ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

何度でも

2009年06月28日 | ノンジャンル
久し振りにゆっくり眠って、さすがに身体は重かったものの
気分はすっきりと起きることができた土曜日の朝。

苦しさの真っ只中にいた水曜日に、病院へ行こうかとも
思ったが、何とかこの日まで持ちこたえた。

先週の通院の時に大まかなことは先生に話していたが、
この一週間の苦悩を、格好をつけずに赤裸々に吐露した。

「大変でしたね。」「水曜日に来れば良かったのに。」

先生の一言一言が身にしみる。

「復職してから、やれ接待だ、出張だと、断酒を
 継続させるには最悪な環境の中でここまで
 頑張って来られた。」

「それだけでも大変なことなのに、今回、飲まずに
 耐えたのは大した精神力ですよ。」

『いえいえ、自分の脆さを身にしみて感じました。』

「一度は死んでいた身を立て直してきた原点を
 忘れなかったんですね。」

『石に噛り付いてでも、為すべき事を何度でも
 やり直していきます。』

「辛くても短気を起こさないで、いつでも来て下さい。」

診察後、空を眺めていた。

この歌が、今は心にしみる。


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暁の閃光

2009年06月27日 | ノンジャンル
暗い闇の中で悶え苦しんでいた。

肉体的に鎮めがたい苦痛に、無駄とは知りながら
身をよじるような思いを、この一週間ほど独り
心に抱えてきた。

未曽有の不況下での株主総会、組織の再編成、経費削減、
リストラ、解雇、賞与カット、 給与カット。
何よりも自身が経営の中枢から事実上外れたことは
大きなショックであった。

全ての逆境を何とか前向きに捉えながら
進んで行くしかないとはわかっていても、息も苦しく、
食欲は減退し、言い知れぬ恐怖感に苛まれてすべて悪い方へ、
悪い方へと 思考が向いていく。

いくら考えても堂々巡りなことがわかっていても、
まるで強迫観念に憑かれたように心が底も無く沈み、
肉体も今までの疲れが噴き出したかのごとく動かない。

苦しいのは生きているから。
楽になりたいのは生きていたいから。
ならば生きるしかないではないか。

4年振りに、いつ終わるともしれない離脱症状との戦いを
思い出していた。
だが、あの時は精神の昂揚があって、断じて飲まない、
勝って見せるという気魂が充実していたかに思えるが、
今回はその気魂がまず折れてしまっていた。

己の脆さ、無力さ、小ささを、情けなさ過ぎて
消えてしまいたくなるほどに感じた。

あの時とひとつだけ同じ事がある。
何もかも一切を投げ打ってしまいたくなるのと変わらぬ微妙な
バランスで、家族を何としても守るという意志があった
ということである。 

その一点で心を支えた時、苦しみも、辛さも、悲しさも、
そのまま受け容れて、自分を作らず、繕わず、飾らず、
ありのまま、情けないままで、それでも一歩を踏み出して
いく腹が決まった。

底知れぬ深い闇の中にいれば、人は光を求めてやまないが、
求めることは生きることであり、闇の中であろうと
進む事である。進まざるものに光は射さない。

この苦しみは、飲まないで居続けているが故の
苦しみであるだろう。
昔なら、飲まなければ到底耐えられなかったに違いない。
だからこそ飲んでいた時もあったろう。

今は、飲まないでいるからこそ、ありのままを認めて受け容れ、
その地点から何度でも 立ち上がって進んで行ける、
つまりは生きていけるのである。





ホムンクルス

2009年06月18日 | ノンジャンル
脳の司る運動、感覚を、その脳の表面積の割合によって
人体に反映し図に表したものをホムンクルスという。

下の写真を見てもらいたい。




なんとも奇異な姿だが、こうしてみれば、運動、感覚の
占める部位は顔と手、特に唇、舌、指に集中していることが
よくわかる。

これは相関関係にあって、指先などの運動はより脳を
刺激して感覚を発達させることにもなる。

ウォーキングなど、日常的な軽い有酸素運動は健康に良いが、
指先を使う作業や、舌でさくらんぼの軸を結ぼうとしたり
することは、主要な脳の働きを活性化させる。

人と話をする。当然ながら言葉だけではなく、顔の表情、
目や唇の動きで話に感覚的幅を持たせる要素は大切であるが、
実は脳の活性化にも非常に有効である。

表情豊かに、喜怒哀楽を表せる人のほうがいつまでも
若々しい。
私など、ポーカーフェイスでいることに男の美学を
感じているものは、実は脳の活性を自ら抑圧して、表情を
老けさせていることになる。

仕事上では相手に対して笑顔でいることが多いので、
取引先と一緒の一日が終わると顔が引きつる感じがする。
表情作りもある意味、運動である証である。

作り笑顔も脳を活性化させ、活性化された脳によってまた
表情も豊かになることを思えば、笑顔で生活するのが
最良ということになるのである。



雑感

2009年06月17日 | ノンジャンル
キーボード
パソコンのキーボード入力は、ローマ字で入力している。
入社当時は手動のタイプライターだったので、英字の配列には
慣れていたが、この配列は、タイプを「速く打たせない」
ためであることはよく知られている。

手動タイプを速く打つと、活字を打つそれぞれのキーの
アームが重なって、機械的に不具合を生じるため、
アルファベット順ではなく、QWERTY配列としたものが
現在も使用されている。

ひらがなにしても、もともとカタカナタイプライターで
同じような不具合が出るので、同様に「速く打たせないため」
に、50音順ではない配列としたものが現在に至っている。

ひらがな入力にすると、途端に打つよりもキーを探すのに
時間が掛かってしまう。
何とも奇妙な配列だが、これも初めから見慣れていると、
それが当たり前のようになってしまう。
あいうえお順ならともかく、反対にABC順に配列
し直されたら、また早く打てなくなるだろう。

奇異なものが、普通にみなされている面白い例である。

受話器
他のデスクで電話を取ると、大抵受話器の線がねじれている。
クルクルとねじれている線が妙にイライラするのだが、
これは右利きの人が、右手で受話器を取り、メモなどを
取るのに左手に持ち替えるので、線がねじれるのである。

私は左利きなので、左で受話器を取り、メモなど書くのは
右手だから、そのまま持ち替えずに受話器を置く。
よって、線がねじれることはない。

計算機も右利きの人は、ペンを持ちながら打ったりして
いるが、私は左打ちで、右書きである。
もちろん、右でも打てるので、電話をしながら計算機を
叩くのも問題ない。

今は矯正しないようだが、お箸と鉛筆を右に矯正してくれた
幼稚園の先生に感謝している。
その気になれば両手とも使えるので、結構便利な事が多い。

時計回り
文明は主に北半球で発展したので、日時計の影は右回りに
移るため、現在の時計は右回りとなっている。
南半球を中心に発展していれば、左回りとなっていた
かもしれない。

普通と考えていることの全くの反対は狂っていると
考えがちなのだが、実は大した差はない。
北の真夏は、南の真冬で、北の台風は左巻きで、
南のサイクロンは右巻き。
時間は後退することはないのでややこしいから
時計の進行の方向を北でも南でも共通にしている
だけである。

世間では時に奇異に感じることや、まるで反対のように
思えることが多いのだが、それもさして不思議では
ないということなのだろう。



転生

2009年06月16日 | ノンジャンル
「豊饒の海」4部作で、三島は己を、転生を繰り返す
主人公に見立てたか、それを老いながら目撃する
本多に見立てたか。

限られた一生の中で、この転生を目撃することは
まず難しい。
だが、仮に一度でも目撃したなら、彼は覚知の域に
達することがわかっていたかもしれない。
醜く老いることにもさほどの抵抗はなかったであろう。

但し、それを目撃できる保証はどこにもない。
ただ肉体的衰えを感じ、美の喪失を感じ、精神の減退を
覚え、己の純潔さえも泥にまみれて終わることになる
かもしれない。
それは彼にとって耐え難い事であったはずである。

散る桜のように、靖国で再会を期して出撃した若き
特攻隊員のように、彼もまた本多の生き様に心残りは
あったろうけれど、転生を繰り返す主人公と同じ道を
辿ることで、自らの若き卓越した頭脳と精神で
覚知したいと望んだのか、それは推し量るすべもない。

ただ、この4部作を脱稿したのち、割腹自殺を遂げた
彼の心中を慮れば、その高い精神性と純潔は、
世にそぐわないものであったかもしれない。

この世に生を享けた以上、天寿を全うすべきとは思うが、
人は思想のために死ぬことができる存在でもある。
虚しく永らえるよりは、死ぬべき時を
見誤らないようにしたいものである。

端的に言えば、自身の死は転生へのアポトーシスで
ありたいということで、決してネクローシスで
ありたくはないのである。