ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

修学旅行

2011年10月31日 | ノンジャンル
ほとんど記憶が飛んだかのようなひと月を過ごし、
もう明日には11月となる。

今日の大阪の気温は25度。まるで初夏の陽気である。

6月以降の記事数はいずれも一桁。
それだけ凄まじい半年であったことを物語る。

日曜日には、息子が修学旅行で台湾へと旅立った。
空港まで車で送ったが、時代も変わったものである。

私の場合は、小学生の時は伊勢志摩。中学で長野。
高校で、長野スキー。大学では卒業旅行で富士へと行った。

娘も息子も、小学校は広島。 中学は北海道。
高校は娘がフランス。息子が台湾。

変われば変わるものである。

昔は、海外出張ともなれば、社員皆が激励の挨拶に
来たものだが、今では国内出張と変わらない。

これから、遠い将来にはパスポートさえ必要のない時代が
来るのかもしれない。

いつでも、どこでも、誰とでも自由に交流できる時代なら
それはそれで歓迎である。

地図の上の国境など、宇宙から地球を眺めれば何もない。
そんなあたりまえのことが、あたりまえの常識として
人類に定着するのもさほど遠い将来とも思えない。

子供たちが活躍する未来は、どういう姿なのであろうかと
想像するのも楽しいものである。

せめて、その夢見る未来を創る一助となれたなら嬉しい
限りである。

折角の海外への修学旅行なら、そうした夢創りの機会で
あって欲しいと願うのである。




愁い

2011年10月20日 | ノンジャンル
この季節、厳しい冬を予感させる微妙な肌寒さに、
誰しも一年の終わりが近いことを感じて、不安定に
なりがちである。

春の陽気の不安定さが緊張の弛む時のそれなら、
秋のものに感じやすい不安定さは、文字通り
緊張へと向かう時の心の不安なのかもしれない。

秋の心と書いて愁いと読む。

思えば、今年は愁うべきことが多く、この時期になって
長い吐息が出るのも仕方がないことかもしれない。

いくら嘆いたところで、また愁いたところで、
何かが変わるわけではない。

我々は、自らの無力を知りながらも、ひたすらに
今の自分の位置から一歩でも前へ進むことが
生きるということだと知っている。

自らを憐み、世間を嘆き、他人を呪い、酩酊の中で
自らを後退させていったことを、今、理性をもって
いやというほど思い知らされている。

だからこそ、比較、相対を憐憫、中傷、批判などという
安易な方向へと仕向けることは本来許されない。

自身の位置を冷徹に判断し、そこから、今から、一歩でも
前へと自身を仕向けていくことこそが肝要である。

自身の死がいつとは定かでないなら、前へ前へと
進み続けるしかない。
それは、死の瞬間さえも前へと向いた姿勢で迎える
ということである。

春も夏も秋も冬も、その原点の確認の節目に過ぎず、
己の覚悟を新たにする機会と見れば、愁いも嘆きもない。

むしろ、厳しい冬の前進に備えて、しっかり食べて動いて
おくべき時節なのである。




否定と肯定

2011年10月11日 | ノンジャンル
自分自身と向き合う際、否定を前提におくか、
肯定を前提におくかは、その人次第である。

今の自分を否定して、問題意識を持ちながら
頑張れる人もいれば、今の自分を肯定して、その頑張りを
維持、あるいは、さらに高めようとする人もいるだろう。

否定であれ、肯定であれ、前へを向いて進む、つまり、
その人の成長につながるなら、いずれでもよい。

それが後ろ向きな、つまり後退につながるなら、
否定も肯定も共に詮がない。

自分を否定して、ダメな奴だと嘆き、肯定すれば
このままで良いと自身を慰め、あるいは慢心する。

つまるところは、ただいまの自身の姿勢に
かかっているのである。

さて、世間を見るに、どうも自分自身に向き合う
というより、他者との比較、相対において、自分自身を
位置づけようとする傾向が大きい気がする。

比較相対というのは、自身の位置認識の上では
必要ではあるが、それを自身の評価に直接結びつける
ことは無意味である。

他者をいくら蔑み、あるいはこき下ろしたところで、
自分自身の位置が変わるわけではない。

逆に、他者をいくら羨み、あるいは尊敬したとしても。
同様に自分自身の位置は変わらない。

要するに、他者を軽んじ、あるいは敬い、自身を嘆き、
あるいは驕り、はたまた他者に罵られ、あるいは
褒められようと、向き合う自身がその位置から一歩でも
前へ進まんとする姿勢がないなら、何も変わらないのである。

他者を下げ、あるいは上げることによって、自身の位置が
変わると思い込んでいるものは、この事を心するべきである。

赤裸々な自身と向き合い、そこから一歩ずつでも
成長していこうというのは、相対、比較など及びも
つかぬほどの苦闘である。

その苦闘を避けていては、己の成長はない。
ばかりか、相対、比較に甘んじ、あの人よりはまし、
あの人のようになりたいで終わっていれば、
それは卑怯というものなのである。




ここから

2011年10月05日 | ノンジャンル
昔は良かったと言う人は、
今が悪いということである。

昔はひどかったと言う人は、
今が良いということである。

消すことも、変えることもできない過去なら、
良かろうが悪かろうが、「未来を創る今」には
関係がない。
関係があるのは、「過去の結果の今」なのである。

人間、常に「今が良い」といえる人は少ないであろう
けれど、今が一番と感じられることが、幸せなのかも
しれない。

ならば、遅いも、早いもない。

いつでも、どこでも、どなたでも。

今から、ここから、私から、なのである。




リバウンド

2011年10月02日 | ノンジャンル
6、7、8、9月と、数えるほどの少ない記事数で、
10月にはいった。

これまで、これほど少ない更新頻度の年はなかったことから
見ても、この4ヶ月間の過酷さが自分ながらよくわかる。

さて、今回は断酒一年についてである。

周りにもこの最も苦しい一年を無事に過ごし、あるいは
もうすぐ、まる一年を迎える人達がいるが、自身を振り返って
みても、無我夢中であった中にも、大きな波というか、
気持ちの浮き沈みに翻弄された一年であったように思う。

大体、季節の変わり目というのは、普通の人でも不安定に
なりやすい。 春先や秋の初めにおかしな事件が多いのも
そのせいであろう。

冬の厳しい寒さに耐え、暖かい春を迎える時期や、
夏の躍動の季節から、冬へと向かう予兆の季節ともいうべき、
秋に移り変わる時期は、人の心を不安定にさせる。

何事もそうであるが、困難、苦難を乗り越えた時が、
最も油断の隙ができる時である。

宴席を飲まずに乗り切った人が、家に帰ってホッと安堵した
時に飲んでしまうことはよく聞く話である。

夏の暑い中、テレビでもおいしそうなビールのコマーシャルが
繰り返される中、それを耐えて飲まずに乗り越えた時、
つまり、秋口が我々にとっては最も警戒するべき時期でもある。

風が冷たくなって、指先も冷たくなり、人肌が恋しくなる
この感傷の時期は、夏のリバウンドが強力に押し寄せる。
むしろ夏の盛りのときよりも、断酒にはエネルギーの要る
時期でもある。

このリバウンドの抑えがたい力を無理に抑えつけるのでは
気分まで滅入ってしまう。
うまくその力を別の方向にそらすというか、転嫁していく
ことが大切だ。

読書の秋、食欲の秋、スポーツの秋。
飲んでいた時はどれも無縁であったのだから、
何かを始めてみるのも有効である。

ともかくも、四季を通じて、一年を一通り飲まずに過ごせば、
その一年をまた繰り返していけばよい。

一年を飲まずに過ごした自身に、自信を持ってもらいたい。
そして、また繰り返す一年は、一年毎に決して同じではない、
自分で自分の変化をはっきりと見て取れる一年、一年で
あることを、知って欲しいと思うのである。