ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

迷想

2008年10月30日 | ノンジャンル
周りには全社員がずらりと取り囲むように座る宴席。
いつになく心の底から嬉しい、楽しい場。

皆が笑顔で繰り返す「乾杯」。

手に持つグラスにはビール。
う~ん、うまい。ビールもうまいが、何より皆でこうして
乾杯しながら楽しく飲めることが嬉しい。
今この時は、何よりも大切な気がする。

また振り出しに戻って、一からの断酒となってしまったが、
悔いはない。
断酒は自身のため。だが、皆と一緒に過ごすこのひと時は
自分と皆のため。
本人の意志を、時には押し殺してともに喜びや楽しみを
分かち合うことも必要な場合もある。

もう飲んでしまっている以上は仕方がない。
潔く、今夜は楽しもう。
今まで飲まない私に、それなりに周りは気も遣ってきただろう。
こうなったからには、せめてともに心おきなく飲めば良い。

むしろ本人の意志としては、望んでいたことではないか。
今夜はとことん飲んで、また明日から断酒の仕切り直しだ。

それにしても、ビールを飲む私を見る皆の笑顔は何と
屈託がないことか。
飲んでこれほど喜ばれるのも珍しい。自分自身も嬉しく楽しい。

。。。と、偶然ケースワーカーさんに出くわす。
私が飲んだのを察していながら、
「○○さん、飲んでないでしょうね。」と白々しいことを
訊いてくる。
「え? 飲んれないれすよ。」とふざけてごまかすと、
「ハア~ってしてください。」 と詰め寄られ、ハア~っとすると、
「飲んでるじゃないですか!」と。。。

呆れたように、「もう仕方ないですね~。」と言いながら、
なぜか子供のいたずらをたしなめるような、優しい声。

「また明日から頑張ります。」と、内心は自分を咎めるところが
ありながら、今日は今日、明日は明日と、どこか開き直っている。

いやしかし、こんなに楽しいのは本当に久し振りだ。
忘れかけていたよ。
一度きりの人生、断酒、断酒と肩張ってばかりもつまらない。
こういうこともあってこその人生だ。良いも悪いもない。
俺自身の人生だ。

。。。と、ここで目が覚めた。 夢だったのである。

以前は、飲む夢をよく見ていた。夢の中ではいつもしまったと
後悔し、目が覚めるたびに夢でよかったと胸をなでおろした
ものだった。

飲む夢も見なくなって永らく経つが、今回のような、夢の中で
納得ずくで飲むのは初めてだと思う。
自分で自分の言うことに納得して飲んでいるのだから、
結構手が込んでいる。
目が覚めて、夢で良かったという感慨よりは、
なかなかそうは簡単にアルコールから離脱して、堅気の心に
なれるものではないなという自嘲にも似た思いがあった。

だが、夢に引きずられるほどやわでもなくなった。
夢は夢、現実は現実なのである。

ということで、今日も一日変わらずに断酒継続中です。



霊を叱る

2008年10月29日 | ノンジャンル
自分自身は、いわゆる霊感というものは皆無であり、これまで
それらしきものを感じたことも見たことも聞いたこともない。

その方面には鈍感であるようだが、基本的に霊や魂の存在を
否定はしないが、世間でいうオカルト的な対象としては
見ていない。

生きているということと、死ぬということを連続する波と捉えて
考えている私は、生を生命の顕在、死を生命の冥伏として
考えている。

つまり、具体的な生命活動を行うのが顕在、衰えて活動が
できなくなり、新たな顕在に転じるまで、力を蓄えるのが冥伏。

たとえば、朝目覚めて一日の活動を始めるのが生、
疲れ果てて眠りに落ちるのが死。
跳躍しようと屈むのが死、跳躍が生、と言えばわかりやすい
かもしれない。

生命の連続の中で生と死を繰り返しているとするならば、
その律動は永遠の正弦波とも言えるかもしれない。
0からプラスに転じた波が生、0からマイナスに転じた波が死。
上昇過程、頂点、下降過程、下死点、そして再び上昇過程へと
入ることを繰り返し、永遠に連続していく。

このように考えている私にとっては、生きている人間も、
冥伏している生命(霊魂)も、認識としてはさほど変わりはない。

生きている人間に心の貴賤や正邪がある以上、霊魂にも貴賤、
正邪があって当然なのである。

死者を弔うのは、ゆっくりと休んで、また元気に生まれて
来ますようにと祈るのであって、死者の祟りが恐ろしい
からではない。
具体的に動ける生者の方がよほど恐ろしいではないか。

生者が非道な事をすれば、これを責め、改めさせようとする
だろうが、同じように、死者となってまで呪うだの、祟るだの
ということがあるなら、その根性というか性根が気に入らない。

むしろ腹が立つので、今のうちに悔い改め、今度生に転ずる時は、
少なくとも人としてまともな最後を迎えられるように
奮闘努力する覚悟を迫りたいほどである。

自分にはまるで責任も原因もないような大きな勘違いをしながら、
その恨み辛みを化けて出て晴らしてやろうなどという腐った性根の
霊魂ならば、むしろ、叱り飛ばしてやる方がよほど弔いになる。

生きていてくれるだけでいいと、人から慕われ、想われる人で
あるなら、霊魂となっても人を見守る性根があるということである。
生者からの具体的な声や笑顔やぬくもりに励まされるだけではなく、
死者によっても、その人を慈しみ、見守る想いが、生きる者を
どれほど励ますことかしれない。
だからこそ、人は感謝の心で死者の霊を弔い、慰め、祈るのである。

呪うだの、祟るだの、そんな低俗な生命に翻弄されることの方が
バカバカしい。
いつでもかかってきなさい。
そのかわり、生命として対等に、徹底的にその歪んだ性根を
叱って叩き直して差し上げます。

という気構えでいる私には、むしろ寄り付かないであろうから、
これからも霊を見たり感じたりすることはないであろうと
思われるのである。





例会?霊会?

2008年10月25日 | ノンジャンル
先日、看護士さんに聞いたのですが、霊が出るそうです。
夜診が終わって、外が暗くなり、戸締まりに回っていると、
ノックの音が聞こえたり、 影が見えたり、
インターフォンが鳴ったり。。。

病院となると、少なからずそんな話を聞きますが、まあ、
この病院で亡くなった人はいないし、出るとすれば、
ミーティングや例会に出ようと集まってくるのだろうと
話していました。


例えば、死ぬ前にもういいだろうと飲んだ人は、死んでから
やっぱり反省して、また病院へ来ているかもしれないし、
死ぬまで飲まなかった人も、通院、例会がやはり大事だと、
なお通っているのかもしれません。

とすれば、別に怖くもなんともない霊だから、大丈夫ですよと
話をすると、納得されていました。

患者としてきているのに、看護士さんに怖がられたら、
心外というか、霊外ですね。(笑)




実感

2008年10月24日 | ノンジャンル
ふと夜中に目が覚め、身体の異変に気づいた。右腕がない。
ん?と左腕で右腕を触ると 確かにあるのだが、まるで感覚がない。
力を入れることもできず、動きもしない。
んん?と起き上がってみると、腕の重さは肩に感じながらも、
脇から指先までが完全にマヒしてしまっている。

少し頭痛がしたので、まずい、脳か?と疑うも、徐々にびりびり
とした痺れ感が腕に広がってきた。
どうやら、おかしな態勢で寝ていて、右腕が痺れを通り越して
完全にマヒしたようである。

痺れ感の間は、だらりと垂れさがった腕に力が少しも入らない。
手を握ることすらできないもどかしさと情けなさと中枢障害の
麻痺だったらという不安とで、何とも言えない焦燥感に
苛まれていた。

少し動かせるようになってくると、動かそうとする意識と実際の
腕の動きとのギャップに悶絶するような苦しみを感じる。
痛みはないが、思うように動かない腕一本で、これほどまでの
苦しさを感じるものかと正直驚いた。

これまでそうした障害の経験はなく、従ってリハビリの経験も
ないが、この苦しみを毎日毎日続けることの大変さを思うと、
とてもではないが耐えられそうにない。

徐々に感覚を取り戻していく腕に少し安心して、再び床につき、
血の巡りが良い体勢で眠った。
朝起きると、痺れはもうなくなっていて、少し腕のだるさは
感じたものの、別段のことはなく、特に異常も見られなかった。
長時間血液の循環が阻害されていたはずなので、神経や細胞に
なにがしかの弊害があるかもと考えていたので、安心した。

つまり、自分にとって「あたりまえ」の状態に戻ったのである。

身体に障害のある人について、想像の及ぶ範囲で大変だろうと
考えてきたのは、不自由さという面が殆どであったように思える。
欠損という形で失われた状態であっても、まだ具足しているような
感覚を持つと言われているが、実感することは当事者でない
限りできない。
まして、外見上は何ら変わりないのに、機能が全く失われてしまう
というのは、不自由さよりも精神的な苦しみの方が遥かに勝る
ということを、ほんの幾許かではあるが理解できたように思える。

その人の立場にたって物事を考えるというのは、ある面、
感性と想像力の世界ではあるが、やはり実際に体験する
ことには及ばない。
つまり、互いに心の底から共感し合うには、それぞれの差は
あるにしろ、実体験を基としなければ、難しいのかもしれない。

今、思い通りに動く身体を、「あたりまえ」と捉え、
わざわざ考えもしないでいられる者が、あたりまえで無くなった
体験をするとき、あたりまえのありがたさを理解し、
あたりまえでない苦しみを知ることになる。

今現在の自分を不幸だと嘆いて生きるのか、どんな状況であれ、
生きている今現在を感謝するのか。
やはり人の幸、不幸は、その人本人によって決まる
もののようである。


飛び込み

2008年10月18日 | ノンジャンル
いつもは待合室の外で、ぼんやりしながら考えるともなしに、
いろいろなことを考えていたりするのだが、たまたま、
もうそろそろ呼ばれるかなと待合室の中にいた。

と、そこに年配の男性が入ってきていきなり受付で受診を
申し込んだ。
もちろん初診である。
どうやら予約も何もしておらず、本当に飛び込みのような
形で直接病院へ来たらしい。

以前内科の医師から紹介を受けていたようではあるが、
一月も前とのこと。
一応、紹介状は持参してきていたようである。

温厚そうで、言葉も柔らかく、予約が必要ならまた出直すという
その男性にケースワーカーが一通りの話をして、診察日などを
決めていたようだが、飲んで酔っ払っている風でもないし、
わざわざ直接来たのだからと、少し気の毒になった。

足元がおぼつかないでいたのを危うく感じていたが、階段で転んで
足を打ち、しばらく処置室で様子を見た後で、なんと自転車で
帰っていかれた。

処置室にいる間、看護士さんに話すと言うより、独り言のように、
「もう、ビールが止まらへんねん。」「一日に10本も飲んでまうし、
酒屋の前通ったら、もうあかん。」などと呟いていたが、
「もう大丈夫や。」とふらふらしながらも、自ら立って歩いて
外へ出られた。

仮に診察して、処置するとしても、一人で来ているので帰すのは
危険であり、かといって 即入院というわけにもいかない。
そのあたりを踏まえて、改めて受診日や準備などワーカーさんと
話し合ったに違いない。

初めて病院へと来た日の午前中、私は意を決して電話をかけ、
その日に診てもらえるということを聞いて、一人病院へ行くつもり
であった。だが、心配していたカミサンとの電話のやり取りの後、
彼女も付き添って行くこととなった。
結果としては、処置の後には私は一人で歩ける状態ではなかったし、
彼女がいなければ医師も処置に困ったであろうし、どうなっていた
かはわからない。

どうにもならない自分を、飲みだすと止まらない自分を、
このままではだめだと、自ら病院へ足を運んだこの男性は、
必ず断酒による回復の道を歩んで行けるだろうと感じた。

自ら、「あかんねん俺は、どうにも。」と言いながら、病院へ
ともかくも一人で飛び込んできたその勇気と決断力と行動力は
大したものである。
ご年配であるからこそ余計に、立派なものだと感心させられた。
なかなか自力で専門病院へ繋がるということは難しく、あまり例が
ないのではないか。

よくぞ頑張って来られたものだと、なんだかおかしな話だが
肩を叩き合いたいような親近感を持った。
彼とは必ずまた病院で会えるだろう。そしてその人の良い挙措動作
そのままに、健康を回復してもらいたいと願うのである。

いつか、お話ができればきっと楽しいに違いない。
またひとつ、通院に楽しみができたようである。