ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

ひたむきに

2013年10月17日 | ノンジャンル
やたら台風の多い年である。

朝晩は寒いくらいだが、日中は傾いた陽射しがまぶしく、
蒸し暑さはないものの肌を射す暑気が残る。

今年一年、年明けから覚悟はしていたものの、
走りに走りぬいてきた。今もその体は変わらない。

相反して、先行きの不安は増すばかりだが、ともかくも、
今日一日をひたむきに生きるのみである。

計画と計算とは違う。
もちろん、計画の遂行のためには緻密な計算が必要だが、
とかく計算通りにいかないのが世の常である。

計算高い自分は、どうしても困難に遭遇すると方や策に
走りがちである。

無論、方策で解決できることはそれで良いが、そうでない
ことの方が多い。
万策尽きれば、あとは祈ることぐらいしかできない。

だがその祈りは、「~ように」という祈りであっては
ならないと思う。
亡くなった人を弔うならともかく、現実に生きるものに
とっての祈りとは、言葉を換えれば決意である。

計算上では到底無理な難題にあっても、それを解決して
いこうとする祈りと、ひたむきな行動こそが活路を導く。
「人事を尽くして天佑を待つ」
本当に人事を尽くしたならば、天が微笑むこともあるだろう。

計算で無理と判断し、諦めるなら前進はない。
生きる喜びもそこには生まれない。

たかが人智ですべてを思いどおりにすることなど
到底不可能である。
そこに、計算を超えたひたむきさがあるかどうかなのである。

努力すればすべて報われるわけではない。
だが努力したことは自身に刻まれる。
それは、いつしか天佑となって現れるに違いない。

ひたすらに、ひたむきに。
常に自身に問いかけていることである。






まともでないか

2013年10月07日 | ノンジャンル
人間、国や人種の違いはともかく、言語や文化、思想の
違いもともかく、基本的には、まともか、まともでないかに
大きく分かれる。

他人を助けるために自らの命をかける者。
自らのために他人を傷つけ、命を奪う者。

どちらも同じ人間であり、誰しもがどちらの面も
併せ持つ。

どちら側の人間かという区別の仕方は、人間自体を
誤って見ている。ただ、その人の基底部がどちら側に
主としてあるかの違いである。

それが、まともであるか、まともでないかということだ。
無論、まともなものが、まともでなくなる場合もあれば、
まともでないものが、まともになる場合もある。

ひとたび生を受ければ、死は必定である。
その生は、少なからず他の生命の犠牲の上に成り立つ。
それを当然とするのか、感謝とするのか。

生のためでなく、他の生命を奪うのは人間だけである。
自身の生命が、他の生き物によって奪われることの
なくなった近代だからこそ、他の生命に対して
より敬虔でなければならない。

人の命の尊さを啓蒙する場が無数にありながら、
その意識がこれほど薄い時代もかつてないのではないか。

最近のニュースを見ていて、結局、まともか、
まともでないかの割合は昔と変わらず、むしろ
まともでない方が増えているのではないかとさえ思える。

死が必定なら、せめて自身の生を輝かせたい。
それは、まともに生きることであり、
まともに死ぬことでもある。

まともということは、生き方であって、死に様と
いうことではない。
どんな形の死を迎えようと、やはり大切なのは
それまでの生き様なのだと思う。