ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

ひと言の力

2020年11月27日 | ノンジャンル
たったひと言で、それまでのすべてが
崩壊することもある。

たったひと言で、人を死に追いやることもある。

だが、たったひと言で、人を蘇生させ、
諦めずに生きていこうとさせることもある。

そのひと言は、今の人の言葉であれ、
過去の人の言葉であれ同じである。

そのひと言の力を知るものならば、
人を生かす言葉を口にしたい。

それは単に言葉ではなく、その人の魂の
現われである。

人を生かす魂なのか、人を殺す魂なのか。

人を生かす言葉なら、それが宿る魂は、
その人をも生かすだろう。

だが、その人は、人を殺す言葉がある事、
その言葉の宿る魂のあることを
知らねばならない。

それを知らずして、魂のない言葉を
発しても、それはただの音声・文字に過ぎない。

これほど音声・文字が溢れている世の中で、
ひと言の力が衰えているとは、何とも
皮肉な事ではないか。





霜月

2020年11月25日 | ノンジャンル
11月に入ったというのに、汗ばむような陽気が
続いていたが、さすがに下旬には
寒気が戻ってきた。

しばらく墓参りにも行けていなかったので、
連休の中日に出掛けた。

コロナの感染が三度拡大する中、我慢の連休と
銘打たれたせいか、高速は空いていた。

後でニュースを見ると、行楽地は人出が
かなり多かったようである。
とすれば、公共の交通機関を使って移動した人が
多いことになる。

案の定、連休を機に、感染者数が急速に増えた。
対策に万全を期しているところでも、何件か
感染者が出たという報告も入っている。

コロナばかりではなく、乾燥、低温という
ウイルスにとって好都合な季節にこそ、
これまで以上の予防意識が必要なのだが、
一年近くとなる状況に、うんざりとした空気も
濃くなっている。

結局は、誰がどうという事ではなく、自分が
どれだけしっかりと予防意識と行動を
継続できるかに掛かっているだろう。

墓地公園は、人が集まるのは礼拝堂と、売店、
レストランくらいである。
墓園自体は人が密になることはまずない。

墓参の後、墓園を散策してみた。

一昨年だったか、頂いた苔リウムの世話を
しだしてから、地面に生える苔に目が行く
ようになった。

注意して見ていると、日陰や水辺、
日当たりの良い所、木の根元等、場所によって
様々な種類の苔が生えている。

水槽内の場所による環境と近いものを選んで
持ち帰り、久し振りに苔を入れ替えた。

絶望に近い苦しみの中で、墓参りと、
この苔が、少しその苦しみを和らげてくれた
ようでもあった。

この世にはいなくとも、生きている。
人に知られようと知られまいと、苔もまた
そこに生きている。

私もまた、生きているだけで
いいのかもしれない。





四苦八苦

2020年11月18日 | ノンジャンル
なんの事はない、この世に生まれてきた以上、
生きて行くことは苦しみなのだという事である。

楽な事や、うまくいく事など殆んどない、
むしろ、苦しい事や、うまくいかない事の方が
遥かに多い。

ところが、人というのは不思議なもので、
10のうち9苦しくとも、ひとつの喜びで
その苦を払拭してしまうのである。

そして、その9の苦さえも輝く事となる。
つまり、1勝9敗が、全勝になるという事だ。

節目節目に、そんな事を考えながら振り返れば、
至上の喜びというものは、間断なき苦しみの
中にこそ生まれるものかもしれないと思う。

絶望の中の希望。その希望は、楽観にはなく、
悲観のどん底にこそあるのである。





老け感

2020年11月09日 | ノンジャンル
霜月に入ったからというわけでもなく、本当に
一体今年は何だったのだろうという脱力感に
似たものに包まれている。


お盆を過ぎれば、一年もまたたく間なのは例年の
事だが、今年はお盆どころか、一年を通じて
呆然とするような年になりそうだ。

リモートやテレワークで、嫌でも自分の顔を
見ないといけない機会が増え、この一年足らずで
随分老けた気がしている。

出張に出れば、空気も変わって気分も変わる。
海外へ出る時は、雲の上の眩しさに包まれ、
夜は星の静寂と煌めきの中を飛び、異国の地では
異なる生活様式の刺激を受け、地域では
英語を教える子供たちに接することで、
気持ちも若返る。

例年のあたりまえのような日常が今年は
すべてなくなった。

急に老け込んだように感じるのもそのせいだろう。

忙しさの中で、それがどれほどありがたいことか
身をもって知った一年でもあった。

来年はその感謝と共に、再び若返りたいものである。





再発

2020年11月05日 | ノンジャンル
ガンと診断されて、苦しい抗ガン治療を受け、
寛解したとする。

誰も再発は望まないが、再発した場合は、
また一から苦しい抗ガン治療のやり直しである。

寛解から最初の再発が一年、再び寛解から二度めの
再発が3年。

二度目は、3年も無事にいたのだから、一度目よりは
ましと考えられるだろうか。

寛解したのなら、もう再発は勘弁してくれ
というのが、ごく普通の感覚であろう。

ところが、断酒となるとそうではない。
お酒で散々な目に遭い、ばかりか、
周りも巻き込んで悲惨な状況に陥りながらも
やめられなかったからこその断酒である。

それは、ガン治療と同じく自分の為ではあっても、
自分の為ばかりではない。

一年やめて再飲酒した。今度は3年やめて
再飲酒した。やめている期間が長くなって
いるから、成長していると思うなら笑止である。

また一から悲惨さを味わう点では、ガンの
再発と変わらない。

まして、その再発は自ら招いたものである。

誰しも望まない再発を自ら招いて、また一から
やり直すことを繰り返すうちに、力は尽きて
しまう。

それは成長などでは無論なく、退行なのである。
スリップを繰り返すものは、退行を繰り返している
という事実を、肝に銘ずるべきなのである。

そして、大抵の場合は、その退行は、元の木阿弥の
位置より遥かに後方となる。
一年を無駄にしたと思っている者は、断酒に
至るまでの期間を加算していない。

その代償は、ガンの再発よりもむしろ大きい
かもしれない。