ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

たかが断酒

2009年03月31日 | ノンジャンル
無理押し、ごり押しでの断酒一年を過ぎる頃というのは、
飲んでいた頃のようなストレス解消の方法を突然喪失してから
一年を過ごしたわけで、それなりに抑うつ感というものに
つきまとわれていた。

あれほど酒浸りであった自分が、とにもかくにも一滴も
口にしないで一年を過ごしたというのは、どれほど大変な、
難しい事を成し遂げたことかと、自分で自分を絶賛して
いただろうし、家族にも周りにもそれを認めて
もらいたくて仕方がなかった。
いわゆる達成感と称賛が、唯一の開放的役割を
果たしていたものと考える。

ところが、だんだんと落ち着いてきて、冷静に見ることが
出来る様になってみれば、それは酒害による
マイナス要素を、それ以上悪化させない、
つまり進行を止め、少しずつゼロへと向かい出したに
過ぎないことに気がつくようになる。
無論本人ばかりではなく、家族も同じである。

長い飲酒の年月をかけて、徐々にマイナスへと
気がつかないうちに進んでいたことを思えば、
断酒したからといって、すぐにゼロになるわけではない。
プラスに転じたとはいえ、実際はマイナスの中での
話であって、借金であれば破産宣告で債務ゼロとなった
わけではなく、ようやく徐々に返済が出来るように
なったに過ぎない。

要するに、何年断酒したかということではなくて、
今の自分の位置が借金返済の位置なのか、
貸し借りゼロの位置なのか、徐々にでも貯金が出来る
ようになってきた位置なのかということである。
10年断酒しているからといって、未だに返済の位置に
いる人が、断酒10年を誇ったところで、詮がない。

但し、幸か不幸かは、その置かれている位置には
関係がない。
断酒3年でも、幸せを感じながら、返済をしていく人も
いるであろう。こればかりは本当に人それぞれであり、
断酒継続年数で判断できることではない。

さて、自分自身について言えば、未だに返済の位置で
あることは確かだが、今まで遠くて見えなかった
ゼロの位置がおぼろげに見えるようになってきた気がする。
そして改めて気づいたのは、そのゼロの位置に
辿り着いた時、何かほっと安堵できる達成感に包まれる
などというのは、夢想に過ぎないということだ。

それはつまり、お酒にコントロールされない、
お酒に対し主導権を握る本来の自分というものに
立ち戻ったに過ぎない。
もちろん、酒害体験、断酒の継続という、大きな経験は
上乗せされているが、元々の自身に戻ることが、そのまま
何か特別な大変革がなされたということにはならない。

至極当然のことである。
ひどく臆病で、他人の顔色ばかり伺っている人が、
お酒の力で大胆になり、粗暴になったとしても、
酔いが醒めれば元の臆病な自分に戻るのと大差ない。

今は、ゼロに辿り着いた時からこそが、本当の始まりで
あることがひどく現実味を帯びて実感される。
元々の自分に戻ったなら、その本来の自分が抱える課題、
問題を一つ一つやり遂げ、克服していく中で、
初めてプラスと転じる貯金の位置、つまり自己の変革や
成長が自身にも周りにも具体的に現れてくるのだろうと
思うのである。

「断酒何年」ぐらいしか誇ることが出来ず、
未だ返済の位置で、しかも不幸であるなら、これほど
惨めなことはない。
いかなる位置にあっても、幸せを感じることが出来るなら、
取り立てて断酒を論じる必要もなければ、何年断酒した
ということもどうでもよいことである。

本来の自分から一歩ずつ前進していく、その中に幸せを
感じることが出来るようになれば、その胸中には
「断酒何年」は片隅にも座を占めず、「たかが断酒」と
なるであろう。
いや、むしろ、「断酒」というものさえ朧となり、
無意識の底に「飲まない」がどっしりと腰を下ろした
状態なのであろうと思う。



新たな始動

2009年03月29日 | ノンジャンル
一年の始まりを新年を迎えた時に切った後、桜咲く4月を
改めて新学期、新入学、新入社、新会計期のスタートとして
迎えることは気持ちも引き締まって清々しい。

個人的にはまた6月に気分も新たに断酒の一年を
スタートできる。
1月、4月、6月と引き締めの機会となる時期があるのは
ありがたい。

身なりを整え、姿勢を正して、それぞれの節目を迎え、
新たなスタートを切りたいと思う。

普段からスーツ姿ではあるのだが、このときばかりは
気持ちから入って、立ち居振る舞いも正して臨みたい。

フレッシュマンの初心を見習い、白いワイシャツに
ネクタイをきりりと締めて、磨いた靴で出かけよう。

春の陽射しの中、桜の花びら舞う道を歩く時、
いつもと同じ道がまるで違う道に見える。

昔の青春ドラマで、先生が言った言葉。
「とにかく、何かを、始めよう。」

家にばかりいたのなら、思い切って出かけてみよう。
忙しくてできなかったことを、少しずつでいいから
やり始めてみよう。
言い訳ばかりして、やらなかったことを、やってみよう。
生命が躍動する春に、何もしなければ自分で自分を
抑え付けて苦しめることになる。

じっとしていられない、何かをしたい、動きたいという
自然な衝動に素直になって、その何かを考えれば、
悩まずともいくらでもあるはずなのである。

”Let’s Begin”
「とにかく、何かを、始めよう。」
 



男の不幸

2009年03月28日 | ノンジャンル
春たけなわかと思わせる暖かな日が続いたかと思うと、
急に寒が戻って、負担を掛けていた腰が悲鳴を上げたらしい。

ぎっくり腰のようになって、しばらく動けない状態であった。
座ったり立ったり、歩く事ができるまでになれば仕事はなんとか
可能だが、肉体労働に従事しているとすれば、おまんまの
食い上げである。

事実、ご近所さんに、腰を傷めた方がいて、もう3年ほど仕事が
できないでいる。他人事ではない。

それでも呑気なもので、これではカミサンの上で腰を振る事も
当分はできんな等と考えている自分に、内心苦笑している。

生き物である以上、食欲、性欲、睡眠欲は不可欠であり、
健全な男であれば、出世欲、名誉欲、権力欲、支配欲があって
当たり前で、そもそも欲望は生きる為の欲求であり、
原動力でもある。理性は欲望の暴走を制御し、正しい方向へと
舵取りをするのであり、欲望自体を消すものではない。

欲を離れるなら、生きる事を捨てて、堂に入って瞑想し、
そのまま即身仏にでもなれば良い。

ところで、様々な欲望のうちで、性欲のみは己一人では
どうする事もできない。自慰は所詮独りよがりであり、
生理的処理だけであって、代替手段に過ぎない。
本来の欲求の充足には、必ず異性の肉体と己の肉体を重ねる
必要がある。

つまり自己完結できない唯一の欲求なのである。
そして男はその欲求充足において能動的立場を取る。
ここに男の幸せと不幸がある。

己の情欲が高まり、その高まりと同時に肉体的充実が
発露されるのが健全なのだが、年を取り、肉体が衰えてくれば
情欲の高まりがいくらあっても、それに肉体がついてこない。
これは、男にとっても、女にとっても不幸ではあるが、
精神的ダメージは男の方が遥かに顕著である。

男が生きる上では、この肉体の充実はそのまま心身ともに
活力の問題となる。
ED治療や、バイアグラなどの需要が高くなってきている
現状は、ストレス社会の中では止むを得ない面もあるだろうが
精子の数が減っているという生物学的な傾向は危機的である。

その気があっても、身体がついてこないのは男の不幸であるが、
身体はもうとっくに機能しないのに、その気だけはある
というのも、大いに不幸であろう。

お酒を飲んで不能になった事はないし、むしろ高まる方で
あったが、断酒して睡眠導入剤を常用している頃、一時的に
不能になった事がある。
これは、思うように身体を動かせないもどかしさと同じく、
非常に情け無いものがある。

ところで、バイアグラについては、やはりきちんとした診断と
処方による方がいいように思える。副作用的な問題もあるが、
なにより問題なのは、全く反対の不幸を感じる事になるからだ。

いつだったか、バイアグラを人に頂いたことがある。
薬自体がブームのようになっていた頃で、その人は、
話の種にと分けてくれたのだった。
好奇心旺盛な私のこと、早速服用してみたが、
何という事はない。まあ、人に分けるくらいだから安い贋物
だろうと思っていたら、2時間ほどしてから、どうも様子が
おかしい。

情欲も高まりも、そんな気分も何もないのに、一物だけが隆々と
勃起している。そして、そのままの状態で眠り、朝起きて見ると
変わらず勃起したままであった。
困ったのは、小用の時、勃起したままだと出にくい事である。
結局、まる一日近くその状態であった。

その気があるのに起たないのも情け無いが、その気がまるで
ないのに起ったままというのも、情け無いものである。
起っているからといって、行為に及んでも充足感は
得られないであろう。
これもまた、不幸と言えば不幸に違いない。

若い頃は、激しい一方的な生理的処理という要素が
高いものの、年を経て落ち着いてくれば、互いに高めあう
余裕もできるだろう。
昔より今の方が、欲求の充足という面ではより高いの
かもしれない。

とはいえ、腰を傷めて動かせない今は、何ともならない。
おとなしく養生するのみである。

これもまた、男の不幸である。




出生の本懐

2009年03月25日 | ノンジャンル
ともあれ、この時代、この世界に生まれ出て、
今を生きている以上、自分なりに自分の人生を
生きるほかないではないか。 
ならば、生きて、生き抜く以外に己の本懐を
見出すことはできない。

己の本懐。 
いかなる使命を帯びて生まれたのか、何を為すために
生まれてきたのか、そもそも、何をしに、つまり、
どういう意志のもとに生まれてきたのか。

そんなことは、今を生きる中で、己自身が見出して
いけばよい。仮にそれを見出したのがその人の
晩年であっても問題はない。
今を生きながら、未来を志向していることに
変わりはないからである。

生きている間に己の本懐を覚知し、或いは定め、
或いは信じて、それを成し遂げようとするなら、
その人は己自身のみの天命を知るということに
なるのである。
それを知る人の生き方は、その人が生きているだけで
輝きを放つものである。

自らの生きる意志が定まれば、いかなる批判も中傷も
気にはならないはずである。
自身の価値を他人の評価によってのみ計る人生は、
どこか虚しい。
それでいて、他人に評価されることによって、満足感が
得られる面もあるため、常に他人に認めてもらうことを
望み、批判、中傷を恐れる。
恐れの心がある私などは、未だ天命を知らざるものである。

絵画というものは、完成、つまり制作の終わりという
ものはないと考えている。 
画家が絵筆を止めるのは、内面を表現するのに技法も
限界に達し、気力も体力も極限に達したときでは
ないかと思う。

それを超えた時、その画家が描くべき本懐と呼べる作品が
現出するのかもしれない。

その本懐たる絵を現出せしめたなら、今を生きる画家に
とっての無上の喜びであろうし、それ以上も
それ以下もない。
画家にとっての最大の不幸は、その本懐を遂げられない
ことであろう。

作品が評価され、名声と富を得ることは、本懐を遂げた
ものにとってはどうでもよいことであり、
遂げられずにいるものにとっては虚しいばかりである。
他人の評価、名声、富が、その虚しさを埋めてくれる
わけではないことを、本人が最もよくわかっているのだ。

一人の画家が命を賭けて極限状態の中で己の本懐たる作品を
現出させたなら、その現出と同時に作品を焼き払った
としても何も悔いはないはずである。
それは内面の現出であり、現出と同時に再び内面へと
投影されるからである。

有名な画家は、存命中は不遇な人生であった人が多い。
その死後において遺された作品が評価され、
描いた本人ですら思いもよらぬ高値がついたりする
ケースが殆んどである。存命中に評価されたなら、
もっと幸せな晩年であったろうにと俗な考えも過るが、
本人にすれば、そんな程度の低い幸せなど遥かに凌駕した、
苦悩と狂気と悶絶のなかに見出した、歓喜と安楽を
感じて逝ったのだと考えている。

そして、己の本懐ではありながら、その現出せしめたものが、
他人に多くの影響をもたらし、その影響の波動が、
またその人をしていつの世にか絵を描かせることに
なるのかもしれない。

振り返り、今を直視し、未来へと目を向けるとき、
私などはまだ、絵を描くことに取り掛かりもしていない
ように思える。



意味などない

2009年03月24日 | ノンジャンル
あるきっかけで、学生時代に読んだ、モームの小説などを
読み直している。

モームは言う。 
「人生に意味などない。生きることに意味などありはしない。
この世に生まれ、死んでいく命の流れを縦糸に、
人それぞれの経験を横糸として、それぞれの
人生模様をペルシャ絨毯のように織りなしていくのみである。」 
と。。。

単にこの人生無意味説ともとれる言葉をニヒリズムのように
捉えては、あくまでも自身を含め、人間の探求に真摯であった
モームの真意はわからない。

人は、何につけてもその意味や目的を求め続ける。
言い換えれば、意味や目的に縛られることにもなってしまう。
その呪縛からの解放の言葉でもあると私は考えている。

何のために生まれてきたのか、生きることに
どんな意味があるのか。そしてその目的とは。。。

モームに言わせれば、
「おまえは意味や目的だけで生きているのか?」
ということになるであろう。

織りなす模様が単調であろうと複雑であろうと、
他人に評価されようがされまいが、事実は、ある人が織りなした、
その人の人生の模様であるということだけである。

その織りなす中で、人はその人自身の生きる意味と目的を
見い出すのであり、人との関わりの中で互いに影響し合いながら、
しかもそれぞれ独自の模様を形成していく。

模様自体を眺めれば、絶対的な正義も善もなく、同時に絶対的な
邪義も悪もない。
正義も邪義も、善も悪も、陽も陰も、優も劣も、真実も虚偽も
混然となって模様を為し、部分を見れば矛盾に溢れていても、
全体を見るならばそれはみごとに統合されて一幅の絵にさえ
見えるであろう。

あり得ない絶対を形而上的に創ったものが善なら神、
悪なら魔ということになるのだろうが、どちらも元をただせば
一体である。つまり人間であり、さらに探れば生命という
ことになり、それはそのまま遍満たる宇宙へと繋がるだろう。

自然に帰れとは、意味に囚われて本来の命の流れの一滴たる
ことを見失ってしまった人間に対して発せられた警鐘である。

カオスの中にあって無限の組み合わせの中で形成された
一つの形であるなら、その帰るところはまたカオスであるけれど、
その中で整然と形成される根本的な法則があることを覚知した時、
生まれ出る事、死に逝くこともありのままに受け容れられるの
かもしれない。

ともあれ、一つの形として形成されたその傾向とも言うべき
ものはそれ自体がカオスの中で消滅するものではない。
全く別のものに生まれ変わるわけではなく、絨毯を織り、
手を休めて、再び織り続けるように、連続している
ものなのである。

ただ、織っている時にだけ、自分なりの模様を為していく
ことが出来る。手を休めている間はそれは出来ない。
だから、自分だけが持つ傾向を変えられるのは生きている間
だけということになる。

何を考え、どう行動するのか。何を求め、何が求められて
いるのか。何を望み、何が望まれているのか。人それぞれ
異なっているなら、その意味も異なる。
つまり自分以外から与えられる意味などないのである。

生きていく中で何を己の満足とし、何を己の幸せとするのか、
それ自体が異なっているのである。

一日を織り続け、手を休めて眠りにつく。
目覚めればまた織り始める。その連続の中に様々な変化も
織り込んで、その人の模様が完成することなく永遠に形成されて
いくのである。

長い一日もあろう、短い一日もあろう。だがそんな事は
問題ではない。永遠の流れの中にあれば、完成というものは
そもそもあり得ない。
その変化の流動の中で、織る事と休む事を繰り返して
行くのみである。

ただ、ある一日の終わりに、その日織りあがった模様を眺めて、
少なからず満足できればその日は幸せな一日であったと
思えるのであろう。