無理押し、ごり押しでの断酒一年を過ぎる頃というのは、
飲んでいた頃のようなストレス解消の方法を突然喪失してから
一年を過ごしたわけで、それなりに抑うつ感というものに
つきまとわれていた。
あれほど酒浸りであった自分が、とにもかくにも一滴も
口にしないで一年を過ごしたというのは、どれほど大変な、
難しい事を成し遂げたことかと、自分で自分を絶賛して
いただろうし、家族にも周りにもそれを認めて
もらいたくて仕方がなかった。
いわゆる達成感と称賛が、唯一の開放的役割を
果たしていたものと考える。
ところが、だんだんと落ち着いてきて、冷静に見ることが
出来る様になってみれば、それは酒害による
マイナス要素を、それ以上悪化させない、
つまり進行を止め、少しずつゼロへと向かい出したに
過ぎないことに気がつくようになる。
無論本人ばかりではなく、家族も同じである。
長い飲酒の年月をかけて、徐々にマイナスへと
気がつかないうちに進んでいたことを思えば、
断酒したからといって、すぐにゼロになるわけではない。
プラスに転じたとはいえ、実際はマイナスの中での
話であって、借金であれば破産宣告で債務ゼロとなった
わけではなく、ようやく徐々に返済が出来るように
なったに過ぎない。
要するに、何年断酒したかということではなくて、
今の自分の位置が借金返済の位置なのか、
貸し借りゼロの位置なのか、徐々にでも貯金が出来る
ようになってきた位置なのかということである。
10年断酒しているからといって、未だに返済の位置に
いる人が、断酒10年を誇ったところで、詮がない。
但し、幸か不幸かは、その置かれている位置には
関係がない。
断酒3年でも、幸せを感じながら、返済をしていく人も
いるであろう。こればかりは本当に人それぞれであり、
断酒継続年数で判断できることではない。
さて、自分自身について言えば、未だに返済の位置で
あることは確かだが、今まで遠くて見えなかった
ゼロの位置がおぼろげに見えるようになってきた気がする。
そして改めて気づいたのは、そのゼロの位置に
辿り着いた時、何かほっと安堵できる達成感に包まれる
などというのは、夢想に過ぎないということだ。
それはつまり、お酒にコントロールされない、
お酒に対し主導権を握る本来の自分というものに
立ち戻ったに過ぎない。
もちろん、酒害体験、断酒の継続という、大きな経験は
上乗せされているが、元々の自身に戻ることが、そのまま
何か特別な大変革がなされたということにはならない。
至極当然のことである。
ひどく臆病で、他人の顔色ばかり伺っている人が、
お酒の力で大胆になり、粗暴になったとしても、
酔いが醒めれば元の臆病な自分に戻るのと大差ない。
今は、ゼロに辿り着いた時からこそが、本当の始まりで
あることがひどく現実味を帯びて実感される。
元々の自分に戻ったなら、その本来の自分が抱える課題、
問題を一つ一つやり遂げ、克服していく中で、
初めてプラスと転じる貯金の位置、つまり自己の変革や
成長が自身にも周りにも具体的に現れてくるのだろうと
思うのである。
「断酒何年」ぐらいしか誇ることが出来ず、
未だ返済の位置で、しかも不幸であるなら、これほど
惨めなことはない。
いかなる位置にあっても、幸せを感じることが出来るなら、
取り立てて断酒を論じる必要もなければ、何年断酒した
ということもどうでもよいことである。
本来の自分から一歩ずつ前進していく、その中に幸せを
感じることが出来るようになれば、その胸中には
「断酒何年」は片隅にも座を占めず、「たかが断酒」と
なるであろう。
いや、むしろ、「断酒」というものさえ朧となり、
無意識の底に「飲まない」がどっしりと腰を下ろした
状態なのであろうと思う。
飲んでいた頃のようなストレス解消の方法を突然喪失してから
一年を過ごしたわけで、それなりに抑うつ感というものに
つきまとわれていた。
あれほど酒浸りであった自分が、とにもかくにも一滴も
口にしないで一年を過ごしたというのは、どれほど大変な、
難しい事を成し遂げたことかと、自分で自分を絶賛して
いただろうし、家族にも周りにもそれを認めて
もらいたくて仕方がなかった。
いわゆる達成感と称賛が、唯一の開放的役割を
果たしていたものと考える。
ところが、だんだんと落ち着いてきて、冷静に見ることが
出来る様になってみれば、それは酒害による
マイナス要素を、それ以上悪化させない、
つまり進行を止め、少しずつゼロへと向かい出したに
過ぎないことに気がつくようになる。
無論本人ばかりではなく、家族も同じである。
長い飲酒の年月をかけて、徐々にマイナスへと
気がつかないうちに進んでいたことを思えば、
断酒したからといって、すぐにゼロになるわけではない。
プラスに転じたとはいえ、実際はマイナスの中での
話であって、借金であれば破産宣告で債務ゼロとなった
わけではなく、ようやく徐々に返済が出来るように
なったに過ぎない。
要するに、何年断酒したかということではなくて、
今の自分の位置が借金返済の位置なのか、
貸し借りゼロの位置なのか、徐々にでも貯金が出来る
ようになってきた位置なのかということである。
10年断酒しているからといって、未だに返済の位置に
いる人が、断酒10年を誇ったところで、詮がない。
但し、幸か不幸かは、その置かれている位置には
関係がない。
断酒3年でも、幸せを感じながら、返済をしていく人も
いるであろう。こればかりは本当に人それぞれであり、
断酒継続年数で判断できることではない。
さて、自分自身について言えば、未だに返済の位置で
あることは確かだが、今まで遠くて見えなかった
ゼロの位置がおぼろげに見えるようになってきた気がする。
そして改めて気づいたのは、そのゼロの位置に
辿り着いた時、何かほっと安堵できる達成感に包まれる
などというのは、夢想に過ぎないということだ。
それはつまり、お酒にコントロールされない、
お酒に対し主導権を握る本来の自分というものに
立ち戻ったに過ぎない。
もちろん、酒害体験、断酒の継続という、大きな経験は
上乗せされているが、元々の自身に戻ることが、そのまま
何か特別な大変革がなされたということにはならない。
至極当然のことである。
ひどく臆病で、他人の顔色ばかり伺っている人が、
お酒の力で大胆になり、粗暴になったとしても、
酔いが醒めれば元の臆病な自分に戻るのと大差ない。
今は、ゼロに辿り着いた時からこそが、本当の始まりで
あることがひどく現実味を帯びて実感される。
元々の自分に戻ったなら、その本来の自分が抱える課題、
問題を一つ一つやり遂げ、克服していく中で、
初めてプラスと転じる貯金の位置、つまり自己の変革や
成長が自身にも周りにも具体的に現れてくるのだろうと
思うのである。
「断酒何年」ぐらいしか誇ることが出来ず、
未だ返済の位置で、しかも不幸であるなら、これほど
惨めなことはない。
いかなる位置にあっても、幸せを感じることが出来るなら、
取り立てて断酒を論じる必要もなければ、何年断酒した
ということもどうでもよいことである。
本来の自分から一歩ずつ前進していく、その中に幸せを
感じることが出来るようになれば、その胸中には
「断酒何年」は片隅にも座を占めず、「たかが断酒」と
なるであろう。
いや、むしろ、「断酒」というものさえ朧となり、
無意識の底に「飲まない」がどっしりと腰を下ろした
状態なのであろうと思う。