ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

ねじれ

2020年01月30日 | ノンジャンル
会社のある人が、電話の受話器のケーブルがねじれる
原因を、得意げに話していた。

右利きの人が、右手で受話器を取り、メモなどを
するために受話器を左手に持ち替えた時に、
ねじれる。

そのまま、受話器を左手で戻せば、半回転
ねじれることになる。
それを繰り返していくうちに、ねじれは
ひどくなる。

この現象は、私には起こらない。
左利きの私は、左手で受話器を取り、
左手で戻すから、ねじれは起こらない。

箸と筆記は、右に矯正されたが、その他は
大体左である。
電卓も左打ちなので、仕事上は便利である。

さて、ねじれの原因を話していた人は右利きで、
自分の電話機において起こっているケーブルの
ねじれに対し、その原因を突き止めたのであろう。

自分と同じようにねじれの起こっている
人に対して、説明していたようだ。

原因がわかれば、対策や対処を講じるのが
普通であるが、その話していた人の電話は、
その後もねじれている。

つまり、原因を知って、なるほどと感心して
終わっているのである。

電話機をデスクの左側に置き、左手で受話器を
取るようにすれば解決するのだが、それをしない。
相変わらず無意識で右手で取り、持ち替えている。

こうしてみると、わかっちゃいるけどやめられない、
あるいは、ついしてしまう事というのは、
意外に多いのかもしれない。

習慣や癖を変えるというのは、結構難しい
ものなのである。





還暦

2020年01月24日 | ノンジャンル
若い頃の感覚で言えば、60代などというのは、
本当にお爺さんのイメージであった。

年齢と共に、60代以降の人達が随分若返ってきた
実感があったが、いざ自分がその年代に近づくと、
60代などまだまだ発展途上であることがわかる。

昔は、元服という、大人への覚悟の時期が
早かったせいもあるだろう。
50代60代と言えばかなりの円熟味が
出ていたはずだ。

今の50代、60代とは一世を隔する感がある。
それは自身に置き換えてみても実感する
ところである。

とまれ、ワンラウンド、ひと回りの節目に向けて、
3年という区切りに来た。
この3年こそが、新生への大きな布石となることは
間違いない。

願わくは、今一度夢中になれることを見つけるなり、
出会うなりしたいものである。

そこにこそ、節目を節目たらしめる鍵があるように
思えるからである。





新月

2020年01月20日 | ノンジャンル
母親が亡くなったのが20年前。

その頃はまだ普通に飲んでいた。

あまりに突然の死に、ぽっかりと胸に空いた穴を
埋めるかのように飲んでいた。

そして5年後に、私の断酒は始まった。
再生などというきれいなものではなく、
まだ死ねないという一点だった。

その時に、父親が言ってくれた言葉が、
私の死ねないに呼応して刻まれた。

その一杯を口にまで持ってきた時に、
子供たちの顔を思い出せと。

それから14年、きちんと覚悟を持たせた上で
父親は逝った。

そこに母親の時のような空虚感はなかった。

飲まないことが、最高の供養と今なお確信
している。

今年で15年。今月の誕生日は新月となる。

再生ならぬ、死ねないならぬ、新生となるの
かもしれない。

還暦まで3年。この3年を新生の基礎作りとして、
また新たな歩みを重ねていく。





新苔

2020年01月15日 | ノンジャンル
2年前、誕生日のお祝いに頂いた苔リウム。

その後、自分なりにレイアウトを変えたりして
折々に楽しんではいる。

苔とはいえ、年中日が当たらないところに
生えるもの、日中は日の当たるところに生えるもの、
木陰で適度な日差しと湿度の中で生えるものと、
その種類も様々である。

墓参りに行くと、様々な環境下で様々な苔を
発見できる。

昨年あたりから、墓参りの時には、いろいろな苔を
見て回り、自宅の苔リウムの環境に合いそうな
ものを採取して持ち帰り、入れ替えをしている。

元日の墓参りでは、3種ほど持ち帰り、環境が
合わずに枯れてしまったものと入れ替えた。

これで、うちの苔は、ほぼ墓地公園のもの
ばかりとなった。

何となく、墓地が身近になったような、
そんな穏やかな嬉しさがある。

一年の始まりを、盆栽にはさみを入れる様な
穏やかさで、すっきりと過ごせたのは、本当に
久し振りである。

穏やかさの中には、大きな反動は無い。
海上は大しけでも、海底は変わらない。
坦々として、日々を重ねていく。





見ざる聞かざる

2020年01月09日 | ノンジャンル
見ざる、聞かざる、言わざる、というのは、
つまり何もしないという事である。

何もしないよりはましとも思えるが、
見ざる、聞かざる、言うという人ほど
厄介なものはない。

その無責任さを自覚しないで、言うばかりと
いう人は、大抵、他人を惑わせ、混乱の
元凶となってしまうからである。

目も耳もふたつ、口はひとつなのであるから、
よく見て、よく聞いて、その上で言葉を
発したいものだ。

そして、その言葉という器に、どれほどの
想いを満たすかが、その人となりという事に
なるだろう。

見て、聞いて、考えて、想いを満たした
言葉を発していきたいものである。