ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

カラオケ

2015年12月22日 | ノンジャンル
忘年会シーズンとなり、夜の街に繰り出す機会も
多くなってきた。

飲まずとも、お喋りとカラオケでそれなりに
楽しく過ごせるが、店の女の子と話していると、
自分の娘と同じような年代であることに愕然とする。

いつまでも気分だけは若いままで、飲み屋などで
女の子と話をしている時は、同じように若い
気でいるが、現実はその子の父親よりも年上という
こともままある。

一気に自分が年を取ってしまったような気がするが、
それも考えれば至極当然のことなのである。

男というのはいくつになっても成長がないようである。

カラオケにしても、自分にとってはリアルタイム
だった曲も、彼女らにすれば知っていても
リバイバルである。

まして、8トラや、レーザーディスク、レコード盤
などは知らない。知っていても現物を手にしたことが
ない世代なのである。

今やカラオケは、殆どが通信で、必要な機材も
コンパクトで場所を取らない。

カラオケなるものが出てきたのは、高校生くらいの
頃だからもう35年近く昔となる。
4曲入りの8トラカセットで、映像など無論なく、
歌詞カードを見ながら歌ったものである。

いまや、採点までされてしまうものだから、
やりにくくて仕方がない。
ギターの弾き語りと違い、下手にアレンジすると
たちまち減点となる。

採点だけではない、歌いきれるかというのもある。
その人の歌をまだ継続して聴きたいかどうかを機械の
審査真が判断し、加点する方式で、持ち点がなくなると
途中で終わってしまう。

自信のある曲が途中で終わらされると、結構へこむ。
何曲かは歌いきれたが、変な緊張感があり、
リラックスどころか、余計ストレスがたまる
かもしれない。

とはいえ、歌いきれるか歌合戦という変なイベント
ともなり、楽しいことは確かだ。

どんな場であれ、そこを楽しくできるかどうかは
自分に係わっている。
しかし、自分が楽しめない場であるなら、
無理をする必要はない。

一人カラオケでも、ワイワイ歌合戦カラオケでも、
楽しめる場であればそれでいい。

一年の終わりくらい、楽しく過ごそうではないか。








下町ロケット

2015年12月21日 | ノンジャンル
昨夜、「下町ロケット」を見た。

モノづくりという点で、自分の仕事にも関りのある
内容として興味を持っていたが、さすがにドラマで、
やれやれという気もした。

いろいろと困難はあっても、たゆまない努力と
情熱でそれを乗り越えたところに喜びがある。
無論、それに反論するつもりはない。

だが、開発の途上で、様々な状況から開発自体が
凍結されたり、廃止されたりということの方が多いし、
努力が報われない事の方がはるかに多いのである。

ハッピーエンドを迎えることが分かっていれば
まだしも、最悪の場合は、自身の生活自体が根本的に
崩壊してしまうこともある中で努力し続ける
というのは、並大抵の苦悩ではない。

さらに、ドラマにあった根回しや贈賄、策略や
偽装などは、少しデフォルメされた感はあるものの、
極論すれば、ごく普通のことなのである。

それでも、唯一、共感できたのは、
「技術はうそをつかない」ということだ。

いくらごまかしをしても、取り繕っても、
技術というものはある意味普遍的な原理でもあり、
それはそのまま、ありのままの真理でもある。

職人は、称賛もいらない、名声もいらない、
嘘もごまかしもいらない。
ただ、己の納得のいく一品を生み出すことのみに
熱中できる人たちである。

私が敬愛してやまない人たちなのである。

だからこそ、技術はテクノロジーではなく、
その人の生き方そのものなのである。

「技術はうそをつかない」は、そのまま、
「自分自身にうそはつけない」という
言葉となって、心にしみるのだ。





一人が万人

2015年12月14日 | ノンジャンル
仕事柄、出張が多く、国内はもとより
海外各国への出張も、特別なことではなく
日常となっている私にとって、様々な人々との
関わり合いにおいては、常にその人自身を
見るように心がけている。

言葉はもちろん、文化、風俗、習慣、
生活様式なども異なる相手と、
ましてや考え方もともすれば違背しがちな
相手との関わりにおいて、まず大切なのは誠実さと
考えている。

こちらの誠意に対し、誠意を持って答えて
くれるのかどうか、これは商取引に限っての話だが、
その相手と信頼関係を築き、長い取引関係を
継続できるかどうかの要である。

無論、その国によって、独特の傾向性という
ものはあり、それを認識、理解することも大事である。
いわゆる、一事が万事的な面は多く見受けられるのだ。

しかしながら、一人が万人ということはまずない。
同じ国の人であっても、信頼できる人もいれば、
いい加減で信頼できない人もいる。

要するに、どこの国の人かということではなく、
その人となりなのである。

外国だけではなく、日本でもそれは同じ
ことである。

政治面や、一個人を見て、それが全てと考えるのは
本より大きな過ちであることは自明である。

時折、街頭などでヘイトスピーチなるものが行われ、
それを阻止しようとする対抗スピーチが同時にされる
異様な光景を目にするが、これも一事が万事的思考を
そのまま一人が万人という思考にスライドさせるという
根本的な誤りの実例だろう。

人が人の誠意に対し、自らの誠意を持って答えようと
考えるのは万国共通であり、それを裏切るものは、
その人自身の問題であって、その国の問題ではない。

ナチスドイツにあって、まともなドイツ人はいたし、
帝国日本にあって、沈着な平和主義者もいたのである。

まずは、その人を見る。そこから、関係は始まるし、
それが信頼へとつながるかどうかは、
また別の問題なのである。





唯我独尊

2015年12月08日 | ノンジャンル
お酒に飲まれていた頃は、いわゆる悪い意味での
唯我独尊であった。

飲まずにはいられない自分と、そうなってしまった
自分を自分で憐み、周りや世間を呪い、他を見下す
ことでしか、自分を支えられなかった。

そこには、純粋たる自分と、濁悪の世間という
一種のドラマチックな陶酔もあったかに思える。

泥の中の世間に咲く、一輪の白蓮とでも言おうか。
現実は、泥に染まるばかりか、泥をかき乱して
いたのであるが。

今は、その本来の意味にようやく立ち返って
きたということだろう。

繕わず、飾らず、ありのままの姿で、尊い生き方の
できる、他の誰でもない自分自身ということである。

そして、それは無論自身ばかりでなく、
他の人達においても同じだと知ることを、
唯我独尊というのである。