ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

この一年

2008年12月30日 | ノンジャンル
元日早々、湯にのぼせたカミサンが倒れて額に怪我をし、
給湯器が故障してと、波乱含みのスタートとなった今年。

一月に会社の慰安旅行で韓国へ。

娘の高校受験があり、思いがけず学費免除の特待生として合格。

自身も昇進し、新たに前進の決意を固める。

その後中国出張。春の母の命日頃に、初めの様々な出来事を
通して蓄積された内的なものが少し抜けて、虚脱感に包まれる。

断酒丸3年を迎え、一つの区切りを迎えた後、マレーシア出張。

思うように業績が伸びず、自身の不振と低迷に悶えるような
日々が続く。

良い時もあれば悪い時もあると開き直って、出来る事を精一杯
頑張ろうと決めた頃に、断酒会の全国大会に初めて参加。
ネットで知り合った断酒の先輩のsaikiさんとお会いする。

最後の四半期に入って景気は激変。暖冬のなか、これほど急激な
経済の寒波に直撃されようとは予想だにしなかった。

ただ、前半の不振と低迷に苦しんでいた分、この激変は
それほど悪い影響をもたらしたわけでもなかった。
むしろ、後半に上向きとなって行った様に感じる。

様々な意味で変動の一年であったろうけれど、この年末に、
家族でクリスマスの楽しい一時を過ごし、皆元気に年越しが
出来るというのはありがたい事である。

もとより大切な願いが、この年の瀬にかなっていることに
深く感謝し、一年の垢を落として、身も心もすっきりと
また新たな一年を始めたいと思う。

今年も多くの方々に支えられて、断酒継続ができている事を
心から感謝したいと思います。

本当に、ありがとうございました。

断酒継続は、私自身、これからも生きていくという事であり、
行動し続けるという事です。

大晦日は、心の禊ぎの日かとも思えます。
一年の積もりに積もった埃を払って、焼いて、新たな年の
光を拝したいと思います。

皆様におかれましても、幸多き年となりますよう、
お祈り申し上げます。




断酒祈願

2008年12月29日 | ノンジャンル
今年最後の診察の折、一年間お世話になった挨拶を
院長先生にしながら、年明けはいつもお参りに行くという
話のなかで、そのお寺に断酒祈願の墓碑があると聞かされた。

カミサンの母親の分骨が、お骨仏として安置されており、
結婚してから数え切れないほどお参りに行っているのだが、
そんな墓碑があるとは今回初めて知った。

元旦にはいつものようにお参りに行くので、今回は
よく見てきたいと思っている。

墓碑の謂れについては、以下に引用する。

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本多出雲守忠朝は、徳川家康公四天王の一人といわれた
本多忠勝の第ニ子で、関ヶ原の合戦に武功をあげ
大多喜五万石に封ぜられていましたが酒を過したため
大坂夏の陣(1615年)において討ち死にしました。
死に臨んで深く酒弊を悔い死後は酒のために身を誤る
ものを助けんと誓って瞑目したと伝えられています。
爾来、酒封じの神として酒に苦しむ当人や家族の
多数参拝するところとなり、酒弊の除滅に信を得ています。
墓碑周辺のシャモジは参拝者による断酒祈願。
墓碑は、元和2年(1616年)に建立されたものです。
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抗酒剤のない頃は、この墓碑を削って、それを酒害者に
飲ませる者が絶えず、一時は墓碑が傷むため、囲いを
していた頃もあったそうである。

今では、断酒祈願のために、シャモジを奉納するようだ。
そういえば、シャモジを販売しているのは見かけたが、
断酒祈願とは夢にも思わなかった。

ついでと言っては何だが、お参りしてこようと思っている。






静かな夜

2008年12月25日 | ノンジャンル
今年のクリスマスは、何となく街角にその賑わいがなく、
静かな夜となっているように思える。

最後の四半期に突然訪れた経済の激変が、その影をこの
クリスマスや年末に色濃く残しているようだ。

酩酊と馬鹿騒ぎの中で年末年始を過ごすよりは、
一年の終わりに、その一年を振り返り、静かに反省と感謝の
出来る夜を過ごすのも悪くはない。

家族が揃って、ともかくも皆元気でいる事に感謝し、新年も
それぞれが一歩前進できる年と出来ればと願う。

今宵、静かに反省と感謝の出来る今の私は、幸せなのであろう。

留まるものは何一つない以上、
また新たに前進していくほかはない。
いや、前進し続けて行く中にこそ、幸せがあるのである。




冬至

2008年12月21日 | ノンジャンル
今年最後の院内例会でした。

金曜日の夜に接待で遅くなり、昨日は疲れ果てて通院も
出来なかったので、億劫な気分でしたが、今年最後という事で
参加してきました。

いつにも増して様々な深いお話が聞けてよかったと
思っています。
参加すればそれなりの物を持って帰ってこられるのですが、
どうも腰を上げるのがいつも億劫に感じてしまいます。

それが何故なのかを考えるに、やはり指名された時に
どんな話をしようかという緊張感と、その緊張の中、結局
指名されなかった時に感じる物足りなさが原因かもしれません。

自然体でとは心掛けているものの、いざその場に出るとやはり
緊張を禁じ得ません。ただ、その緊張感は常に必要なもので
あるかもしれません。

であれば、参加する前に感じる億劫な気分も、それを感じている
間はかえって良いのかもしれないと考えていました。

今日は奇しくも冬至で、一年で最も日の短い日です。
古代よりこの時期に人々は光を求め、願い、救世主の
誕生すべき時と自然に考えるようになったのでしょう。

私が断酒を決意し、病院へ繋がった日が自身の原点で
あると共に、最悪な時でもあった事を思えば、それは
まさに冬至のような日であったと思えます。

この日から本当に少しずつ、気付かないうちに日が長くなって
いきます。断酒による回復も、本当に少しずつですが、確実に
進んでいく事を改めて思うべき日であると考えていました。



影と体

2008年12月18日 | ノンジャンル
世のため、人のため。

それが自分のためであることを知る人は、
自ら生きる意志を固める。

世間のせい、人のせい。

影はそれ自体が勝手に動くことはないことを知らず、
自らを省みることが出来ない。

世のため人のために、自分がどれほど苦労し、悩み、
貢献しているかを口にする人は、
まず信用しない方が良い。

それが自分のためであることを知ってか知らずか、
いずれにせよ、世間のせい、人のせいと考えて、
影に囚われることに転じてしまうことがままある。

「為に」であろうと、「所為」であろうと、
主体は生きる本人である。

自分がしたことと同じくらいの、
自分が人にしてもらったことは忘れている。

世のために頑張った分、周りも自分のために頑張って
くれていることに気がつかない。

人に心から感謝する心があるとき、
自身も誰かに感謝されていることを知る。

人のために祈るとき、自分のために祈ってくれている
人の存在を感じるのである。

主体の自身が動けば、影も動く。
影に翻弄され、影の動きに一喜一憂したところで詮がない。

影を動かしているのは、他ならぬ本人なのである。