ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

帳尻

2018年12月28日 | ノンジャンル
年末に近づき、穏やかに過ぎ去る一年かと思いきや、
最後の出張のフライトキャンセル、腰痛と、帳尻を
合わせるかのような突発的な事態に見舞われた。

息子も、年の瀬にインフルエンザをうつされ、
帰省できるかどうか微妙となった。

親子で似たようなことをしてと苦笑するしかないが、
我が家の女子衆、家内と娘はすこぶる元気である。

災害続きの一年だったが、幸い大きな被害もなく、
ありがたい事に、家族の誰もが無事で、怪我ひとつ
なかった。

帳尻を合わせたといっても、一年を振り返って
おしなべれば、まずまず良い年であったことに
なるだろう。

悪いことに焦点を置いて一年を振り返るのか、
良いことに焦点を置いてその年に感謝するのか。

良いお年をとの挨拶は、今年あった良い事に
感謝して、新年もさらに良い一年とできます
ようにという事だと思われる。

新たな年を迎えて、それがまだ良い年となるか、
悪い年となるかわからない始まりに、
HAPPY NEW YEARとはおかしな話だが、
それは、MAY THE NEW YEAR BE HAPPY つまり
新年が良き年でありますようにとの挨拶である。

帳尻合わせをした時に、実感として今年が
悪い年であった人には、新年こそ良き年に。
良い年であったと実感される人には、
更に良い年となるように。

祈るという行為は、人を人たらしめている
ものなのかもしれない。

皆様の迎えられる新年が、どうぞ良い年と
なりますように。





ダッチロール

2018年12月26日 | ノンジャンル
昔から出張で飛行機には頻繁に乗ってきた。

6時間くらいまでの飛行なら何という事もないが、
北米など、半日以上の時間を機内で過ごすとなると
ビジネスクラスであっても、監獄に入れられた
ような気がしていたものである。

今の様にプライベートシアターもなく、食事と、
一服(当時)と、お酒と、映画と、仮眠の繰り返し
だった。

長時間の飛行に疲労が増すのは乗務員も同じで、
機長も含め、交代で休憩を取る。

無論、巡航高度に達し、自動操縦で安定飛行を
している間だけの事である。

さて、ここのところ機長のアルコール残留が
検出され、予定便に搭乗できず、フライトが
遅れるという不祥事が各社で起こっている。

一昔前に比べればフライトの数は激増している。
圧倒的にパイロットの数が少ない。

常務も頻繁で過酷な勤務状況なのかもしれないが、
であればなおさら、プロ意識の低下が懸念される。

飛行機は止まることができない。統計上は
最も安全な乗り物とされているが、万が一の時は、
致命的になる。
しかも乗客数は何百人単位である。

こういう不祥事のニュースを見るたびに、
過去の墜落による大惨事の記憶が知らず知らずの
うちに風化しているのを思い知らされる。

それは決して過去の出来事でも、他人事でも
ないのである。
不測の事態に対応するには、万端の準備が
必要である。それが、対応に余裕をもたらす。

慣れという事を最も警戒せねばならない。

と、今度は客室乗務員が隠れて飲酒していた
というニュースがあった。

もちろん、飛行機の運行に直接的には影響はない。
だがこれはプロ意識とかいうのとは別の話である。

恐らく彼女はアル中だろう。
飲まなければ勤務できないか、あるいは勤務中の
抑圧に耐えられずに飲んだのか。

いずれにせよ、アルコールの力を借りようと
するなら、アル中であり、乗務員として
不適格である。

まして人の命に関わる仕事である以上、
厳しい懲戒処分が求められる。

と、これは一般論だが、彼女がアル中なら、
その典型的な例である。

23年以上の業務経歴を持つ、ベテランの彼女が、
その長年の立派な経歴を台無しにし、これからの
キャリアとしての有望な未来をも喪うという、
もったいないというより、あり得ないことを
全て承知の上で、それでも飲んでしまう
病気なのである。

これ以前にも、似たようなケースが彼女には
あったようなので、もうその頃から依存症が
顕著に発症していたのかもしれない。

こうしてみると、フェイルセーフの概念により
格段に進歩してきた技術において、機体の
トラブル時のダッチロールは解消されてきたが、
過去にはなかった機内でのダッチロール現象が
起きつつあるらしい。





それはない

2018年12月24日 | ノンジャンル
実を言うと、先週の激痛に苛まれていた時、
一瞬だが、お酒を飲もうかと思った。

鎮痛剤を飲もうが効かず、体位を変えて
痛みの和らぐポイントを探しても無く、
いわゆる腰痛に効くツボを押してみても
和らぐどころか痛みは増すだけと、
文字通りのたうちまわって、叫ばずには
いられないほどであった。

その痛みから逃れられるならと、
藁にもすがる思いでいた時に、一瞬、
お酒を飲む事が頭をよぎった。

要するに麻酔がわりに、痛みの神経を
マヒさせようと考えたのである。

激痛に翻弄されている状態の自身に
怒りを感じていた時である。
自分で自分を縛り、動けないと
もがいているその状態は、最も自身が
忌み嫌うものである。

強い離脱症状で幻覚に翻弄されて
いた時にも似ていた。

飲めば楽になる。
あの時と同じ感覚が蘇った。

同時にその時に断固として決めた
生き方を改めて思い出した。
そう、決めたのは死に方でなく、
生き方だった。

「それはないな。」

飲めば死ぬという時に、決めたのは
飲まずに生きる事だった。

左脚一本をもぎ取られそうな痛みに、
改めて決めたのは、片脚ででも生きていく
であった。

今年も残りわずか。
新年の抱負や目標も大切と思うが、
もう長い事、そういうものを決めたり
考えたりした事がない。

いつであれ、どんな日であれ、まずは
今日という一日をともかくも
精一杯生きる事しかないのである。





岐路

2018年12月23日 | ノンジャンル
人生、様々な岐路に立つことがあって、
その度に択一を迫られる。

もしもあの時、もう一方を選んでいたらと
後に考える事もあるが、結果がどうであれ
自身に後悔の無いようにと選んできた
道である以上、無論悔いはない。

13年前の択一は、飲み続けて死ぬか、
きっぱり断酒して生きるかであった。

飲んで死ぬのも本望かと思ったが、
幼い子供達がいる事で、為すべき事を
為そうと、生きる道を選んだ。

実際のところ、自身がアル中であろうが
なかろうが、そんなことはどうでも
よかった。

飲みたいまま飲んで死ぬか、
断酒して生きるかの択一だったのである。

それは飲まずにはいられなかった
それまでの生き方の真逆を行くこと
でもあった。

仕事のストレスからの一時的な解放
として必要だったお酒が飲めないと
なれば、仕事をストレスの低いものに
変えれば良い。
いざとなれば会社を辞め、新たな
仕事を始めるのも良しと考えていた。

初めはその考えも現実味のないもの
だった。右利きの人が、ある日を境に
日常生活を左手で全て送るような
ものだった。

思うに任せないもどかしさと苛立ち、
歯痒さで生活自体がしばらくは
苦しかった。

それに慣れた頃、それが自身の生き方に
なっていた。

岐路に立った時の択一は、
自身の選んだ自身の生き方という
事なのであろう。





この一年

2018年12月21日 | ノンジャンル
今年を振り返れば、年明けより今に至るまで
ひたすらにわき目も振らず走り続けてきた。

それなりに課題も問題もあり、山場も多くあり、
無理を重ねた時もあったが、例年に比べれば
割と穏やかな一年であったかと思う。

主要な取引先もクリスマス休暇に入るとあって、
ようやく落ち着いた頃に、例の激痛に襲われた。

結局、一年の帳尻を合わせたかのようであるが、
要するに加齢による身体の衰えと、避けられない
ガタが物理的に顕れたという事である。

それに意味を持たせようとするのは人間だけで、
意味などもとよりない。

不運、罰、利益、試練、加護、警鐘などと、
どんな意味に捉えようと、それはその人の自由である。

どう捉えるかというのは、つまりは、その人が
どう生きるのかという事に過ぎない。

不運として嘆くのか、罰として悔い改めるのか、
利益、加護として身体を労わるのか、試練として
乗り越えようと鼓舞するのか、警鐘として
生活態度を見直すのか。


いずれにせよ、病気や怪我で、痛みや苦しみを
味わう事で学び、知ることは多い。

さて、来年をまたどう生きるのか。

今思うのは、やはり変わらず、一日一日を精一杯
との思いで生きていくのだろうという事である。

そこには盆も正月もない、あるのは、目の前の
一日なのである。