ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

親となる

2010年03月06日 | ノンジャンル
この世に誕生した小さな命を腕に抱いた時、涙があふれた。

ずっと待っていた。やっと会えたと。。。

胎内に命を宿した時から、母親はその血を降り注ぎ、
命は成長を続ける。
血を分けるのではなく、降り注ぐのである。
生まれ出てから、初めて母親はその血を分け与える。

父親はわが子を腕に抱いて、確かな命の温もりと
その息づかいに、命の誕生を実感する。

初めての子供の誕生と同時に親となるのである。
なにもずっと親であったわけではない。
生まれた子供と何ら変わりない。

子供の成長と共に、その養育の苦労を通じて、
ひとつひとつ同じように親も成長していくのである。
その中で、自分が子供の時代には思いもよらなかった
事がわかってくるようになる。

自分が親になって初めて、親心というものがわかる
というのはその成長の中にある。
自身を振り返ればよくわかる。親の言うことを素直に
聞いて、行儀よく、勉強もしっかりして、お手伝いもし、
悪戯などしない、嘘などつかない、できた子供であったか。

少しも言うことを聞かない、わがままで自分勝手な
子供ではなかったか。自分が親になったからと言って、
子供にそれを求めても叶うわけがない。
子供が親の言うことを聞かないのは当り前なのである。

それでも病気や怪我をした時には優しく看病し、手当てを
してくれた覚えがあるであろう。

親としての成長は、自分が子供時代に当り前と思って
いたことが、特別な事であったということを
理解する事でもある。

この親となる前に、必ず自立ということが必要となる。
だからこそ、親と子は、時に対峙して決別の時を迎える
必要があるのだ。親と子の縁は生涯にわたるとも、
心身共に、ひとつの決別という節目をその関係に
持たねば、自立はあり得ない。

仮に親との縁が薄く、愛情に飢えた子供時代を過ごそうと、
自立したものはこの世に生を授けてくれた親に感謝し、
自身に子供ができれば、共に成長していこうという
気概にあふれる。

悩み、苦しみ、迷い、相談する自身の親はなく、
常にこれでいいのかと自問しながら、子を育て、
自らも成長していく。
カミサンを見ているとつくづくそう思えるのである。

反対に自立していなければ、いつまでも愛情に飢えた
子供時代を引きずる。自分を憐れんで時を過ごしても
詮がない。

愛情に恵まれなかったから、人に、子供に愛情を注げない
というなら、一人でいればよい。
これまでの自分になるまでに、様々な人の愛情に育まれて
きた事を思い、感謝するなら、人に愛情を注ぐことなど
たやすいことである。

飢えた心のままで、子供に愛情を注がなければ、子供は
同じように飢えることになる。そしてそれが連鎖と
なっていくのである。
自立した親とは、自分が飢えようと、子どもという
未来に、もてる力と愛情を注ぐものである。

貧しくとも、子供達がご飯を頬張る姿を笑顔で見守り、
自分は空腹を抱えて仕事に出る母親の姿を、今思い出せば
涙が出る。だが同時に今わかるのは、母親は子供達のため
などと何も教条的に考えていたわけではない。
そうすることが自分の幸せであり、喜びであったのだ。

この飽食の時代に、この豊かな国で子供の餓死が
あろうとは。少子化の問題は、根本的な問題の投影であり、
それ自体を問題として解決の策を講じたところで
あまり意味がないように思える。

国家国民はもとより、個人における自立自尊の厳しい精神の
荒廃が最も深刻な問題である。
自立していない親に育てられた子供は不幸かもしれない。
だが、もっと不幸なのは、それを理由に、自分自身が
自立しないでいることであろう。

人は、決然たる意志と、断固たる覚悟において、いつでも
その瞬間にひとり立つことができるのである。