ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

怖い話

2009年09月29日 | ノンジャンル
もう夏も終わり、季節外れなのだが、昔テレビで誰かが
話していた怖い話を思い出した。
(稲川○二ではない。)

大学の友人が講義に姿を見せなくなったのを心配して、
彼の下宿を訪れると、部屋は薄暗く、湿っぽくて、
薄気味悪い雰囲気の中、彼はげっそりやつれて
万年床に横になっていた。

身体の具合が悪いのかと訊くと、別段、病気というわけでも
ないようだが、部屋を離れられずにいて、数日何も食べて
いないらしい。

何だ、だったら食べ物を買いに出て食べなきゃだめだ、
金がないなら少し貸してやると言う友人に、彼は、いや、
あいつが淋しがるから外へ出られないんだよと言う。

あいつ? 部屋には誰もいやしない。あいつって誰だ?
どこにいるんだ?いぶかしんで訊くと、彼は台所を
指差して、ほら、そこにいるじゃないかと、
力ない声でつぶやく。

台所を見ても誰もいない。
おい、大丈夫か、誰もいないだろ、しっかりしろよと
言っても、彼はただ、いるんだよと繰り返す。

台所へ行き、さあ、いったいどこにいるんだよと
訊くと、そら、そこにいるじゃないかと彼は冷蔵庫の
あたりを指差す。

冷蔵庫を見ると、確かになにやらそこにいるような
気配を感じて、壁と冷蔵庫の隙間を引き込まれるように
覗くと。。。 いる。

確かにそこに女がいる。
ありえない、こんな狭い隙間に。
だが確かに女がそこにいる。

えも言われぬ恐怖に襲われ、パニックとなって
彼の下宿を飛び出したというところまでは覚えているが、
その後どうなったかは知らない。

やくざなどまるで怖くないという豪胆な性格なのに、
幽霊と飛行機が怖いという、可愛らしさのある知り合いが
いるが、私は逆で、人間の方がよほど怖いと思っている。

幻覚が出ていた時は、隙間に女がいるどころの話ではない。
軍人が部屋の隅に立っていたし、カーテンレールの上に
忍者が横ばいになって手裏剣を投げてくるし、素浪人は
刀を振り下ろしてきた。

だが、それでも恐怖よりも、好奇心のほうが遥かに
勝っているのだろう。現実に見えているありえないことが
どうして起こっているのかということに神経は
集中していた。

幽霊に刺されて死んだという話は聞いたことがない。
幻覚に踊らされて、物を壊したり、おかしな行動を取るのは
自分であり、幻覚ではない。

幽霊であろうと幻覚であろうと、それ自体が何か物理的な
作用をするわけではないと頭から割り切っているので、
むしろ興味は、それが見えるシステムというか、本質的な
方向に自然に向かうようである。

情念的に言えば、そんな狭い隙間にいなくても、淋しいなら
彼のそばで、彼の生きる姿を見守ってやれと思うのだ。

人間も様々であるように、幽霊も様々であろうが、
死してなお、怨念から脱却できずに人を呪うなどという
その根性が許せない。

私が霊に会うことがあれば、何故会うことになったのか、
その背景や意味、その霊と私との関係を分析した上で、
もしもそこに狭小な逆恨みのようなものがあったとすれば、
私はその霊を断固として叱り飛ばしてやりたいと
思っている。

もちろん、私の反省を促すために現れたなら、謙虚に
反省し、頭を垂れて、同じ過ちを犯さないように
努力していくことを誓うであろう。

不謹慎かもしれないが、私は先祖を敬い、供養はするが、
崇拝はしていない。
先祖とて同じ人間であり、人として生きた以上、
神でも仏でもないと思っている。

供養と回向は、今の私に至る命の流れに対する敬虔な
感謝と、その流れを継承していく祈りなのである。



高齢化

2009年09月27日 | ノンジャンル
社会問題の高齢化とは少し趣旨が違うのだが、
アルコール依存症に罹患する患者のうち、60歳以上の
高齢者の割合がかなり増加しているらしい。
実に、新患の4人に1人以上が、高齢者とのことである。

全国の患者数は約80万人、予備軍を含めると440万人。
私が当初勉強した頃に比べて確実に増えている。

定年を迎え、仕事を離れた人達が、がらりと変わった
生活に喪失感を覚え、同時に拘束されることが
なくなった分、飲酒に走るケースがほとんどのようである。

家族も、勤め上げて定年となった主の飲酒を、労いの
意味で大目に見る傾向が強く、かえって発症を進めることと
なってしまうようである。

ただ、興味深いのは、その回復率も非常に高いそうである。
これは、仕事上の付き合いなどの飲酒機会が減ることと、
年齢相応の高い倫理規範によって、断酒継続を成功させる
ケースが多いからである。

亀の甲より年の功。伊達に経験をつんでいないことに
改めて敬意を表する。
ただ、仕事一筋で生きてきた人ほど、引退後の喪失感、
虚無感は大きいであろうから、第2の人生をいかに
生きていくかの計画を、定年、引退前に考えておくのが
好ましい。

今のところ私はというと、どういう形にせよ仕事をして
いたいと思っている。
のんびり趣味を楽しむ、悠々自適な生活というものに
あまり興味はない。

死ぬまで己を高めていく一生でありたいと望むのだが、
それなりの経験と余裕のある歳になったからこそ、
若い頃にはない感慨もあると思われるので、
旅には出たいと考えている。

その時には、隣にカミサンがいてくれたなら、
まず幸せであろうとも思うのである。



OS

2009年09月26日 | ノンジャンル
DOS 以降、初めて触れたのがウインドウズ3.1。
これはコンピューターが一般ユーザー対象となった
ハシリだったが、非常に扱い辛かった。
ファイル名ももちろん英数と限られた記号のみ。

WIN95が出て爆発的に普及し、ほぼ現在の原型と
なっている。

一人一台として社内に支給されたのはWIN98.
その後、WINミレニアム、2000、XP,
VISTAと更新されてきた。

今では最新でWIN7となるが、これはまだ未体験である。
ただ、ビジネス用として慣れ親しんできた構成から言うと、
XPくらいまでが使い勝手が良い。

現在のクライアント機もVISTAをXPに
ダウングレードして使用している。

オフィスも2007より以前の方が使い勝手が良かった。
新しくなることが即便利になることではないらしい。

OS、ソフトが更新される度にそれを使う側も
スキルアップなり、慣れるなりする必要がある。

一つ言えることは、人は新たなものを創り出していく
能力と共に、新たなものや状況に適応していく
能力があるということだ。

生物としての進化は終息した有機体ではあっても、
脳の進化はまだ無限の可能性がある。

急速にデジタル化が進み、今やコンピューター無しでは
社会生活自体考えられない時代となってきた。
であるからこそ、コンピューターの進化など
及びもしないものを各人が有していることを
自覚してもらいたいと思うのである。



八ッ場ダム

2009年09月25日 | ノンジャンル
あまり政治向きの話はしたくないのだが、
少しだけ触れたい事がある。八ッ場ダムの話である。

なぜ「八ッ場」と書いて、「やんば」なのか
よくわからないのだが、それはまた別の話。

このダムの計画当初は、私の生まれる以前である。
もともと地元では大反対であった計画も、
様々な紆余曲折を経て、着工、推進となっていたわけだが、
周知の通り民主党政権となった現在、中止が公然と
表明されている。

これを国家と建設地元民、支援自治体との契約と捉えれば、
国家はその契約責任を継続的に負うこととなる。
無論、契約を反故にするなら、それなりの補償を負うのは
当然である。
だが果して、補償なるものが可能なのだろうか。

人の半生にも及ぶ長い年月の中で、ようやく推進に
方向づけられたものをその初期段階ならともかく、
半ば以上進んだ位置から白紙に戻すというのは、
机上の計算で補償額をはじいたところで無意味である。

政権がどうであれ、国家の契約は責任をもって尊守するのが
国家としての義務である。
一会社が、社長が交代したからと言ってそれまでの契約を
反故にするのか。
ましてや、採算がとれないからと、一方的に契約を反故にし、
あまつさえその補償を満足にできないとすれば、
これは会社としては成り立たない。

最も大切な信用というものが損なわれたなら、個人も法人も、
国家も成り立たないのである。

さて、一方、政権交代という面だけに絞って考えれば、
旧与党に常に反対しながらも、抑えつけられてきたものが、
与党として政権を握れば当然ながら旧与党のしてきたことを
否定し、新たな政策を具体的に推し進めなければ、
政権交代を国民に実感させることはできない。

武力こそ介入しないものの、クーデターの様なものである。
つまり、政権交代というものを、国民に強烈に印象付ける
必要があり、そのためには旧政策を弾劾し、否定し、廃止し、
全く新たな政策を施行していかざるを得ないのである。

滑稽なのは、新政権の首脳達が、「さきがけ」の時代には、
ダム建設推進派であったことである。
公共事業には、国家にも、地元地域にも、周辺自治体にも
様々な利害の思惑が絡み合う。
公共事業絡みの不正支出、横領、賄賂、偽装、
使途不明金など、利害関係の犯罪は歴史上常に
ついてまわってきた。
事業費が桁違いなのである。何億単位などは歯牙にも
かけないほどに感覚がマヒさせられてしまう。

では、地元の民意はどうかということだが、群馬県の
5つの小選挙区において、3つまで民主党議員が当選。
残り2つの区で自民党議員が当選したものの、
民主党議員を抑えたのは元首相の当選した区だけである。
建設地となる区では自民党議員が当選したものの、
民主党議員は擁立されてもいなかった。

マニフェストには、ダム建設などの不用な公共事業は
中止と明確に表明されていたので、この結果を
どう見るかは微妙である。
そして、この微妙さが話をややこしくしている。

民意として、ダム建設を進めるべきだというなら、
建設地区だけでなく、5つの区全部が時代の潮流に
逆らってでも、自民党議員を当選させるべきでは
なかったか。
建設地区は明確に自民党議員支援の態度を表したが、
県民総意を見れば、建設中止の意志と判断されても
仕方がない。

公共事業の見直し、中止などによって見込める財源が
どれほどのものかという事は別にして、旧政権において
全ての政策が悪であったわけでもなければ、
新政権の全ての政策が善となるわけでもない。
戦後の極端な傾きを繰り返すこの国の体を見る限り、
どうも国家としてはまだまだ未成熟な気がしてならない。
表面はふらふらしているようで、どこか芯に一本筋金が
入っているという中庸ともいうべきものに欠けている
気がする。

いかなる政権においても事を為すのが人である以上、
一個人と同様に苦もあれば楽もあり、善もあれば悪もあり、
正もあれば負もあり、希望もあれば絶望もあり、
安穏もあれば苦難も苦痛もあるという事を当然のこと
として我々は承知しておかねばならない。

政治や社会というものを自分の外において、傍観している
ものが多ければ多いほど、国家と国民との距離は離れる。
つまり、国家としての体を損なうばかりなのである。



受験モード

2009年09月22日 | ノンジャンル
修学旅行も終わり、お彼岸のお墓参りも済ませ、いよいよ
本格的な受験モードに突入です。

10月に体育祭があって、これが本当に最後のイベントと
なるでしょうが、私も今後忙しくなることが見えているので、
この連休を好機として、息子と対策勉強です。

模擬試験をして、現状の学力把握を今日は行いました。
結果、志望校の合格率は五分五分のレベル。

彼の同学年の子供たちは、戌年です。
小学校の頃から、皆本当に素直で、何事にも
一生懸命でした。
子供らしい、可愛いらしい子達が多く、その分勉強も
できる子が他の学年に比べて格段に多いので、
受験も大変です。

独りで勉強することが苦手で、一緒に勉強することで、
成績が伸びるので、勉強しろと言う前に、時間を作ろうと
してきたのですが、思うようにいかなかった面もあります。

大事な時期ですので、極力付き合えるようにはしたいと
思います。

息子の受験が終われば、また今度は娘の大学受験。
ここ何年かは、気分的に落ち着きませんが、それも子供を
持つ身にとっては、至極あたりまえのことです。

あたりまえのことを、あたりまえにできる今の自分の
状況に感謝するべきなのでしょう。

飲んだ暮れていれば、そのあたりまえのことすらできずに、
できない自分を憐れんで、また飲む愚を繰り返していたに
違いありません。

親は一生、子供の応援団。できる応援をそれぞれが
すればよいと思っています。