当事者を「わがままな人」にしてしまう。

しかし、アメリカでは、主語はあくまでも
一人称である。
「あなたはわがままだと私は思う」

ここで重要なのは、「私は思う」であって、
あなたがわがままな人だとは断定していない
点である。

つまりその人そのものを、評するのではなく、
あるいは、評することができるほどその人を
よく知らないという前提で、部分的な面について
わがままだと「私は思う」のである。

周りの空気を察して、周りに合わせていくという
日本の察する文化に対し、言わねばわからない
文化においては、自己主張は不可欠である。

そこには、自身のみならず、他の人が主張する事を
自然に容認する土壌がある。
つまり、出る杭は打たれないのである。

自分を含め、他人を全体の一部として見るのか、
全体を構成している主体として見るのか。

母親は、私に、一部ではなく、主体として
生きる様にと、教えてくれていたのかもしれない。





中秋

2018年09月24日 | ノンジャンル
今日の休日出勤をもって、ひと段落となった。

今宵は十五夜、中秋の名月である。
とはいえ、満月は明日の午前中らしい。

あいにく薄曇りで、月を愛でる夜とはならない
かもしれない。

先週末、もう余命いくばくもない二人の見舞に
足を運んだが、せめて月を眺める穏やかなひと時ぞ
あれと願う。

不思議に、死期が近い人に触れると、自分までが
透明になるような気がする。

満月を見上げて、おばあちゃんが笑ってると
言った幼い頃の息子。

その透明さにどこか似通っている。

生への輝きが旭日であれば、
死への輝きは、月の輝きなのかもしれない。

私は、今日の見えない満月を心に、
明日という日を生きていく。





死闘

2018年09月22日 | ノンジャンル
台風以来、機能マヒとなっていた関西空港が
連絡道路を除いてほぼ全面復旧となった。

飛行機は人だけではなく、物流の要でもある。
特に緊急品の輸送が多く、それが遅れることは
致命的な事態となることも少なくない。

到着貨物の遅れ、輸送の問題、取引先の来日予定の
スケジュール変更と慌ただしい中、休日も返上し、
夜を徹してという事も多く、文字通り、
忙殺されてきた。

特に今週は、来客と出張とが重なり、来客の送迎や
会議、接待で深夜になったにも関わらず、再び会社に
戻って、夜明けまで仕事となった。

翌日の出張は余裕があったのだが、前日の会議で
持ち上がった案件の準備で、ぎりぎりまで会社で対応。
そのまま、出張と、まさしく分刻みの行動である。

出張先でも、一日の日程を終え、ホテルに戻れば、
第2ラウンドとなり、深夜まで続く。

今日になってやっと帰阪し、休息を少し
取れそうだが、連休とはできず、また休日出勤となる。

いつもこんな具合だと身体がもたないが、こういう
峠的な時期は年に何度かある。
大げさな話ではなく、この身にとってはまさしく
死闘なのである。

年齢でもなく、体力でもなく、ともかくもこの死闘に
身を投じる覚悟が持てるかどうかが、自身の
「生きる」のバロメーターでもあろう。

そして、その死闘において自分を褒めるのではなく、
俯瞰したときに、「よくやっている」と思えたなら、
それが満足というものなのである。

そういった満足を積み重ねていくことが、自ら決めた
自分なりの「生きる」なのである。