ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

カジノ法

2018年10月31日 | ノンジャンル
今年7月、西日本で集中豪雨が続き大きな被害が
出ていた頃、国会ではIR実施法が可決され、
施行されることになった。

統合型リゾートということで、カジノ法という
言い方は誤解を招くとしているが、それならば
一昨年にIR推進法が施行されている。

災害のドサクサに紛れて可決されたIR実施法は、
つまりは、刑法で禁じられている賭博である
カジノを合法化するものである。

例えば、競馬や競輪、競艇などは、それぞれ
特別法によって合法化されているので、
賭博罪にはならない。

パチンコは風営法に依っているが、賞品との
交換という建前で、賭博罪を免れる合法性はない。
よって、現金交換はできず、賞品を現金に換える
という抜け道のような手順が必要となる。

現在のところ、国内に3か所、北海道、大阪、長崎が
誘致に名乗りを上げている。

いずれも、雇用の創出、経済効果を狙ったもの
だろうが、ギャンブル依存の対策を講じなければ
ならないとなれば、立派なカジノ法である。

さて、世界有数のカジノ市場と言えば、マカオ、
ラスベガス、シンガポールである。

日本を除く世界のカジノ市場規模が20兆円。
その3割を上記3ヶ所が占める。
とはいえ、カジノ市場はむしろ減退している。

日本は、驚くことにギャンブルで言えば
パチンコだけで20兆円に迫る。
その他の競馬、競輪、競艇などを合わせると、
その市場は25兆円規模になる。

世界でも飽和状態、日本でもすでに世界全体を
上回る市場規模がある以上、カジノ法が施行され、
統合型リゾートが国内3か所に誕生したとして、
どれほどの経済効果があるのかは甚だ疑問である。

何より、被災した人々を置き去りにして、
カジノ法を可決したことを、「決められる政治」
と自讃しているのが、現政権なのである。





希少価値

2018年10月28日 | ノンジャンル
およそ世の中で貴重、高価とされる物事は、
つまりは希少価値である。
要するに普通でなく特別という事に価値が
付加される。
逆に普通な事は、価格競争に曝され、
さらにその価値を失う。

日本のものづくりの減退が著しい。
いや、生産拠点の移換のみだとも言える。
が、それは人件費競争が主たる要因だ。
つまり自ら普通の道を選んだことになる。
普通の道なら、待っているのは更なる
価格競争である。

普通となるか、特別となるか、
それは紙一重の差である。
つまりどの道を選ぶかということだ。

普通は無難、特別は多難である。
無難の中なら石炭、多難の中なら
ダイアといったところか。

それでもその本質は変わらない、
同じカーボン、つまり炭素なのである。





AC

2018年10月24日 | ノンジャンル
広告機構ではない、アダルトチルドレンの話である。

端的に言えば、主な要因は、親の無償で無条件な
愛情を、受けるべき子供時代に十分受けられなかった
という事だと思う。

一番良いのは、親と共に、子供時代をやり直す
ことであるが、親が他界してしまえばそれも
できない。

幼くして母親を失い、預けられた親戚では虐待を
受け、実父の元に戻れたものの、継母の嫉妬で、
中学卒業と同時に家を出た家内は、いわゆる
ACに違いなかった。

そんな彼女を支えたのは、実の母親が本当に
優しい人であったと聞かされたことの確信である。

若くして結婚し、自分の子供を授かった時、
彼女の肚に座っていたのは、実の母親が
できなかったことを、自分の子供にするという
一点だったように思う。

私から見れば、甘やかすのではなく、束縛する
のでもなく、ごく自然に、一緒にいたという
感じがする。

自分の子供時代のやり直しをする間もなく、
忙しい日々を重ねる中で、私の酒害の問題で
またしても重荷を背負う事となった。

断酒して10年以上経って、子供たちも巣立って、
ようやく彼女は子供時代のやり直しを、今している
かのようである。

子供達がそうしていたように、毎日の様に私に
話をする。私は黙って聞いて、そうだねと、すべて
肯定する。彼女は、満足気に笑顔になる。

そんな日々を、今は積み重ねている。
最近は、本当に子供じゃないのかと思う事が
多くなった。

酒害で、余計な苦労をさせてしまった分、
彼女の話を聞く事や、滅多にないが、たまの
おねだりについては、無条件で叶える
事にしている。

共にいるのが親でなくとも、自分の子供時代を
やり直すことはできるのだと実感している。

笑顔になれば、彼女の心の傷がひとつ、
またひとつと、癒えていく。

そしてその笑顔を見る私も、ひとつ、
またひとつと罪を償う事になっているの
かもしれない。





一事が万事

2018年10月22日 | ノンジャンル
一事が万事という演繹法を適用できるのは、
不変・普遍の原理や法則であろう。

それは一つの発見であるかもしれないし、仮説として
それを万事でもって実証できたものかもしれない。

然るに、この一事を、一面と誤解し、それをもって
万事と曲解していることがいかに多いか。

物事であれ、人であれ、部分観をもってそれを
すべてとはできない。

あくまでも全体を見た上で、初めて部分観と
いうものが有効となる。

10の内、9まで悪い事をしてきた人が
ひとつ良い事をして、それに注目すれば
良い人になり、9まで良い事をしてきた人が、
ひとつ悪い事をすれば、悪い人に
なってしまう。

10の内のひとつの悪、あるいは善という事である。
これを踏まえず、ひとつの善と悪にばかり注目が
集まり、騒いでいるのが世の常である。

一事が万事とは、一事でもって万事を判断する
のではなく、万事をもって一事を証明するという
帰納法的な意味合いの方が強いのではないかと思う。

いや、殊に人との関りにおいては、万事の一事、
あるいは、万事が一事とする見方がどれだけ
できるかであろう。

今の世は、どうもこの一事、言い換えれば一面を
互いにあげつらって、批判し合い、争っているような
気がするのである。

一事による判断は楽であり、容易に決定的とする
ことができる。
万事を知るのは限りない忍耐強さを必要とし、
時にそれをもってしても、一事を判断できない
こともある。

ただ、言えることは、人類の発展の歴史は、
その限りない忍耐強さによって綴られて
きたのであり、安易な一事の判断によってでは
ない事だけは確かである。





下から目線

2018年10月19日 | ノンジャンル
新規事業部を立ち上げ、その責任者と
なったのが16年前。

独立採算を目指すという点で、業績はいわば
勝負である。

事業部のみならず、会社全体の経費割振りを
カバーして、最終的に利益を残せるかどうかである。

それは力士の星数と同じで、明確な勝ち負けの
世界である。
勝てば最大の称賛、負ければその存在自体を
疑問視される。

断酒して13年。立ち上げから断酒に至る3年間は
1勝2敗。つまり、断酒前の年は大負けであった。

断酒後の5年間は、2勝2敗1分け。結果だけ見れば
トントンだが、その間はある意味地獄だった。

文字通り、地べたを這いずり回るような屈辱と
苦悩と、自暴自棄になる自身との戦いの連続だった。
それを支えたのは、家族を守るという一点だった。

勝った年も、負けた年も、日々の努力に変わりが
あるわけではない。
むしろ負けの年の方が、苦悩する分、勝ちの年より
遥かに奮闘していると言える。

その奮闘をこそ理解し、励まし、労う組織というのは
理想である。利潤追求の組織においては、数字こそが
すべてなのである。

その後の8年間は7勝1敗。通算10勝5敗1分け。
目下5連勝中である。

さて、良い時も悪い時も心がけていることがある。
それは、常に自身の目線より上を向くことである。

上から目線というのは、つまり自身の目線より
下を向いている。

上を向くというのは、つまり下から目線である。
苦しい時ほど、上を向こうと心がけてきた。

地球の誕生より、現在に至るまで、太陽はその光を
変わらず降り注いできた。
上を向いて、その光を実感する時、また頑張れそうな
気がするのである。

涙がこぼれてもいい。上を向いていこうではないか。