お米一粒には、お百姓さんの八十八の手が掛かって
いるのだから、無駄にしないで大切に食べなさい。
昔、ご飯をこぼしたりするとよくそう言われたものである。
もちろん今でも子供達には同じように私が言っている。
自らの命を支えるために、他の命を頂くというのであれば、
人としてその命に礼を失してはならない。
食事時の横着な姿勢や態度は、厳しく戒めて
きたつもりである。
さて、現実的には、米一粒ぐらいは、茶碗一杯のご飯を
食べる分には何ほどの事はない。あってもなくても
変わらない。
これは、人間というものの認識を主体とした見方である。
何キロもあるお米のうちの一掴みなど、取るに足らない、
どうでもよい事に思うのも人であり、いや、その一掴み
こそが、全体であるのだと認識するのも人である。
当のお米にしてみれば、どちらでも良いことである。
ただ自然の、ありのままの存在であるにすぎない。
でき得れば、その本来の役割であるところ、つまり
大地に振り落とされ、芽を出し、再び後継を輩出する
事を、全うできれば良い。
人間は、その役割を果たす可能性とエネルギーを
秘めた種を、自らの生命に置換する、つまり食べる
のである。食べられたなら、その米は本来の役割とは
全く転換された役割となって、他の命を支えることになる。
そのお米に無駄はない。無駄を生み出してしまうのは
人間だけである。
社会の大衆の中で、確かに自分自身はこの世で一人の
人間であるのだが、それは誰でも同じ事である。
自分一人がいなくとも、何も変わらないと自分を見るのも、
いや、自分がいなければ社会自体がないのだと見るのも、
またこれは人間の認識の仕方に過ぎない。
この世に生れ、今を生きる以上、自身にどのような力や
可能性が秘められているのか、何を為すべきなのか、
いや、むしろ何を求められているのかを考える時、
初めて自分自身という存在を知覚できるのではないか。
その時、ありのまま、一粒の米となって、芽を出すもよし、
衆の中で一体となって進むもよし、後に大地に帰るのも
よしなのである。
大河の中の、取るに足らない一滴と捉えるか、
大河の源流の一滴と捉えるか、大河の本流と一体の一滴と
捉えるか。その捉え方は人それぞれである。
そして、それはその人の生き方なのである。
いるのだから、無駄にしないで大切に食べなさい。
昔、ご飯をこぼしたりするとよくそう言われたものである。
もちろん今でも子供達には同じように私が言っている。
自らの命を支えるために、他の命を頂くというのであれば、
人としてその命に礼を失してはならない。
食事時の横着な姿勢や態度は、厳しく戒めて
きたつもりである。
さて、現実的には、米一粒ぐらいは、茶碗一杯のご飯を
食べる分には何ほどの事はない。あってもなくても
変わらない。
これは、人間というものの認識を主体とした見方である。
何キロもあるお米のうちの一掴みなど、取るに足らない、
どうでもよい事に思うのも人であり、いや、その一掴み
こそが、全体であるのだと認識するのも人である。
当のお米にしてみれば、どちらでも良いことである。
ただ自然の、ありのままの存在であるにすぎない。
でき得れば、その本来の役割であるところ、つまり
大地に振り落とされ、芽を出し、再び後継を輩出する
事を、全うできれば良い。
人間は、その役割を果たす可能性とエネルギーを
秘めた種を、自らの生命に置換する、つまり食べる
のである。食べられたなら、その米は本来の役割とは
全く転換された役割となって、他の命を支えることになる。
そのお米に無駄はない。無駄を生み出してしまうのは
人間だけである。
社会の大衆の中で、確かに自分自身はこの世で一人の
人間であるのだが、それは誰でも同じ事である。
自分一人がいなくとも、何も変わらないと自分を見るのも、
いや、自分がいなければ社会自体がないのだと見るのも、
またこれは人間の認識の仕方に過ぎない。
この世に生れ、今を生きる以上、自身にどのような力や
可能性が秘められているのか、何を為すべきなのか、
いや、むしろ何を求められているのかを考える時、
初めて自分自身という存在を知覚できるのではないか。
その時、ありのまま、一粒の米となって、芽を出すもよし、
衆の中で一体となって進むもよし、後に大地に帰るのも
よしなのである。
大河の中の、取るに足らない一滴と捉えるか、
大河の源流の一滴と捉えるか、大河の本流と一体の一滴と
捉えるか。その捉え方は人それぞれである。
そして、それはその人の生き方なのである。